鏡台
きゃあ。
亡くなった祖母の、古い鏡台の引き出しを引っ張ったり押し込んだりすると、妙な音がすることに気が付いたのは、中学を卒業する、少し前のことだった。
卒業式に、こっそりと口紅をつけて行きたくて、かといって、母の化粧ポーチを開ける勇気はなかった。祖母の物を使えばいい、と思い立ち、引き出しを開けたときその音は聞こえてきた。今思うと、祖母が亡くなったのは小学生のときだったし、仮に祖母の化粧道具が残っていたとしても、そんないつのものか分からないものを口に塗るなんて、と鳥肌が立つ行為なのだが、あのときは、当時好きだった男の子に告白する勇気が欲しかったのだ。
閑話休題。
何かが引っ掛かっているのか? と、引き出しを全部引き抜いてみるも、それらしきものはない。
というかそもそも、引き出しそのものの重さがあって、多少は力がいるものの、引き出しを開けること自体には苦労しないから、何かが引っ掛かっているとは思えないのだが。
祖母の鏡台は随分と古い。三面鏡ではなく、長方形の上の部分だけが湾曲している大きな鏡に布がかけられている。木製の鏡台は、椅子に座って、ではなく、床に直接座って使うことを想定されている高さのものだ。引き出しは真ん中に、横に細長いものが二つ。その両隣に、左右対称の形で引き出しが上下に分かれている。計六つの引き出しがあった。
真ん中の、細長い引き出しの一番上に化粧道具が入っているのは分かっているが、他の引き出しに何が入っているのかは知らない。
目的のものが手に入ればよかったし、必要以上に死者の私物を探るのは、なんだか気がとがめた。
んふふ。
引き出した引き出しを戻すと、まるで人の笑い声のような音が聞こえた。びっくりしたものの、なんだか気の抜けた音でもあった。空気が押し出されて、そんな風に聞こえたのかもしれない。
わたしは気にせず、祖母の口紅を探す。部屋の外に耳を傾けながら。引き出しの音なんかよりも、この部屋に誰か来ないかの方が心配なのだ。
今日、祖父母の家には一人で勝手に来た。誰にも内緒。祖父母の家の合鍵はどこにあるか知っていたし、祖父が不在なのも知っていた。なんなら、わたしの家族も、わたしの家にいない。こんなタイミング、滅多にない。早く口紅を探して、家に帰らないと。走ればすぐ着く距離にわたしの家があるとはいえ、何かイレギュラーがあるかもしれないので、口紅を持っていくのは一秒でも早い方がいい。
「どれにしよ……、これかな」
数本の口紅の中から、一番新しそうな、少しピンク色に近い赤の物を選んだ。真っ赤なものよりは、派手にならないかと思って。
「よし――」
いいの。
引き出しを閉めると、そんな音が聞こえた。音――音か? 先ほどまでの引き出しが閉まる音とは違い、明らかに、人の声のように聞こえた。
もしかして、祖父が帰ってきたのか、と思ってあたりを見回してみるが、誰もいない。
迷った。
物凄く、迷った。
迷ったけれど――わたしは、もう一度だけ、鏡台の引き出しに手を伸ばした。
開ける。
閉める。
んふふ。
気の抜けた笑い声のような、引き出しの中から空気が逃げていくような、そんな音。人の声に聞こえなくもないけれど、どちらかと言えば、引き出しを閉める音の部類に入ると思う。
「……気のせい、か」
誰も来ないように、と願いながら、こっそりと悪いことをしているから、些細な音に、過敏な反応をしてしまうのだろう。
わたしは深く気にしないことにして、祖母の部屋を出た。
■■■
祖母の鏡台の引き出しを閉めるときに聞こえる音と、会話ができるかも、ということに気が付いたのは、高校生のときだった。
祖母に続いて祖父が亡くなって、誰も住まなくなった祖父母宅を売却することとなり、遺品整理をすることになったのだ。
大物の家具は後日業者を呼ぶので、とにかく細かいものを捨てるなり、引き取るなりするのが、今日のわたしたちの役目。
わたしの担当は祖母の部屋だった。祖母が亡くなってそれなりに経つし、貴重品の類がないことが分かっているから、わたしがここの部屋の掃除を割り当てられた。
夏本番の昼下がり。エアコンなんて必要ない時代に建てられた祖父母の家の、とっくに亡くなっている人の部屋にエアコンはない。早く片付けて、涼しい部屋へと行きたかった。
祖母が亡くなったときに、遺品整理は軽く済ませた、と聞いていたけれど、思ったよりも物がある。祖母がいなくなってからもメイク道具が一式そのままだったから、ある程度察していたけれど……ここまでとは。
わたしは捨てやすい、明らかな不用品を分別しながらゴミ袋へと詰めていく。
おはよ。
祖母の鏡台の引き出しを引いたとき、そんな音がした。引き出しの音のはずなのに、どこか違う言葉のようにも聞こえる。
わたしは思わず固まった。部屋に、他の音はない。じわじわと、外から蝉の泣き声が、どこか遠くに聞こえるくらい。
今――今の。
鏡台が、引き出しが、話した?
そんな馬鹿なことがあるわけない。そう思いながらも、わたしは片付けの続きをする手が完全に止まってしまった。
中学生の、卒業式の、少し前のこと。そのときのことを、わたしは思い出していた。
あのときのことは、勘違いじゃなかったというのか。
わたしは震える指先で、ちょん、と出したままの引き出しをつつく。
何もない。
ばく、と引き出しが噛みついてくる、とか、引き出しから手が出てくるとか、そういうことはなさそうだ。
聞き間違い? 暑さでおかしくなった? でも、前のときは、夏でも何でもなかった。なら、聞き間違いはともかく、熱中症で頭が変になってしまった、というわけじゃないだろう。
本当に、本当に引き出しが話すの?
「…………」
わたしはゆっくりと、引き出しを、人差し指で押し戻す。
なあに。
引き出しを戻して聞こえてきたのは、トン、と優しく木がぶつかり合う音ではなく、そんな音だった。話し声、というよりかは、空気が抜ける音に近いとは思う。でも、言葉のように感じた。
たまに、テレビとかネットで見かける、話す猫や犬の映像の音声が、一番近いような気がした。言葉としては不明瞭なはずなのに確かにそう聞こえるという、不思議な感覚。一度そうだと思うとそうにしか聞こえなくなる。
でも、笑い声とかならまだしも、『話しかけられている』と錯覚するような音に、引き出しの開閉音は聞こえるものなのだろうか。
そんなはずはない。
もう開けたくはないけど、引き出しを閉めてしまったので、もう一度開けないと、中の物を取り出せない。しっかりと見たわけではないから、何がどのくらい入っているか正確な様子は分からないけれど、少なくとも空っぽではなかった。なら、開けて、処分するかどうかを決めなければいけない。というか、なんならこの鏡台に引き出しは六つもある。不用品を全部捨てるなら、六つとも引き出しを開けて確かめないと。
わたしはもう一度、辺りを見回す。何もない。誰もいない。わたし一人。
嫌だな、開けるの。
迷っているうちに、わたしの首筋に汗が伝う。その不快な感覚に、わたしは反射的に首をぬぐった。
このまま無視することもできるけど……。
――ねえー。これ、燃えるゴミ? 燃えないゴミ?
遠くから、母が叫ぶ声が聞こえる。その声に、わたしはハッとなる。
そうだ、今日はわたし一人じゃないんだった。この部屋ではそうだけど、一階では両親が作業をしている。何かあったら逃げればいい。
中学生のときは、結局何もなかったし。言葉に聞こえるかも、という気のせいか、そうじゃなければただのイタズラ好きな幽霊とか妖怪の仕業なのかも。呪いの鏡台とかなら、既に中学生の、あのリップを拝借したときに呪われていて、死ぬような呪いなら、きっとわたしは今生きていない。
わたしの脳内には、先日友達と見た、ホラー映画の、登場人物が呪われてしまうシーンが浮かんでいた。確か、あの映画では、呪われてから割とすぐ死んでいたはず。一週間とか、十日とか、そのくらいだっけ? でも、わたしが中学生だったのは、もう二年も前のこと。
じゃあ全然大丈夫じゃん。
大したことない、と思うと、急に何とかなるような気がしてきた。
んふふ。
ええい、と引き出すと、やっぱり笑い声のような音が聞こえた。でも、それ以外、特に異変はない。引き出しの中に手を入れてみても、そのまま引きずり込まれて……なんてことはない。ただの、普通の引き出しの中身。
引き出しの中身は、あの日と変わらない、化粧品たちが入っていた。……いや、正確にラインナップを覚えているわけじゃないから、リップの一本や二本、ファンデの一つや二つ、なくなったり増えていたりしても分からないけどさ。いや、増えるわけあるか。
目には見えないだろうけど、雑菌が繁殖しまくっているであろうそれを分別して捨てていく。うわ、中身を取り出して捨てるの、地味に面倒くさい。
引き出しの中の物を、全部捨て、空っぽにする。一応、引き出しを引っこ抜いて、何か奥に詰まっていないかとか、そういうのも確認するが、何もない。六つの引き出し、全てがそうだった。
あそぼ。
んふふ。
こっち。
あっち。
どの引き出しを引いてみても、戻してみても、ちょっとした、あの言葉のような音はしたけれど。
「…………」
わたしは再び、ちょっと迷ってから、最後に引き出した引き出しを元に戻した。
またね。
うわ、やっぱりしゃべった。しゃべった、というか、そう言う風に聞こえるだけだけど。
鏡台の化粧品で捨てるゴミは終わり。家具は残っているものの、それら収納家具の中身はもう、全て分別してゴミ袋の中。
窓の外をちらりと見ると、玄関先で、父が大きなゴミ袋を、レンタルしてきた軽トラックに運んでいるのが見えた。
わたしの担当が終わり、ってわけじゃないんだけど……。
ホラー映画の中の出来事よりもしょぼいから、恐怖心より好奇心が勝って、引き出しを開ける。気味が悪いな、とは思わないでもないけど、そもそも実害が何もないんだもん。悲鳴を上げれば両親のどちらかが、あるいはその両方が駆けつけてくれる距離にいるというのも大きいかもしれない。
とにかく、わたしは、湧き上がった興味に従ってしまった。
「……もしかして、あなた、話せるの?」
そうよ。
引き出しを引くと、肯定の言葉が返ってきた。会話ができた。マジか。
……そう言えば、この鏡台、祖母が、母親からもらった嫁入り道具だと言っていた。祖母の母親――わたしから見て、曾祖母からの鏡台ともなれば、できてから、百年は経っているだろう。
「もしかして……付喪神、ってやつ? ほら、あの、百年たったら妖怪になるっていう」
そうよ。
引き出しを閉じると、再び、返事があった。
なるほど……付喪神。本当に、そういうこと、あるんだ。
妖怪だなんて非科学的で非現実的なもの、信じがたくはあるけれど、こうして目の前で実物を見てしまっているのだから、受け入れるほかない。まあ、引き出しの音がそう聞こえるだけだから、実際はわたしの勘違いという線も十分にあるわけだけども。
それでも、そういう風に聞こえるというのは、普通にちょっと、面白い。錆びた扉の開閉音が悲鳴に聞こえるとか、そういうのは知っているけど、会話が成立しているように感じる引き出しというのは、中々ないだろう。
でも、この鏡台、多分、処分されちゃうんだよな……。母はいつも、洗面台の前でメイクを済ませてしまう人だから。鏡台なんていらないだろう。
わたしは自分の部屋の状況を思い出し、鏡台を置くシミュレーションをする。……うん、置けなくはない。
三面ではなく、大きな鏡が一つある鏡台。姿見よりは流石に小さいけど……姿見みたいな使い方もできると思う。ちょうど姿見を買おうかどうか迷っていたし、いいタイミングかも。
母に頼んで譲ってもらうとしよう。
わたしはそう決め、ゴミ袋を持って立ち上がった。
「ねー、おかーさーん、ちょっといいー?」
部屋を出ながら、わたしは母を呼ぶ。
■■■
――そうして、この鏡台はわたしの部屋へとやってきた。
わたしの元々の部屋のインテリアとは若干馴染まないものの、鏡にかける布の柄を厳選したからか、鏡台付近の一角だけ、大正ロマンという言葉がふさわしい雰囲気が漂っている。これに合わせて、部屋のインテリアを全部そうしてしまってもいいかもしれない、と最近は思っているくらいだ。
「おはよー」
おはよ。
わたしが挨拶をしながら引き出しを開けると、返事がある。そんな音がする。
もう慣れたものだ。最初はびくびくしていたのに、今は何とも思っていない。ちょっとした愛着のようなものすら感じるくらいだ。鏡台がわたしの部屋にやってきてから三か月もすれば、こんなものだろう。
わたしは引き出しの中から、メイク用品と手鏡を取り出す。鏡台にも立派な鏡が付いているのだが、不器用だからか、どうにも手鏡でないとメイクがやりにくい。なので、この鏡台の鏡部分は、姿見としてしか使ったことがない。メイクをすべて終え、引き出しを閉める。身支度を整えて、最後に変なところがないかチェックするために、ようやく布を外す。姿見と違って全身映るわけじゃないけど、上半身は丸っと見えるので、最終チェックをするのに問題はない。
鏡台からしたら、本来の半分の役割を果たせていないわけだから、複雑かもしれないけど……処分されるよりはマシだと思って我慢してほしいところ。
「……ん?」
メイクを進めていると、ふと、鏡にかけていた布の端の方に違和感を覚える。こんな模様、あったっけ? シミ汚れにも、元からそういう柄のようにも見える。……ここまで細かいところには注目してなかったから覚えてない。
「汚れ――、いや、模様……? 模様だな?」
ぐ、と軽く布を引っ張って、顔を近づけると、汚れではなく模様だったことが分かる。あるよね、こういうの。ふとしたときに見つけちゃうっていう、か――。
「――――」
少し腰を上げて、布に顔を近づけた、そんな不自然な体勢で、わたしは思わず固まってしまう。
布がめくれ、鏡が見えている。
鏡が見えて、わたしの姿の一部が映っている。
その横に、すぐ横に、何か、わたしのいるここにはないはずのものが、映っている。
白い――布。服。エプロン。違う。割烹着。
少しずつ、『それ』の情報が、細かくなって、わたしの脳に届く。
わたしは、固まったまま、自分の部屋のことを、必死に思い出す。鏡に映る範囲に、何が置いてあったか。
ベッド。ない。
ハンガーラックにかけた服。ない。
カラーボックスの扉替わりにしている布。ない。
後で洗濯機に入れる予定の洗濯物。ない。
何度思い返してみても、考え直してみても、鏡に映る範囲に、布製品はない。
このシミ汚れにも見える模様のように、勘違いするものは何もない。
間違いなく、何もないはずなのに――割烹着のようなものが、鏡に映っている。
「――、ッ!」
いたい。
布から手を離し、立ち上がろうとして、出しっぱなしの引き出しに脚が当たる。引き出しから、音がした。いたい、って、言ったような。
「ご、ごめ……」
反射的に謝って、気が付く。
鏡台の上に置きっぱなしのブラシスタンドに、布が引っ掛かってしまって、めくれたままになっている。
早く戻さなきゃ。
わたしは引っ掛かりを直そうとして、その部分に手を伸ばす。
しかし、焦っていたのが悪かったのだろうか。
ずるり、と布が、鏡にかけていた布が、落ちる。
上からかぶせているだけで、特に止めるようなものはなかったから、引っ張れば落ちるのは当然のこと。
そして、わたしは、鏡から目を離すよりも先に、鏡に映るものを見てしまった。
わたしにまとわりつくように――いや、めりこむようにして、女が立っている。割烹着を着て、髪を一つにまとめている女。まるで、ゲームの3Dモデルがバグって壁と一体化しているかのように、わたしと女が一つになっている。顔半分は、わたしの中。反対側は、目が中心に鼻のあたりまで、陰っていてよく分からない。まるで、その部分だけ後ろに引っ張られ、深い穴になっているかのように。
ばれた。
女の口が動く。
女の口は、わたしの耳と同じ場所にあった。




