婚約破棄された料理好き令嬢、魔王様の胃袋を掴んだら「君がいないと夜も眠れない」と求婚されました
きらびやかなシャンデリアが照らし出す王城の舞踏会。
その中心で、王太子ユリウスの冷酷な声が喧騒を切り裂いた。
「レティシア・ヴァン・アデライード! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
華やかなドレスに身を包んだ貴族たちが、一斉に息を呑む。
彼らの視線の先で、私は静かに睫毛を伏せた。
「……理由を、お聞かせ願えますか?」
「理由だと? 己のその手と、体に染み付いた下賎な匂いを嗅いでみろ!」
ユリウスは嘲笑を浮かべ、傍らに侍る、香水と白粉の匂いがきつい男爵令嬢の肩を抱き寄せた。
「未来の国母たる王太子妃が、自ら厨房に立ち、包丁を握るなど言語道断! 貴様のその粗火に焼かれた肌も、香水で誤魔化しきれない油とスパイスの悪臭も、すべてが私の美意識を逆撫でする! そのような女、我が王家の歴史に対する冒涜だ!」
周囲から、くすくすと嘲笑が漏れる。
確かに、私の指先には刃物を握り続けたことで出来た小さな胼胝があり、ドレスの下の肌には、油はねによる小さな火傷の痕がいくつかある。
しかし、それは私がこの国の深刻な食糧難と、偏食気味だった王太子の健康を改善するために、毎日自ら厨房に立ち、栄養価が高く美味しい料理の研究を重ねてきた勲章だった。
(……ああ、もういいわ)
私の胸の中にあった、王太子へのわずかな未練も、すうっと冷めて消えていく。
私は料理が好きだ。包丁がまな板を叩くリズミカルな音も、鍋の中で出汁がフツフツと煮え滾る音も、食材が熱によって甘みを増していくあの魔法のような瞬間も。毎日厨房に立つことは、私にとって何よりの癒やしであり、誇りだった。
それを「悪臭」と蔑む男に、私の作った温かいご飯を食べる資格はない。
「承知いたしました。婚約破棄、謹んでお受けいたします。……今まで、お口に合わない『下賎な料理』を差し上げてしまい、大変申し訳ございませんでした」
私が深くカーテシーをして踵を返すと、ユリウスは激昂して叫んだ。
「そのふざけた態度! 貴様のような女は、国境の『魔王の森』へ追放してくれる! そこで一生、魔物相手に泥でも煮て食うがいい!」
◆ ◆ ◆
王都から馬車で数日。
私は着の身着のままで、一年中陽の光が届かないと言われる、鬱蒼とした『魔王の森』の入り口に放り出された。
「……本当に、追い出されちゃったわね」
深い溜息をつきながら、私は唯一持ち出すことを許された古いボストンバッグを開けた。
中に入っているのは、ドレスでも宝石でもない。愛用の包丁、使い込まれた小鍋、そして数日分の最低限の食材と調味料だけだ。
「とりあえず、何か食べましょう。お腹が空いていたら、絶望すらまともにできないわ」
私は森の入り口近くにある少し開けた場所で、手早く焚き火の準備を始めた。
枯れ枝を集め、火を起こす。パチパチとはぜる炎の温もりが、冷え切った体を優しく包み込んでくれる。
バッグから取り出したのは、少し硬くなった黒パンと、王都の市場で安く買い叩いた燻製肉、そして日持ちのする根菜類だ。
私は愛用の包丁を握り、丸太のまな板の上でリズミカルに野菜を刻んでいく。
トントン、トントン、トントン。
大根、人参、ごぼう。そして燻製肉を少し厚めにスライスする。
小鍋を火にかけ、ほんの少しの油をひいて、まずは燻製肉を炒める。
ジューッという軽快な音と共に、肉から溶け出した上質な脂の甘い香りが、夜の森の冷たい空気に芳醇な匂いとなって広がっていく。
肉の表面に軽く焼き色がついたら、根菜を一気に投入し、油を全体に絡ませるように炒め合わせる。野菜の甘みを引き出す、このひと手間が重要なのだ。
そこに水を注ぎ、持参した乾燥昆布と、隠し味の味噌を溶き入れる。
フツフツと鍋が煮え立ち、肉の旨味と野菜の甘み、そして味噌の郷愁を誘う香りが立ち上った。私の特製「具だくさん豚汁風スープ」の完成だ。
「よし、出来上がり……。いただきます」
木彫りの器にたっぷりとよそい、湯気を立てるスープを口に運ぼうとした、その時だった。
「……何だ、その匂いは」
背後から、地獄の底から響くような、低く掠れた声がした。
振り返ると、そこには漆黒の外套を纏った大柄な男が立っていた。
月明かりに照らされたその姿は、凄絶なほどに美しかった。透き通るような銀糸の髪に、血のように赤い双眸。しかし、その目の下には酷い隈が刻まれ、顔色は蝋のように蒼白で、極度の疲弊が滲み出ている。
彼から放たれる、空気が軋むほどの圧倒的な魔力。
間違いない。この男が、人間たちが恐れる絶対悪――魔王だ。
「人間……。何故、私の森で、そのような……鼻腔を焼くような匂いをさせている」
魔王がゆらりと近づいてくる。その目には、底知れぬ飢えと、何かに対する強烈な苛立ちが渦巻いていた。
ああ、私はここで食べられて死ぬのか。そう直感した。
けれど、私の手の中には、今まさに最高に美味しく出来上がった熱々のスープがある。
食べられる前に、これだけは絶対に冷めないうちに味わいたい。料理人の本能が、恐怖を上回った。
「食べるなら、せめて私がこれを完食してからにしてください! 冷めたスープほど悲しいものはありませんから!」
「……は?」
「それとも、あなたも食べますか? すごく、美味しく出来たんですけど」
私は自暴自棄になり、器にたっぷりとよそった熱々のスープを、魔王の鼻先に思い切り突きつけた。
魔王は虚を突かれたように目を丸くし、それから、吸い寄せられるように器の中の琥珀色の液体を見つめた。
「……私の味覚は、数百年前に死んでいる。何を咀嚼しても、何を嚥下しても、すべては砂を噛むような無味乾燥な味しかしない。……お前の作ったものなど、食う価値もない」
そう言いながらも、魔王の視線はスープから離れない。
「砂の味がするかどうかは、食べてみないと分からないじゃないですか。騙されたと思って、一口だけ飲んでみてください。体が温まりますよ」
私は木のスプーンでスープと具材をすくい、彼の口元へと運んだ。
魔王は警戒するように私を睨みつけたが、やがて、恐る恐る口を開き、そのスープを飲み込んだ。
ゴクリ、と喉が鳴る音が、静かな森に響いた。
その瞬間。
魔王の赤い瞳が見開かれ、ボロボロと大粒の涙が溢れ出したのだ。
「えっ……!? あ、熱かったですか!? それとも塩気が強すぎ……」
「……味が、する」
魔王は震える両手で器を奪い取ると、信じられないものを見るような目で、スープを見つめた。
「温かくて、深くて……体が、内側から溶けていくような……。なんだ、これは。ただの野菜と肉の煮込みだろう……? なぜ、こんなにも甘くて、優しいんだ……」
ポロポロと涙を流しながら、魔王は無我夢中でスープを口に運び始めた。
具材を噛み締め、汁を一滴残らず飲み干し、最後には器を舐めるようにして空にする。
それは、数百年間の飢えと孤独を埋めるような、切実で、どこか幼子のような食べ方だった。
「……美味しい、ですか?」
「ああ。ああ……美味い。こんなに美味いものを食ったのは、いつ以来だか、思い出せない……」
魔王は空になった器を抱きしめ、ふらふらと私の足元に崩れ落ちた。
そして、私の膝の上にコトンと頭を乗せると、そのまま目を閉じた。
「ちょ、ちょっと! 魔王さん!?」
「……温かい。お前から、あのスープと同じ、甘くて優しい匂いがする……。少しだけ、このまま……」
すう、すう、と。
数秒後には、魔王の口から穏やかな寝息が聞こえ始めた。
彼の顔から、先ほどまでの恐ろしい覇気は完全に消え去り、何百年分もの重い荷物を下ろしたような、無防備で安らかな寝顔だけが残されていた。
(……魔王様を、膝枕で寝かしつけちゃったわ)
私はパチパチとはぜる焚き火の音を聞きながら、彼の銀色の髪をそっと撫でた。
王太子には「油臭い」と罵られた私の匂いが、この恐ろしい魔王にとっては、世界で一番安心できる「ご飯の匂い」だったらしい。
こうして、婚約破棄されて魔王の森に追放された私は、たった一杯のスープで、人間界最大の脅威である魔王様の胃袋と睡眠を、完全に掌握してしまったのである。
◆ ◆ ◆
翌朝。私が目を覚ましたのは、ふかふかの天蓋付きベッドの上だった。
足元には豪奢な絨毯が敷かれ、見上げる天井には細やかな装飾が施されている。間違いなく、王城の私の私室よりも立派な部屋だった。
「……そうだ、私、魔王様に膝枕をしたまま……」
森での出来事を思い出し、慌てて飛び起きる。どうやら私がうたた寝をしている間に、魔王様かその部下によって、この魔王城の客室まで運ばれてきたらしい。
ベッドの脇には、丁寧に洗濯され、ふんわりと良い香りのする新しいドレスと、見慣れた私物のボストンバッグが置かれていた。
着替えを済ませて部屋を出ると、廊下に控えていた山羊の角を持つメイドの魔族が、私を見るなり恭しく頭を下げた。
「お目覚めですか、レティシア様。アザトース様より、貴女様には城内を自由に歩く許可が出ております」
「アザトース様……魔王様のお名前ですね。あの、彼は今どこに?」
「アザトース様は、数百年ぶりに深い睡眠に就かれております。城の魔族たちも、主の穏やかな寝顔に涙して歓喜しているところでございます。……すべては、貴女様の作られた『すーぷ』のおかげです」
メイドが感極まったように目頭を押さえる。
数百年ぶりの睡眠。どれだけ過酷な不眠に悩まされていたのだろうと思うと、胸がチクリと痛んだ。
「その……厨房をお借りしてもいいですか? アザトース様が起きた時のために、朝食の準備をしておきたいんです」
私がそう申し出ると、メイドは喜んで城の厨房へと案内してくれた。
魔王城の厨房は、驚くほど広大だった。
しかし、魔族は基本的に「魔力」や「生の肉」をそのまま摂取するため、火を使った本格的な調理器具はほとんど使われた形跡がない。棚には、人間界ではお目にかかれない奇妙な魔界の食材ばかりが並んでいた。
「これは……『フレイムボア』の肉ね。脂身が豊富だからベーコン代わりにできそう。こっちは『サンダーバード』の卵? ダチョウの卵くらいあるわね」
私は腕まくりをし、愛用のエプロンを身につけた。
使い慣れた包丁を握ると、不思議と心が落ち着く。王太子に婚約破棄された傷も、今から作る料理の献立を考えていると、すっかり忘れてしまっていた。
まずは、厚めに切ったフレイムボアの肉をフライパンでじっくりと炒める。
ジュワァァァッという音と共に、魔獣特有の臭みがない、芳醇で甘い脂の香りが立ち上った。
次に、巨大なサンダーバードの卵をボウルに割り入れる。
黄身と白身を分け、白身の方を泡立て器で全力で撹拌していく。リズミカルに空気を包み込むように混ぜ続けると、やがて角が立つほどの堅牢で美しいメレンゲが完成した。
そこに濃厚な卵黄と、少しの塩、そして魔界の牛から搾られたという濃厚なミルクを加え、泡を潰さないようにさっくりと混ぜ合わせる。
熱したフライパンに多めのバターを溶かし、そこへ卵液を一気に流し込む。
ジューッという軽快な音が響き、バターの芳ばしい香りが厨房いっぱいに広がった。弱火でじっくりと火を通し、半分に折りたたむと、フライパンの上には、今にも弾けそうなほど分厚く膨らんだ「特製スフレオムレツ」の完成だ。
カリカリに焼いたフレイムボアのベーコンを添え、スープの残りを温め直す。
バターと卵の焼ける甘い匂いと、燻製肉の食欲をそそる香りが、殺伐としていた魔王城の空気を、一瞬にして「温かな家庭の朝」へと塗り替えていく。
「んんっ……。な、なんだ、この匂いは……?」
「おい、厨房からとんでもなく良い匂いがするぞ……!」
厨房の入り口に、匂いにつられた魔王軍の幹部たち(ゴブリンやオーク、上位悪魔たち)が、よだれを垂らしながら群がり始めていた。
「おはようございます。ちょうど出来上がったところですよ。……あ」
私が振り返ったその時。
群がる魔族たちを払いのけて、長身の影が厨房に足を踏み入れた。
「……アザトース様」
そこに立っていたのは、数百年ぶりの熟睡から目覚めたばかりの魔王アザトースだった。
寝起きのせいで銀糸の髪は少し乱れていたが、昨夜のような蒼白な顔色は消え去り、目の下の隈もわずかに薄くなっている。何より、彼の赤い双眸は、私の手元にある黄色く輝くオムレツに釘付けになっていた。
「お前……。また、あの時と同じ、鼻腔を支配する恐ろしい魔法を使ったのか……」
「魔法じゃなくて、ただのオムレツですよ。よく眠れたみたいで良かったです。さあ、冷めないうちにどうぞ」
私が出来立てのスフレオムレツをテーブルに置くと、アザトースは吸い寄せられるように椅子に座った。
彼はフォークを握り、躊躇しながらも、ふわふわのオムレツに刃を入れた。
シュワッ、と心地よい音を立ててオムレツが割れ、中からとろりとした半熟の卵が溢れ出す。
アザトースはそれを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
「――――ッ!!」
魔王の動きが、完全に停止した。
「……溶けた。口の中で、雲のように……。なんだ、この濃厚な卵の甘みと、舌を包み込むバターの香りは……!」
彼は驚愕に目を見開き、次の一口、また次の一口と、無我夢中でオムレツを貪り始めた。カリカリに焼けたベーコンの塩気と脂が、ふんわりとした卵の優しい味と絶妙に絡み合い、彼の味覚を強烈に刺激していく。
「美味い……。美味い! なんだこれは、魔獣の肉が、雷鳥の卵が、なぜこれほどまでに魅惑的な味に変わるのだ!」
あっという間に平らげたアザトースは、フォークを置き、大きく息を吐き出した。
その顔には、魔王としての威厳など微塵もない、ただの「美味しいご飯を食べて満腹になった幸せな男」の至福の表情が浮かんでいた。
「お口に合って良かったです」
私がふんわりと微笑んでお皿を下げようとした、その瞬間。
ガシッ。
アザトースの大きな手が、私の手首を力強く、けれど決して痛くない絶妙な力加減で掴んだ。
「……アザトース様?」
「帰さない」
彼の赤い瞳が、熱を帯びた眼差しで私を真っ直ぐに射抜いていた。
「お前を、絶対に人間界へなど帰さない。お前の作るこの食事は、私の凍りついた味覚を溶かし、お前の匂いは、私を数百年ぶりの深い眠りへと誘った。……お前がいないと、私はもう、生きていけない体になってしまった」
「えっ……い、生きていけないって、大袈裟な……」
「大袈裟ではない! 私は魔王だ。私が欲したものは、どんな手を使ってでも手に入れる!」
アザトースは立ち上がり、そのまま私を抱え上げるようにして、自身の広い胸の中にすっぽりと閉じ込めた。
彼の体温と、力強い鼓動が伝わってくる。
「今日からお前は、この私の専属料理人だ。いや、それだけではない。私が眠る時も、起きる時も、常に私のそばにいろ。お前の愛と料理は、未来永劫、私だけのものだ……!」
「ちょっ、近い、近いです魔王様! 私、まだスープの鍋を火にかけたまま……!」
「鍋など後で部下に止めさせる! 今はただ、お前のこの優しい匂いを嗅がせてくれ……」
魔王様は私の肩に顔を埋め、すうっと深く息を吸い込んだ。
まるで、甘える大型犬のようなその姿に、厨房の外で見ていた魔族たちが「おおお……魔王様が、人間の娘に陥落した……!」と感動の涙を流している。
王太子には「油臭い悪臭」と蔑まれた私の料理人の匂い。
それが、世界で一番恐ろしいはずの魔王様の心を完全に溶かし、どうやら私は、彼からの極度に重い執着と溺愛を、真正面から受けることになってしまったらしい。
◆ ◆ ◆
私が魔王城で温かく甘やかな日々を送り始めていた頃。
王都の王城では、かつてないほどの阿鼻叫喚と殺伐とした空気が巻き起こっていた。
「なんだこの泥水のようなスープは! 肉はゴムのように硬く、野菜からはひどい腐臭がするではないか!」
ガシャンッ! と。
王太子ユリウスが、豪奢な晩餐の並ぶテーブルを丸ごとひっくり返した。
床に散乱した料理を前に、王室専属の料理長がガタガタと震えながら平伏する。
「も、申し訳ございません殿下……っ! しかし、市場に流通する食材そのものが、ひどく傷んでおりまして……! どのような魔法を使っても、この渋みと悪臭を消すことができないのです!」
ユリウスがレティシアを追放して数週間。
王都の土壌と水源は、急速に魔力に汚染され始めていた。
これまでは、レティシアが厨房に立ち、日々の料理に無意識に込めていた『癒やしの隠し味』による強力な浄化作用が、王国全体の健康と土地の豊穣を密かに保っていたのだ。
その要を失った王国は、瞬く間に深刻な食糧難へと陥った。
「ユリウス様ぁ……こんな不味いお肉、私、喉を通りませんわ……」
傍らに座る男爵令嬢のドレスは以前よりも少し皺が目立ち、彼女自身もひどく憔悴した顔で癇癪を起こしていた。
ユリウス自身も例外ではない。彼の目の下には酷い隈が刻まれ、その肌は生気を失い荒涼としていた。毎日レティシアが完璧な栄養管理で作っていた食事がどれほど彼の身体を支えていたか、失って初めて気づいたのだ。
「ええい、泣き言を言うな! ……くそっ、なぜだ。あの『油臭い女』がいなくなったというのに、なぜ私の胃袋は、あの女の作った味ばかりを思い出すのだ……ッ!」
ユリウスは激しい飢餓感と後悔に顔を歪め、近衛騎士団長を怒鳴りつけた。
「今すぐ騎士団を編成しろ! 『魔王の森』へ向かい、レティシアを連れ戻すのだ! 魔物に食われていなければの話だがな……もし生きていれば、王太子妃として戻してやる温情をかけてやると伝えろ!」
かくして、王国の身勝手な奪還部隊が、魔王の森へと差し向けられたのである。
◆ ◆ ◆
一方その頃、魔王城の厨房。
私は鼻歌を交えながら、ボウルの中でハンバーグの種を捏ねていた。
使用するのは、魔界の狂暴な牛『デス・ミノタウロス』の合い挽き肉。そこに細かく刻んでバターで炒めた玉葱と、パン粉、卵、そして少量の香辛料を加える。
ペチッ、ペチッと空気を抜くように両手でキャッチボールをし、ふっくらとした小判型に成形していく。
熱した巨大な鉄のフライパンに並べると、ジュワァァァッという豪快な音と共に、芳醇な肉の焼ける匂いが厨房いっぱいに立ち込めた。
「レティシア……。また私を差し置いて、そんな肉の塊にばかり愛情を注いでいるのか」
背後から、ひどく不満げな低い声が降ってきた。
振り返るよりも早く、強靭な腕が私の腰に回り、魔王アザトース様が私の肩にすりすりと顎を乗せてくる。
「アザトース様、くすぐったいです。今、絶品の特製ハンバーグを焼いているところですから、大人しく食堂で待っていてください」
「待てない。私以外のものに、お前の意識が向いていること自体がひどく腹立たしい……。お前の手は、私の髪を撫でるためにあるのだからな」
魔王としての恐ろしい威厳はどこへやら。
完全に私の料理の虜となり、胃袋を掌握されたアザトース様は、今や私に対して異常なほどの独占欲と執着を見せるようになっていた。私が他の魔族に料理を振る舞おうとするだけで、嫉妬で城の窓ガラスが全部割れるほどだ。
「はいはい、焼けましたよ。特製デミグラスソースもたっぷりかけましたから」
お皿に盛り付けた熱々のハンバーグを差し出すと、アザトース様は目を輝かせ、私の用意したナイフを差し込んだ。
その瞬間。
閉じ込められていた怒涛の肉汁が、決壊したダムのようにナイフの隙間から溢れ出した。
「……なんだこの、噛まなくても崩れるほど柔らかい肉は。そして内側に秘められた、暴力的なまでの旨味は……ッ!」
アザトース様は恍惚とした表情を浮かべ、貪るようにハンバーグを一口食べた。
あまりの美味しさに、彼の背後にある漆黒の翼がパタパタと嬉しそうに動いている。
「ふふっ、美味しいですか?」
「ああ……。だが、お前が直接私の口に運んでくれれば、もっと美味くなるはずだ。さあ、私の口へ運んでくれ。『あーん』だ」
「ま、魔王様が『あーん』なんて、部下の皆さんに見られたら威厳が……っ」
「お前の前で威厳など、とうの昔にスープと一緒に飲み込んで捨てた。お前が食べさせてくれないなら、お前ごと食べてしまうが……構わないか?」
耳元で、甘く危険な囁き。
顔を真っ赤にした私が、震える手で小さく切り分けた肉を彼の口へ運ぼうとした、まさにその時だった。
「アザトース様! 大変でございます!」
慌てた様子の魔族の伝令が、厨房へ飛び込んできた。
「王国の騎士団が、魔王の森の入り口に陣を敷いております! そして、『我が国の所有物であるレティシア嬢を直ちに引き渡せ』と要求してきております!」
その瞬間。
厨房の空気が、一気に氷点下まで冷却された。
先ほどまで甘く私に擦り寄っていたアザトース様の赤い瞳に、地獄の底のような暗い殺意が宿る。
「……私の、愛しい専属料理人を? 泥水をすすりながら生きていたあの愚かな王国が、今さら返せだと……?」
ゴゴゴゴゴ……と、魔王城全体が彼の放つ強大な魔力によって激しく振動し始めた。
「レティシア。ハンバーグの続きは後だ。少々、森の掃除をしてくる」
アザトース様が、かつてないほど凄絶で美しい笑みを浮かべた。
私の料理を奪おうとする者への、魔王の純粋にして絶対的な怒りが、今、愚かな王国の騎士団へと向けられようとしていた。
◆ ◆ ◆
『魔王の森』の入り口。
常に薄暗い瘴気が立ち込めるその境界線に、王国の近衛騎士団がずらりと陣を敷いていた。
その中央には、黄金の馬車から降り立った王太子ユリウスの姿があった。彼の顔色はひどく土気色で、かつての傲慢な輝きは見る影もない。
「ええい、魔物どもめ! 我が国の所有物であるレティシアをさっさと引き渡せ! さもなくば、この森ごと火を放って――」
ユリウスが喚き散らした、その瞬間。
「――私の森で、随分と騒々しい羽虫が飛んでいるな」
森の奥から、空気を凍結させるような低く冷たい声が響いた。
黒い外套を翻して現れたのは、魔王アザトース様だ。彼の背後には、心配になってついてきてしまった私と、数名の魔王軍幹部が控えている。
「ま、魔王……ッ!」
アザトース様の放つ、次元の違う圧倒的な魔力と威圧感に、数百人の騎士たちが一斉に悲鳴を上げて後ずさった。
しかし、ユリウスだけは飢餓感と執着に目を血走らせ、アザトース様の背後にいる私を見つけて叫んだ。
「レティシア! 無事だったか! さあ、私の元へ戻ってこい! お前を王太子妃として迎えてやる! だから今すぐ、私にあの温かくて美味いスープを作れ!」
その身勝手すぎる懇願に、私は思わず深い溜息をついた。
「……ユリウス殿下」
私はアザトース様の隣に並び立ち、かつての婚約者を静かに見下ろした。
今の私は、魔王城のメイドたちが丹精込めて仕立ててくれた最高級の真紅のドレスを身に纏い、肌はアザトース様の魔力と美味しい食事のおかげで、真珠のように艶やかに輝いていた。
泥にまみれて追放された小娘の面影など、どこにもない。
「私を王太子妃に? 冗談はおやめください。私の手には、殿下が『吐き気がする』と蔑んだ料理の匂いが、今もたっぷりと染み付いておりますわ」
「そ、それは……! 私が悪かった! あの匂いこそが、私を生かす命綱だったと気づいたのだ! 頼む、レティシア……我が国の食糧は腐り果て、もうお前の料理なしでは生きていけないのだ……ッ!」
地べたに這い蹲るようにして手を伸ばすユリウス。
しかし、その汚い手が私に届くより早く、アザトース様が前に出た。
「気安く私の専属料理人を呼ぶな、愚物」
ゴアンッ!!
アザトース様が軽く睨みつけただけで、不可視の魔力の衝撃波が吹き荒れ、ユリウスと数百人の騎士団は、木の葉のように空高く吹き飛ばされた。
誰も命を落としてはいないが、全身の骨が軋むほどの恐怖と絶望を魂に刻み込まれたはずだ。
「二度と私の森に近づくな。次、レティシアの視界をその薄汚い姿で穢せば、貴様らの国ごと、この魔界の炎で灰燼に帰す」
魔王の凄絶な宣告に、騎士団はユリウスを引きずりながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
王国の食糧難は今後も続くだろうが、それは私の知ったことではない。彼らは自らの手で、豊かな食卓を永遠に捨て去ったのだから。
◆ ◆ ◆
「……ふん。少し、冷めてしまったな」
魔王城の厨房に戻ると、アザトース様は少し不満げに、残されていた特製ハンバーグを見つめた。
「すみません、すぐに温め直しますから」
「いや、いい」
アザトース様は私の手首を掴み、そのままぐいっと自身の腕の中へ引き寄せた。
背中が広い胸に密着し、彼特有の、夜の森のような深く甘い香りが私を包み込む。
「アザトース様……?」
「レティシア。先ほどの愚劣な男の言葉を聞いて、私はひどく焦った」
アザトース様は私の肩口に顔を埋め、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「お前は人間だ。いつか、光の溢れる人間の世界へ帰りたくなるのではないか。私の料理人として囲っているだけでは、いつか私の元から羽ばたいてしまうのではないかとな」
「帰りませんよ。あんな冷たい国より、アザトース様が『美味しい』と笑ってくれるこの厨房の方が、私にとっては何百倍も温かくて幸せな場所ですから」
私が微笑んで彼の銀糸の髪をそっと撫でると、アザトース様はハッとして顔を上げ、私の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
そして、その場に恭しく跪いたのだ。
「レ、レティシア。……いや、私の愛しい人よ」
彼の大きな手が、私のエプロン越しの小さな手を取る。
そして、彼の魔力の結晶である、血のように赤く煌めく指輪を、私の薬指へとそっとはめた。
「お前の作る料理が、私に安寧を与えてくれた。お前の優しい匂いが、私の孤独な魂を救ってくれた。……お前がいないと、私は夜も眠れない。お前以外の料理など、もう一生口にしたくない」
魔王としての威厳をすべて投げ打ち、ただ一人の男として、彼は甘く、そしてひどく重い執着を込めて誓いを立てた。
「どうか、私の伴侶となってくれ。一生、私の胃袋と心を満たしてくれ。……その代わり、世界中の誰が敵に回ろうとも、私が永久にお前を守り抜くと誓おう」
その不器用で、愛に溢れたプロポーズに。
私は堪えきれず、涙をこぼしながらとびきりの笑顔を向けた。
「……はい、喜んで。アザトース様」
私が頷いた瞬間、魔王様は歓喜に顔を輝かせ、私を高く抱き上げてくるくると厨房を回り始めた。外では、話を聞きつけた魔族の部下たちが「ウオォォォ! 魔王様に妃ができたぞォォ!」と大宴会の準備を始めている。
「レティシア! 愛している! さあ、今夜は結婚の祝いだ! お前の作ったハンバーグを、口移しで食べさせてくれ!」
「も、もう! アザトース様ったら、本当に甘えん坊なんだから……っ!」
婚約破棄され、絶望の森に追放された料理好きの令嬢。
しかし彼女は、その手で作る「温かいご飯」の力で、人間界最大の脅威である魔王の胃袋を完全に掴み、誰よりも甘く、そして過保護に愛される『魔界の妃』として、永遠の幸せを手に入れたのであった。




