余計なことをしないでくださる?
「フィービー、今日はこっちで食べない?」
昼休みになった途端に斜め前の席から声を掛けられた。振り向けば、窓際のテーブルで数人の令嬢たちがこちらへ手招きしている。
教本を片付けながら頷こうとしたところで、すぐ隣からコゼットが顔を覗かせた。
「今日は私と食べる約束じゃない、忘れたの?」
「あら、そうだったかしら」
「そうよ。『明日なら』って言ってくれたでしょう?」
窓際から「またコゼットに取られた」と笑い声が上がった。コゼットは満足そうに私の腕へ手を添え、それから思い出したように顔を覗き込んでくる。
「そういえば今朝も遅かったわよね。また妹さん?」
「ええ。朝食をほとんど取らなかったの」
妹のディアナは今年で十五になる。本来ならこの学園へ通い始める年頃だけれど、屋敷の離れで暮らしているため外へ出ることは滅多にない。
ここ数ヶ月は以前にも増して癇癪を起こすことが多くなり、今朝も離れ付きの使用人がわざわざ私の部屋まで呼びに来た。
『お嬢様からも何か言っていただけませんか。昨日の夕食もほとんど残されましたし、このままでは奥様に叱られてしまいます』
結局、すぐ席を立とうとするディアナを宥めながらスープを半分ほど飲むところまで見届けていたら、始業の鐘に間に合わなかったのだ。
「フィービーって少し変わったわよね。妹さんに甘くなったのかしら?」
廊下へ出ながらコゼットが言う。
「甘やかしているつもりはないわ。昨日からろくに食べていないのに、放っておくわけにもいかないでしょう」
「それもそうだけれど……前のあなたなら朝からそんなことに付き合わなかったと思うの。ちょっと妬けてしまうわ」
思いがけない言葉に横を見ると、コゼットは何でもないことのように笑っていた。
コゼットとはもう何年も同じ学園に通っている。
けれど、友人のように話すようになったのはここ数ヶ月のことだった。
『こうしてお友達になれて良かった。私、ずっとあなたに憧れていたから』
親しくなってから一度、コゼットにそう打ち明けられたことがある。
『そうだったの?』
『そうよ。だってあなたは華やかで、いつも人の輪の中心にいたでしょう? 私の理想そのもので……。でも前のあなたならきっと、私とこんなふうに話してくれなかったと思うわ』
少し寂しそうに笑ってから、コゼットは続けた。
『挨拶してもすぐ行ってしまうし、話しかけても必要なことしか返してくれなかったもの。私、昔は地味だったでしょう? だから服も髪も少しずつ勉強したの。あなたの隣にいても恥ずかしくないようになりたくて』
そう言われても、正直なところ私には覚えがない。
ただ、彼女が私に憧れていたというのは本当の話らしい。コゼットの頭には見覚えのある髪飾りが揺れていたし、私が薄紅色のリップをつけていけば数日後にはよく似たものを選んでいた。昼食で好んで飲むお茶を尋ねられたと思えば、次からは彼女のテーブルにも同じ茶葉が並ぶようになったこともある。
『だって、フィービーの選ぶものなら間違いないでしょう?』
懐かれているのだと思えばあまり悪い気はしなかった。それに最近はコゼットに限らず、これまであまり話したことのなかった相手と昼食を取ることも増えた。授業の愚痴や流行りの菓子の話をしているだけなのに気が付けば昼休みが終わっていることもある。
そんな他愛のない時間が好きだった。あと少しで卒業してしまうのが惜しいと思えるくらいには。
ただ、コゼットはそれをあまり面白く思っていないようだった。
『今日は私と食べない? 昨日はあの子たちと一緒だったでしょう?』
そう誘われることが増え、別の友人と話している最中でも当然のように隣へ入り込んでくるようになった。
『せっかく仲良くなれたんだもの。もう少しくらい私を優先してくれてもいいでしょう?』
冗談めかして笑うから、初めのうちは私も深く考えなかった。友人とはそういうものなのだと思い込んでいたからかもしれない。
コゼットはとにかく私のことを何でも知りたがった。
好きなお菓子。苦手な授業。休日の過ごし方。母との関係。そして——妹のこと。
そのうち私について尋ねるためにコゼットへ声をかける者まで現れた。
我が家はかつて呪術によって名を上げ、人々から畏怖されたミスティ家の傍流にあたる。とはいえ今の我が家に伝わっているのは古い術式がいくつかある程度で、かつての本家のように呪術を巧みに扱っているわけではない。
それでもミスティの名が持つ印象までは、そう簡単には消えなかった。
初めて名乗れば一瞬だけ相手の表情が強張ることもあるし、屋敷では何をしているのかと陰で噂されることもある。両親がことさら社交を重んじて私を人前へ出したがったのも、そんな古臭い印象を少しでも払拭したかったからなのだろう。
その甲斐もあってか、学園では家名を理由に避けられることはほとんどない。
けれど、興味まで失われたわけではないようだ。表立ってミスティ家のことを尋ねるのは憚られるらしく、私と親しくなったコゼットへ探りを入れる者が出始めたのだ。
『ねえコゼット、フィービーって普段はどんな感じなの?』
『婚約者のトビアス様とは、本当に仲がいいの?』
初めのうち、コゼットはそんな質問を曖昧に笑ってかわしていたはずだった。
それなのに、いつからだったかしら——。
『フィービーのことなら何でも聞いて。私、かなり詳しいのよ』
以前なら輪の外で笑っていることの多かったコゼットが、私の話になると皆の視線を集める。そんな時だけはいつもより少し声が弾んで聞こえた。
憧れているとまで言ってくれたのだもの。友人だし、そのくらいは好きにさせておけばいいと思っていた。
*
「今度の休みにディアナ嬢のところへ顔を出そうと思うんだ。君から何か伝えることはある?」
放課後、迎えに来たトビアスはいつも通り穏やかにそう尋ねた。
艶のある濃茶の髪をきっちりと整え、制服には皺ひとつない。成績は常に上位で教師からの信頼も厚く、家同士の付き合いから結ばれた婚約とはいえ、相手が彼であることを羨ましがられることも多かった。
「特には。今朝はあまり食欲がなかったようなので、様子だけ見ていただけますか」
「ああ。新しい画集も持ってきたんだ。この前のものは随分気に入っていたようだから」
トビアスは昔からディアナのところへよく足を運んでいる。人との会話が難しい妹のために、筆談の相手を買って出てくれているのだ。
会話が難しい、というのは物理的な問題だ。ディアナは生まれつき舌がうまく動かずひどく舌足らずだったから。
文字なら問題なく意思疎通できるものの、人前でうまく話せない娘を両親は外へ出したがらず、今では屋敷の離れで暮らしている。
もちろんそんな事情は外へ明かしていない。世間では生まれつき身体が弱く、静養のため人前へ出られないことになっていた。
「トビアス様は妹さんのことまでよく気にかけていらっしゃるのね」
一緒に校門へ向かっていたコゼットが感心したように口元を綻ばせる。
「私だったら婚約者の妹さんだからってそこまでできないかも。画集まで好みに合わせて選んでいらっしゃるんでしょう?」
「フィービーが大切にしている妹だからね。僕にとっても他人じゃないよ」
さらりと答えるトビアスに、コゼットはますます感心したようだった。
こんなに素敵な婚約者がいて羨ましい、と彼女には以前にも言われたことがある。実際トビアスは家柄や成績だけでなく、婚約者だからと馴れ馴れしく距離を詰めてくるような人でもなかった。長く婚約関係にあるけれど、私の許可なく手に触れたことすらない。そのことを話した時なんて、コゼットは「今時そんな誠実な方がいるのね」と目を輝かせていたものだ。
「でも、ずいぶん頻繁にいらっしゃるのね。この前もディアナさんのところへ行ったと仰っていなかった?」
「そうだったかな」
トビアスは少し考え、それから笑う。
「話し相手が少ないからね。本を持っていけば喜んでくれるし、僕もつい甘やかしてしまうのかもしれないな」
「私もありがたいわ。ディアナは人と接する機会がほとんどないもの」
私がそう返すと、コゼットは何か言いたげにこちらを見たもののそれ以上は口にしなかった。
「それじゃあフィービー。僕は先に行くよ」
「ええ。また明日」
正門を出たところでトビアスと別れる。
去り際、風に乗った甘い香りが鼻先を掠めた。
——昔から変わらない香水。
どうにも私は、あの匂いだけは好きになれなかった。
*
コゼットが私の家庭について頻繁に口を出すようになったのは、それから間もなくのことだった。
「ねえ、やっぱりおかしいと思うの」
昼休み、人の少ない中庭まで私を連れ出すと、彼女は随分と思い詰めた顔で切り出した。
「妹さんのことよ。いくら身体が弱いとはいえずっと離れで暮らしているんでしょう? そのうえ世話まであなたに任せきりだなんて、ご両親は何とも思わないの?」
「別に押し付けられているわけではないわ。私が好きで様子を見に行っているだけよ」
「でも、この前だってそのせいで遅刻したじゃない。それに聞いたわ。妹さんが会いたいからって我儘を言って、トビアス様はあなたとの約束を断ることもあるんですって?」
誰からそんな話を聞いたのか。
思わず眉を寄せると、コゼットは責められたと思ったのか慌てて両手を振った。
「違うの、あなたを責めたいわけじゃないのよ。ただ心配なだけ。フィービーは優しいから、ご家族にもトビアス様にも遠慮しているんでしょう?」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、我が家には我が家の事情があるの。あまり気にしないで」
「そうやってまた全部自分で抱え込むのね。……あなたが平気だと言うならこれ以上は言わないけれど、無理だけはしないでね」
コゼットは困ったように笑う。それで話は終わったのだと思っていた。
ところがその日のうちに数人の友人から「何か手伝えることはないか」と声をかけられた。
数日後にはトビアスからまで、コゼットに相談を受けたのだと聞かされた。
「悪気はないと思うよ。君が苦労しているように見えて放っておけなかったんだろうから。ただ、君がやめてほしいと言っているなら話は別だ。必要なら僕からも言おうか?」
相変わらず穏やかな人だ。こちらの不満にはきちんと耳を傾けて寄り添う姿勢を見せてくれる。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。私からきちんとお話ししますから」
「分かった。君ならその方がいいだろうね」
トビアスはそれ以上口を出さず、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
それからしばらく、コゼットが家庭のことを尋ねてくることはなくなった。ようやく分かってくれたのだと、私もそう思っていた。
けれど彼女は、諦めたわけではなかった。
*
「フィービー。少し話があるの」
放課後、コゼットが珍しく真剣な顔で私の席までやって来た。
いつものような明るさはない。私が心配で仕方ないのだと、そんな顔をしている。
「ここでは話しづらいから、場所を変えてもいい?」
しばらく家庭のことには触れてこなかったから、ようやく分かってくれたのだと思っていたのに。
——親友のような顔をして、まだ踏み込もうとするらしい。
連れて行かれたのは、今は使われていない音楽室だった。扉を閉めるなりコゼットは周囲に誰もいないことを確かめてから振り返る。
「実はね。うちで働いている使用人の中に、以前あなたの家にいた人がいるの」
一瞬、呼吸が止まりかけた。思い当たる人がひとりいたから。
「この前、家であなたの話をしたのよ。妹さんの世話で学園にも遅れることがあるって。それを聞いた侍女の一人が、昔ミスティ家で働いていたことがあると言い出して……」
そこまで聞いて、机に置いていた指がわずかに強張った。
「その人、昔はディアナさんのお世話をしていたんですって。ほんの短い間だったらしいけど」
「そう。……それで?」
「ディアナさんから何度も手紙を渡されたそうよ。……助けてほしいって」
窓から差し込んだ夕陽が伸びた影を作る。
沈黙を埋めるように、外から運動場に残った生徒たちの声が微かに届いた。
「内容までは詳しく教えてくれなかった。でも、その手紙が奥様に見つかって、ほどなく屋敷を辞めることになったそうよ。ディアナさんは妄想癖が激しいから書いてあることを真に受けてはいけないって言われたらしいけど……その人、今でも気にしていたの。本当に全部が妄想だったのかって——」
「昔からそうなのよ」
最後まで聞き終える前に、思わず口を開いていた。
「ディアナは空想と現実を混同することがあったの。だから母も随分困っていたわ」
「でもね、フィービー。その手紙にはあなたのことも書かれていたんですって。それだけじゃない。トビアス様の名前もあったそうよ」
——やっぱり、あの人だったのだ。
幼いディアナの世話を嫌がらず、根気強く文字を教えてくれた人。
ディアナがようやく気を許し、たった一度だけ自分から助けを求めた相手。
まさか、こんなところで繋がってしまうなんて。
「コゼット」
「私、最初はあなたが妹さんのせいで苦労しているんだと思っていた。でも違うんじゃない? それに最近のあなた、本当に変なのよ。前なら妹さんのために遅刻なんてしなかったし、私のことだって——」
「……余計なことをしないでくださる?」
彼女の言葉を遮った声は、自分で思っていた以上に低い音だった。
普段とは違う空気でも感じ取ったのか、コゼットが目を瞬かせる。
「……フィービー?」
「何度もお願いしましたよね。我が家のことには口を出さないでほしいと。それなのにあなたは私を心配している顔で私の事情を友人たちに言いふらして、トビアス様にまで相談したそうじゃありませんか。今度は昔の使用人から聞いた話まで持ち出して、私の家族に何かあると決めつけるなんて」
「決めつけてなんかいないわ。だから確かめようとしているのよ。もし本当に何かあったなら放っておけないでしょう? それに私はあなたの友人だから——」
「本当に、私のためだと言えるの?」
コゼットの言葉が止まった。
「私のことを触れ回っているあなたはいつも愉しそうにしていたわ。注目を浴びることができて気持ち良かったのかしら」
「そんな言い方……!」
「あなたが私を案じてくれていることは十分に分かったわ。でも、相手がやめてほしいと言っているのに続けるのであれば、それはもう親切とは呼ばないの。ただの大きなお世話よ」
コゼットの頬にさっと赤みが差した。
すぐに何か言い返そうとしたものの、思い当たるところでもあったのだろう。少しだけ待ってあげたけれども、唇を開きかけたまま結局言葉は出てこなかった。
「これ以上、私にも家族にも関わらないでちょうだい。迷惑だわ」
それだけを告げて、私は音楽室を出た。
翌日から、コゼットが私の近くへ座ることはなくなった。
昼食を共にする相手に困っている様子はない。廊下で誰かと笑い合っている姿も見かけたし、露骨に仲間外れにされているわけでもなかった。
それでも以前とは少しだけ違う。
私のことを尋ねるために彼女を呼び止める者はいなくなり、誰かが込み入った話をしているところへコゼットが加わると、いつの間にか別の話題へ移っていることもあった。
私を心配していただけなのに拒絶された、と何人かには話したらしい。
とはいえ、私が何度もやめてほしいと頼んでいたことを知っている人も多い。親切を理由に人の事情へ踏み込み本人の知らないところでそれを他人へ話す娘に、自分のことまで詳しく知られたいと思う者は多くなかったということだろう。
みんな大人だから、誰も彼女を表立って責めはしない。以前よりほんの少しだけ距離を置くようになっただけだ。
私もそれ以上干渉するつもりはなかった。
人の輪から外れることを恐れるようになったコゼットなら、これ以上我が家のことを嗅ぎ回ることもないだろうから。
*
「大変だったね」
放課後の談話室。事情を聞いたトビアスは労わるような目を向けてくれた。
「コゼット嬢は君に頼られたかったのかな。随分と懐いているみたいだったから。ディアナ嬢のことも、その使用人とやらの話を真に受けて変に勘繰ってしまったのかもしれないね」
「まるで私がディアナを虐げているとでも言いたげでしたわ。……トビアス様は、私のことを疑わないのですね」
「疑う理由がないよ。君がどれだけディアナ嬢を大切にしてきたか、僕は昔から知っているんだから」
——昔から。
その言葉とともに、甘い香水の匂いが甦るようだった。
「もうすぐ僕たちも卒業だ。そうなれば、コゼット嬢と顔を合わせる機会も減るんじゃないかな」
「そうですね。これを機に、彼女も少し人との距離の取り方を考えてくださればいいのですが。決して悪い方ではないと思いますから」
「あそこまでされたのにそんなことを言うなんて、前より少しおおらかになったのかな」
トビアスは呆れたように笑い、それから少しだけ居住まいを正した。
「最近の君はより一層魅力的だから……卒業したら、なるべく早く結婚したいと思うようになったんだ」
思いがけない言葉に顔を上げる。
いつも落ち着いている彼が、珍しく気恥ずかしそうに頬を掻いていた。
「僕たちも正式な時期を決めていい頃だろう? ディアナ嬢のことが心配なら、結婚したあとも今まで通り気にかければいい。ご両親が許してくれれば僕たちの屋敷に招いたっていいんだから」
そう真っ直ぐにディアナの将来まで考えてくれる彼は、誰から見ても申し分のない婚約者だった。
——少なくとも、フィービーにとっては。
『トビアス様はとても誠実な方なのよ。婚約者だからって馴れ馴れしく触ったりしないの』
『手を繋ぐのだって、結婚してからで十分だと言ってくださるのよ。私のことを本当に大事にしてくれているの』
そんな話をするときのフィービーは、いつも幸せそうに笑っていたっけ。
「ありがとうございます」
その笑顔を思い出しながら、私も同じように口元を綻ばせる。
「でも、急なお話でまだ心の整理がつかないのです。少し考えさせてくださいね」
彼女ならきっと心から喜んだだろう。
トビアスのことを、純粋に慕っていたから。
*
日が傾き始めた頃、私は屋敷の離れへ向かった。
本邸から庭を抜けた先、木々に隠れるように建つ二階建ての小さな屋敷は十五年前からほとんど姿を変えていない。
玄関にいた使用人へ声をかけ、そのまま二階へ上がる。廊下の一番奥にある部屋には鍵こそ掛かっていないけれど、ここを訪れる者は昔から限られていた。
「ディアナ。入るわよ」
返事がないことなんて分かっている。
構わずにそのまま扉を開けると、窓辺の机に座っていた少女がこちらを振り返った。
私とよく似た薄紅色の髪に小柄な身体と大きな瞳。
まだ少し幼さの残る顔が、私を見るなり強張った。
机の上には何枚もの紙が散らばっている。
手近な一枚を拾い上げると、見慣れた整った文字が紙いっぱいに並んでいた。
『私はフィービーです』
もう何度見たかも分からない文章だ。
『ここにいるのはフィービーです。今、フィービーのふりをしているのはディアナです』
同じものを父や母にも渡したらしい。
ディアナに関心のない父はまともに読もうともせず、母も最初こそ目を通したものの、最後まで読み終えると深いため息を吐いた。
『今度は優秀なお姉様になったつもりなの? そんなことばかり考えていないで、少しは落ち着きなさい』
そう諭しているのを目にしたときは、思わず笑い飛ばしてしまいそうになったっけ。
でもそれも仕方ないのよ。だってディアナは、現実と空想の区別がつかなくなることがあるのだから。
そういう娘にしたのは、ほかでもないあなたたちだけれど。
「今日もたくさん書いたのね」
紙を元の場所へ戻すと、少女は椅子から身を乗り出し、必死に口を動かした。
「でぃ……、か……え、て……」
全ての事情を知っている私だから何を言おうとしているのかは分かる。けれど初めて聞く人間なら、途切れ途切れの不明瞭な音から意味を拾うことなど難しいだろう。
それでも以前より少しだけ形になった音を聞きながら、私は素直に褒めてあげた。
「さすがだわ、お姉様。私なんかよりずっと早く上手になっているじゃない」
かつて私のものだった顔が、くしゃりと歪んだ。
*
物心ついた頃から声を出すのが嫌いだった。
何かを伝えようとしてもまず聞き返されたからだ。
『なぁに? もう一度言って』
『ゆっくり喋ってごらんなさい』
何度繰り返しても伝わらなければ、相手はやがて困った顔をする。
幼い頃は母も付き合ってくれていたけれど、それも長くは続かなかった。
私の二つ上にはフィービーという優秀な姉がいたからだ。
よく喋り、よく笑い、教えられたことはすぐに覚える。客の前へ出せば可愛らしく挨拶をして、招かれた夜会では呪術の家という陰気な評判など忘れさせるように軽やかに踊る。
父も母も、そんなフィービーをことさら人前に出したがった。
『おまえはミスティ家の娘なのだから、いつでも堂々としていなさい』
『もう少し笑って。せっかく綺麗な顔をしているのだから』
フィービーは両親の期待に見事に応えていた。少なくとも、人前では笑顔を絶やさなかった。
『ディアナ、調子はどうかしら』
彼女が部屋を訪れる時、決まってその白い手は刺繍籠を持っていた。
母から習ったばかりの花の図案を得意そうに広げてみせ、友人に褒められたのだと自慢げに語り、手慣れた仕草で一本の針を摘まむ。
『さぁ、腕を出して』
逆らえば髪を引かれた。それでも嫌がると、今度は私が大切にしている本や小物を壊された。
だから最後には言われた通り腕を差し出すしかなかった。
服で隠れる場所に細い針が沈み、白い肌に小さな赤い点が増えていく。フィービーはそれを眺めながら、刺繍の出来栄えを確かめる時とおんなじような顔で微笑んだ。
『大きな声を出したら駄目よ。お母様が心配するでしょう?』
大きな声を出したところで、癇癪を起こしていると思われるだけだと知っているくせに。
その日、フィービーが帰ったのを見届けてから私に文字を教えてくれた使用人に紙を差し出した。
『お姉様が針を刺すの』
『大切なものを壊されるの』
『誰にも言わないでと言われたわ』
彼女は何度もその紙と私の顔を見比べる。
家族のように「気を引きたいだけでしょう」と笑ったりはしなかった。袖の下まで確かめたあと、分かったからここで待っていてください、と言って部屋を出ていった。
その日の夕方には母が離れへやって来て、私の書いた紙を一枚ずつ読んだ。
『フィービーがそんなことをするはずがないでしょう。誰かに構ってほしいからといって、こんな嘘を書いてはいけませんよ』
紙を置いた母は、怒るというより困り果てた顔をしていた。
傷を見せようと袖へ手を掛けても「もういいわ」と顔を逸らす。
何度言葉にならない声で訴えても振り返ることなく、そのままさっさと部屋を出て行ってしまった。
あの使用人はほどなく屋敷を辞めた。
私が妙な妄想を吹き込んだとでも思われたのか、これ以上家の醜聞に触れられるのを恐れたのかは分からない。
ただそれ以降、私の書くものをまともに読もうとする人はいなくなった。
フィービーが離れへ来なくなったわけでもない。
母が私の訴えを退けたと知った次の日も、フィービーは機嫌よく刺繍籠を提げて離れへやって来る。
それでも彼女は家族から愛されていた。
私より何倍も優秀で、美しくて、夜会の華になる娘だったから。
——そんなフィービーにも婚約者があてがわれて。
トビアスと名乗った彼が離れへ来るようになったのは、いつからだっただろう。
『ディアナ嬢は文字なら話せるんだろう? 僕が相手になるよ』
最初にそう言われた時は素直に嬉しかった。
あの使用人がいなくなってから、私の書いたものをまともに読んでくれる人はいなかった。そんな中でトビアスだけは持ってきた本について感想を書けばきちんと返事をくれたし、私の字が綺麗だと褒めてくれた。
だから彼が訪れるのを待ち望んでしまったし、使用人たちも気を利かせて席を外すようになって。
いつしか、トビアスと二人きりで過ごすことにも何の疑問も抱かなくなっていた。
——あの日までは。
『フィービーは潔癖だからさ、彼女にはこんなことはできないんだよね』
その日から、甘い香水が嫌いになった。
あんな男と縁続きになるくらいならと、フィービーにも訴えた。
姉は手紙を読み終えると、不思議そうに眉を寄せただけだった。
『変なことを言うのはやめて頂戴。トビアス様がそんなことをするはずがないでしょう?』
両親にも使用人にも助けを求める手紙を書いた。
けれど一度「妄想ばかり書く娘」と決めつけられてしまえば、その後に何を書いたところで同じだった。
——こんな生活から抜け出したいからと言って、死にたかったわけじゃない。
学園へ行ってみたかった。街を歩いて自分で服を選んでみたかった。食事を残したくらいで使用人が姉を呼びに行くのではなく、嫌いなものくらい嫌いだと自分の口で言ってみたかった。
そんな当たり前のことを、諦めたくはなかった。
私が最後に縋ったのは、離れに残された古い書庫だった。もともとこの離れは一族が術式の研究に使っていた建物らしく、書庫には今では顧みられなくなった古書がいくつも置き去りにされていた。
その中には、とうに失われた術式もいくつか記されている。
人を呪うもの。災いを遠ざけるもの。そして——目の前にいる相手と、自らの肉体を入れ替えるもの。
幼い頃にはほとんど意味が分からなかった。それでも何年も読み返すうちに、少しずつ内容を読み解けるようになって、必要なのは、対象と向かい合い、決められた呪文を最後まで正確に唱えることだと分かった。
他の人間なら呆気なく思えるほど簡単な条件だったのかもしれない。
けれど私にはそれが何よりも難しかった。
鏡の前で舌の位置と唇の形を確かめ、一音ずつ何度も繰り返す。正しく発音できているのか確かめてくれる相手はいない。古書に残された発音の記号だけが頼りだった。
それでも何年かかったって構わない。
生まれてから十五年、誰にもまともに届かなかった私の声を一度だけ正しく届けられればいい。
そんな私の執念は、数ヶ月前にようやく結実した。
いつものように刺繍籠を抱えてやってきたフィービーを前に、私は初めて一度もつかえることなく、あの呪文を唱えきったのだ。
目を開けた時。
目の前には——目を見開く私の顔があった。
『……あ』
驚くほど簡単に音が出た。
『お姉様』
そう呼ぶだけなのに、舌には何にも引っかからない。
たった一言を誰かに伝えるために、あれほど苦労したというのに。
フィービーの身体は、あまりにも簡単に私に言葉を与えてくれた。
*
「今日は何を書いたの?」
問いかけると、フィービーは震える手で紙を差し出した。
『戻して』
その下には、『お願い』と続いている。
「嫌よ」
フィービーは何度も首を振り、何かを訴えようと口を動かす。喉から漏れる音は形にならず、昔の私がそうだったように伝わらない焦りだけが顔に浮かんでいた。
「だって学園が楽しくて仕方がないんですもの。……そうそう。お姉様は人付き合いには慎重だったのね。最近になって少し分かってきたわ」
誰とでも話せることが嬉しくて、初めのうちはそんなことを考えもしなかった。
「誰をそばに置くのかは、ちゃんと考えないといけないものね」
机の端に置かれた紙へ目を落とす。
『トビアスを入れないで』
文字は途中から乱れていた。
「そういえば、もうすぐトビアス様がいらっしゃる時間ね」
フィービーの肩が跳ねる。
椅子から立ち上がろうとして足をもつれさせる。
その様子を見下ろしながら、私は机の上の紙を整えて隅に寄せた。
「大丈夫よ。あなたが何を書いても誰も本気にしないわ」
廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
フィービーも気付いたのだろう。顔から血の気が引いていく。
「そんなに怯えなくてもいいでしょう。トビアス様はとても誠実な方なんだから。私には指一本触れないのよ?」
かつて何度も聞かされた言葉を返してやる。
フィービーは唇を震わせ、必死に何かを伝えようとしている。
「焦らなくても大丈夫よ」
私は椅子の背に掛けてあった上着を取り、扉へ向かった。
「お医者様も言っていたのでしょう? 練習を続ければ、少しずつ喋れるようになるって」
同じ術を使うには、入れ替わる相手が目の前にいなければならない。
もちろん、フィービーが同じ術に辿り着くまでここにいてあげる義理はない。
離れに残された古書の知識があれば、これから自分の力で生きていく方法くらい見つけられるだろう。
なにより今の私には、自分の足で好きな場所へ行き、言いたいことを自分の声で伝えられる身体があるのだから。
「大丈夫よ。あなたもきっと、言いたいことくらい誰かに伝えられるようになるわ」
扉へ手を掛けてから、振り返る。
「あなたは昔から優秀だったもの。私よりずっと早いかもしれないわね」
フィービーの瞳が大きく見開かれる。言葉にならない声でわめきたてる。
私は構わずに廊下へ出ると、ちょうど階段を上がってきたトビアスと目が合った。
「フィービー。来ていたのか」
彼はいつもの穏やかな笑顔を浮かべている。
その手には、新しい本と小さな菓子箱があった。
「ええ。少し妹の様子を見に」
「本当に君は妹思いだね。……それじゃあ僕も、少し話し相手になってくるよ」
甘い香水が、すれ違いざまに鼻先を掠めた。
私は一歩横へ退き、彼のために道を空ける。
「ええ。私は少し用事を済ませてきますから。ディアナのことをお願いいたしますね」
素直に頷いた彼が部屋へ入る。
扉が閉じる寸前、こちらへ伸ばされた細い指先が見えた気がした。




