想い人
自分の席に座ると、俺に気付いたらしい前の席の生徒が椅子の背に腕を置き、声をかけてきた。
「あいつ、君が来なくなってからすぐ他の友達作ったんだよ。君を心配する素振りなんて見せずに。そういう奴なんだよ。私は君達の事、仲良さげだなって事くらいしか知らないから、あまり下手な事は言えないけどさ。でもきっと、君が悪い訳じゃないと思うから、まあ、難しいだろうけど、そんな気にすんなよ」
彼女は栗名結衣。俺が休むようになる前、彼女が数人の友達と話している所をよく見かけた。友達も多く、俺とは比べ物にならない程に同じような経験をしてきたのだろう。しかし、俺にとっては、初めての友達が、初めていなくなったのだ。気にせず、忘れ去る事なんてできる筈もない。
その日から、栗名結衣は俺に話しかけて来るようになった。多分、唯一の友達を失った俺に、哀れみの目を向けていたのだろう。
「ねえねえ、休みの日とか何してんの?私はね、ダラダラしてるよ。なんにもやる気起きなくてさー」
ある日はこんな風に、俺の机に腕を乗せながら言ってきた。
「本読んだり、ゲームしたり。外に出て遊ぶ事は無いな」
「ふーん。じゃあさ、オススメの本教えてよ。気が向いたら読んでみる。読みやすいやつにしてね」
どうせ読まないだろうな。と、期待せずに教えた。満足をしたのか、彼女は「ありがと。読んでみる」と言い、机に貼り付いた腕を、しとっと音を立てながら剥がし前に座り直した。
意外にも、それから一週間が経った頃に感想をくれた。「面白かった」と。まさか、本当に読んでくれるとは思っていなかった。俺は他にも本を勧めた。三冊勧めた所で、彼女の困る顔が鮮明になった。
「あ、ごめん」
思わず俺がそう言う。俺の好きな本を読んでくれたのが嬉しくて、つい、調子に乗ってしまった。
「いいよいいよ、でも、普段本読まないからさ、あんま期待しないでね」
彼女は、困った顔のまま、だが、声だけは調子良く、そう言った。
またある日は、好きなアニメを訊いてきた。
「アニメ観ないんだよなぁ。栗名は前に勧めた本読んでくれたし、オススメのアニメ教えてくれたら俺も観てみるよ」
彼女が、俺の勧めた本を読んでくれた時、俺は雲だって掴めると思った。あの時試さなかっただけで、本当に掴めただろう。その喜びを共有したかった。
「え、好きなアニメかぁ。困ったな、無いや」
「何で訊いたんだ」
「いやいや、話題を提供してあげたのよ」
「広げろ。提供した責任を放棄するな」
無責任にも程がある。あの感覚を味わわせたい。折角そう思ったのに、俺にはその手段がない。それならばと、他に好きな物はないのかと訊いてみたが「前はあったんだけどね、最近興味無くなっちゃって」と返ってきた。しかし、どこか寂しげにそう言う彼女を責める事は、俺にはできなかった
このように、話す事も無いくせに、それはもう色々と話しかけてくれた。
彼女は、俺が友達を失った事を悲しむ間すらも与えてくれなかった。それがとてもありがたかった。俺の心はきっと、友達を失った、その寂しさに耐えられる造りになってはいなかったから。もし、彼女が話しかけてくれなければ、どうなっていたのだろうか。考えたくもない。もしかしたら、俺は一生に渡って人と関わろうとせず、その生涯を終えていたかもしれない。そう思うと、強大で醜悪な不安に押し潰されてしまいそうで、とても耐えられない。彼女は俺にとって、未来を良い方向へと変えてくれた恩人だと言えよう。
「そういえば、何で俺に話しかけてくれたの?それまで関わりなかったのに」
俺と彼女とが仲良くなってから数ヶ月が過ぎた頃、ふと、ずっと疑問に思っていた事を訊いてみた。
「かわいそうだったからね。君、A君以外と話してるところ見たことなかったし。あ、冗談だからね?!理由は他にあるよ。でも内緒」
そう、笑って言った。自然に出た笑みを天然だとするならば、その笑みは人工的で、いや、確かに笑顔なのだが、ロボットの顔を見ると不気味の谷現象が起こるのと同じような、そんな違和感を覚えた。
俺はその裏を知りたかった。だが、その不気味な顔と、我が友を不気味だと思ってしまった罪悪感とに気圧されてしまった。俺は喉仏を動かす事はできても、どうやるか、その方法を忘れてしまったかのように、声を出す事はできなかった。その様子はまるで、餌を求め水面に口を出す鯉のように見えただろう。それを見た彼女は、次に、一重瞼で細い目を更に細め、天然の笑みを浮かべた。
それから暫くして、彼女がクラスメイトの男子と話している所を目撃した。彼女が俺以外の生徒と話しているのは久しぶりに見た。彼女には友達が多かったし、彼もその一人なのだろう。
何を話しているのだろうか。勉強の話か?それとも、部活の話?いや、栗名結衣は部活をしていなかった筈だ。だとすれば何の話をしているのだろう。友達な訳だし、たわい無い話だろう。そうは思えど、俺の心は久しく経験していなかったあの冷たさとざわめきとに襲われた。
それからの授業は、その事に意識が奪われてしまい、頭に入らなかった。何しろ、前の席に栗名結衣が座っているのだ。黒板に集中しようとしても、どうしても彼女が目に入ってきて、そうすると、次第に思考の制御が利かなくなる。授業に集中しようと考えれば考える程、俺の頭は彼女で染まってしまう。
それは帰ってからも同じだった。その日の夕食は、不思議と鬱々としていなかった。頭の中は栗名結衣で埋まっていて、両親の会話が俺の意識に届いていなかったからだ。夕飯を食べている最中、一度だけ呼びかけられた。「どうした、何かあったのか?」と。いつもは静かに自分達の話を聴いている息子が上の空だったから、気になったのだろう。俺は「何でもないよ」そう、ただ一言だけ答えた。
ここで俺はふと気付いた。中学に入ったばかりの俺だったら、嬉々として、真っ先に両親へと向かって報告していたのではないか?と。A君と友達になった時もそうだ。帰って一番に言う事は「ただいま」ではなく「俺、やっと友達できたよ」であるべきだった。そうしたら、両親からの期待を取り戻せた筈だ。当時それをしなかったのは、思えば俺も、両親に期待するのを止めていたのかもしれない。
ある物事のきっかけというものは、どんな大きさでどんな重さでも、きっかけでしかない。それ以上にもそれ以下にもなれない。俺の場合、きっかけは親からの期待で、今求めているものはそれ以外の人からの愛だ。もう、取り返しがつかないのだ。最初は親からの期待を求めていたが、次第にそれを諦めるようになり、終いには、どこの誰かも分からぬ、まだ会った事も無い他人から、愛を求めるようになってしまった。この欲求はもう、取り返しがつかないのだ。
この頃の俺は、両親からの関心を取り戻したとしても「やってやった」と一喜する事も無ければ「もっと早ければ」と一憂する事も無かっただろう。子は親の背を見て育つと言う。俺は親の背を見た結果、親不孝な事に、今後一切、褒めてもらいたいだとか、心配してもらいたいだとか、そういった、親への幻想を失ってしまった。
夕飯を食べた後、俺はすぐに床へ就いた。そして考えた。
「あの感情は何なんだろう」
寝ずに考えた。ずっと、ずうっと考えた。そうして答えが出たのは、考え始めてから三日目の夜の事だった。その日俺は「これが恋か。そうに違いない」そうに思った。この感触が恋ではないとすれば、医者にかからないといけない。そうしなければ、きっと俺はこのざわめきに蝕まれ、いずれ死んでしまうだろう。
この感情を自覚してから行動するまで、そう時間はかからなかった。
次の日の放課後、その日は曇天だった。帰路に就いた俺達は、いつも通り、たわい無い話をしていた。
雨が降った匂いの中、俺は深呼吸をして、遂に言った。
「あのさ、俺、前に栗名が他の男子と話してるところ、俺見ちゃってさ。嫌だった。だから、多分、栗名の事好き……なんだと思う。だから、俺と付き合ってくれないか?」
あぁ。情けない。俺は、好きな女に告白をする時、目も合わせられやしないのだ。
水溜まりに映る彼女の顔は、どこか困ったように見えた。そりゃあそうだ。彼女から見た俺は、お世辞にも誠実には見えなかっただろう。顔だって、耳だって真っ赤になっていただろうし、殆ど寝ていないので、隈も目立っていた筈だ。言葉だって、紡ぐのがやっとだった。そうして紡いだ言葉も適切ではなかっただろう。断られると、そう思っていた。だが、彼女からの返事は意外なものだった。数秒の沈黙の後、ただ一言「よろしくね」と。
それからの数ヶ月はとても短く感じられた。お金が無いからと、俺たちは頻繁に電話をしたり、学校の休み時間に話したり、そんな、贅沢ではないが幸せな日々を過ごしていた。俺の両親も頑張ってくれていたのだろうが、それでも、貧しい家の小遣いでは二、三ヶ月に一度出掛けるのがやっとだった。それでも、一回だけデートに行ったのを覚えている。
その日は水族館に行った。その日の彼女は、ずっと、人工的な笑みを浮かべていた。大きな水槽から出る、屈折した光に照らされた一重瞼で妖艶な彼女の姿は、人を惑わせるセイレーンのように不気味で、そして、美しかった。なのに俺は、それに気付きながらも、この瞬間を守りたくて、気付かぬ振りをしてしまった。それだけならまだしも、俺は無意識の内に、それを守る事を強要してしまった。
「楽しかった。またどっか行こうな。何ヶ月か先になっちゃうだろうけど」
帰宅途中の電車内で、俺はそう言った。この日一度も、彼女が芯から楽しそうにしている表情を見なかったにも関わらずだ。なのに「今日は互いに楽しいと思えた」という事実を作りたくて、いや、そう捻じ曲げたくて、彼女の気持ちに寄り添う事をしなかった。
数日後「ごめん」とだけ書いた紙を机に置き、栗名結衣は自殺を謀った。ベッドのシーツを剥ぎ、それをロープのようにしてドアノブに掛けて、首を吊ったそうだ。栗名の母親がすぐに発見したおかげで、大事には至らなかったらしい。面会に行こうとしたが、それはできなかった。
暫くして、俺宛てに手紙が届いた。栗名からだった。開くと、一番上にはやはり「ごめん」と書いてあった。
「きっとびっくりしたよね。実は何ヶ月か前に私がやらかしちゃって、それから友達が話してくれなくなっちゃったの。それで、たまたま同じタイミングでひとりになった君を見て話しかけたんだ。私は辛い思いをしてる君に漬け込んだ。もう人に嫌われたくないと思って、君のことを知ろうとしたし、君がおすすめしてくれた本は頑張って読んだ。自分からは読まないから面白かったし、君と話すのも楽しかったよ。でも、私が君に抱いてるのは友情だったから、君が告白してくれた時は正直言ってびっくりした。それでもオッケーしたのは、告白を断ると君からも嫌われちゃうと思ったからなの。でも何日か経ってから、君は私を想ってくれてるのに、私は自分のことしか考えてないことに罪悪感が湧いてきちゃって。それがだんだん大きくなって、あの日押し潰されちゃった。私が君と付き合ったのは、私がひとりにならないように、君を利用した結果なんだよ。最低だよね。今までありがとう。本当にごめんね。」
これが、栗名からの手紙の全容だった。
最低だ。本当に。俺がそんな事で栗名を嫌う筈も無いのに。もっと早くに言ってくれれば、こんな事にはならなかったかもしれないのに。でも、俺はもっと最低だ。俺は優先順位を間違えてしまった。自分を優先してしまった。あの時、俺が真に優先しなければいけなかったのは彼女の感情だった。水族館でのあの表情は、何か他に問題があって、それで気分が落ちているのだろうと、俺は、その程度に考えていた。その程度にしか考えられなかった。もっと栗名に気を配っていれば、今もまだ栗名と笑いあえていたかもしれない。もっと自分の感情を抑えれていれば、栗名は死ぬ事なんて考えなかったかもしれない。それに、少なからず栗名に「最低」だと思ってしまっている。栗名の感情を蔑ろにして、かつ栗名の事を心のどこかで責めてしまっている、そんな俺の方が最低なのに。
栗名がそれからどう過ごしていたか、俺は知らない。栗名が学校に来なくなったからだ。そりゃあそうだろう。噂はどこかから漏れ出るものだ。学校に戻って来たとして、ただでさえ肩身の狭い思いをしていたであろう栗名は、ひそひそと流れる噂話に敏感になりながら、残り少ない中学校生活を乗り切らなければならない。俺がもし栗名の立場であっても、学校へは行かないだろう。
この日から俺は独りになった。友達ができなかった。もっと正確に言うと、俺が一方的に友達だと思う奴はいた。しかし、あの時から俺は、友達だと思えるやつがいたとして、俺から栗名へ向けていた感情が一方通行だったように、この友情も一方通行なのではないかと考えるようになってしまったのだ。相手が「俺も友達だと思っているよ」と言ってくれても、どうしても、これは社交辞令なのではないかと思ってしまう。哀れな俺を気遣っているのではないかと。
この頃から、俺が孤独感を覚えなかった日は無い。




