第二噺
翌朝も、宝生家の食卓はいつもの光景から始まった。
「さあさあ、母上様。この鮭の塩加減、まことに絶妙でございますな。まるで、荒波を越えて故郷の川に帰ってきた鮭の、喜びの涙のような味わいで」
「はいはい。伸太郎も、学校に遅れないようにね」
輝美は息子の独特な賛辞を柳に風と受け流しながら、お茶を淹れる。伸太郎は「おありがとうございやす!」と威勢よく返事をし、今日も元気に玄関を飛び出していった。
商店街での挨拶回りも、学校の授業も、昨日と何ら変わらない。伸太郎は、授業中は真面目にノートをとり、決して騒いだりはしない。
給食を食べ終えた昼休み。教室の隅で、クラスメイトの健太が一人、膝を抱えてしょげ返っていた。その周りを、数人の男子が取り囲んでいる。
「健太、また運動会のかけっこ、ビリだったらしいなー」
「お前、歩いてるみたいだもんなあ」
からかうような言葉に、健太は顔を伏せるばかりだ。
鉄二が「やめろよお前ら!」と割って入るが、一度火が付いた悪ふざけはなかなか収まらない。
健太の目には、じわりと涙が浮かんでいた。
その時、すっとその輪に加わったのが伸太郎だった。
「おやおや、こいつは一体何の騒ぎでございますか。一人の若者を大勢で取り囲むたあ、ちいとばかし、粋じゃねえ真似じゃございませんか」
伸太郎の登場に、周りの男子たちは一瞬たじろぐ。伸太郎はしょげている健太の肩をぽんと叩いた。
「どうしたい、健太坊。そんな浮かねえ顔しやがって。まあ、いいや。ここにいる皆の衆も、ちいと耳を貸しなせい。あっしがひとつ、とっておきの噺を聞かせてやりまさあ」
そう言うと、伸太郎は教壇の前に立ち、パンと一つ手を打った。その音を合図にしたかのように、騒がしかった教室が静まり返る。
「さて、ここに一匹、それはそれは足ののろい亀がおりやした。名を亀吉といいやす。森の運動会じゃあ、いつもウサギや鹿に笑われ、ハリネズミにさえ追い抜かれる始末。すっかり自信をなくした亀吉は、甲羅に閉じこもっておりやしたが、ある日、森の長老であるフクロウ様がこう言ったんでございます。『亀吉や、速く走ることだけが全てじゃねえ。お前さんには、誰にも負けねえ硬い甲羅と、どこまでも歩き続けられる、その粘り強さがあるじゃねえか』と」
伸太郎は、亀吉のしょんぼりした声、フクロウの賢そうな声色を巧みに使い分ける。子供たちは、いつしか彼の噺の世界に引き込まれていた。
「その言葉に、亀吉ははっとする。そうだ、あっしにはあっしの戦い方があるんだ、と。次の日から亀吉は、毎日毎日、泥にまみれながらも歩く練習を続けやした。そんなある嵐の日、森の川が氾濫し、小さな子リスが流されちまった。足の速い動物たちは、あまりの水の勢いに手も足も出せやせん。その時、濁流の中に飛び込んでいったのが、亀吉だったんでございます。鍛え抜いた自慢の甲羅で流れを受け止め、粘り強い足で一歩、また一歩と進み、とうとう子リスを岸辺まで押し上げたんでございます。森の動物たちは、速く走ることよりも、いざという時に仲間を助けられるその強さこそが、本当にすごいことなんだと、ようやく気付いたんでさあ。…てなわけで、亀吉は森一番の勇者と呼ばれたってえ、まあ、そんなお話でございます。おあとがよろしいようで」
噺が終わると、教室は温かい拍手に包まれた。からかっていた男子たちは、ばつが悪そうに健太に「ごめん…」と謝る。健太は、涙の跡が残る顔を上げて、伸太郎に小さく頷いた。その顔には、もう迷いはなかった。
放課後、みんなが帰り支度を始める中、有紀がさりげなく伸太郎の隣にやってきた。
「伸太郎くん」
「お、有紀ちゃん。どうしたんでえ?」
「今日の噺、健太くんのために言ったの? すごく…優しかった」
小さな声でそう囁くと、有紀は友達の方へ駆けていく。伸太郎は、その場に立ち尽くした。「優しい」。その言葉が、胸の中で甘く響く。昨日とは違う種類の、でも同じくらい嬉しい言葉だった。
(優しい、か…)
有紀の言葉を思い出し、伸太郎の口元が自然とほころぶ。
夕日に伸びる自分の影を見ながら、小さな噺家は、明日への期待に胸を膨らませるのであった。




