第一噺
朝の食卓に、炊き立てのご飯と味噌汁の香りが立ち込める。宝生伸太郎(ほうしょう伸太郎)はちゃぶ台の前にちょこんと座ると、母親の輝美に向かって、しゃんとした声で言った。
「さて、母上様。本日もかくも心のこもった朝餉の支度、まことに痛み入ります。この一粒一粒に込められし愛情、しかと味わわせていただきますんで」
「はいはい、分かったから冷めないうちに食べなさい」
輝美は慣れたもので、笑いながら息子の茶碗にご飯をよそう。この子は、物心ついた時からどういうわけか、こんな風に古風で、どこか芝居がかった江戸弁のような口調で話すのだ。
伸太郎は小さな手で箸をとり、行儀よく「いただきます」と手を合わせた。
家を出て学校までの道のりは、伸太郎にとって小さな舞台だ。黄色い通学帽を目深にかぶり、真新しいランドセルを揺らしながら、まずは顔なじみの商店街を練り歩く。
「ごめんくださいまし! 八百屋のおじさん、今日も威勢のいいことで何より!」
「おう、伸太郎坊! 行ってこいよ!」
「豆腐屋さん、おはようさんでございます! 今朝のおからはいかがですかい?」
「ああ、伸太郎ちゃん。おっかさんにいいのあるよって言っといて」
すれ違う大人たち一人ひとりに声をかけていく。そのたびに、店の奥から、あるいは道端から朗らかな笑い声が返ってくる。彼はただ挨拶をしているだけなのだが、その独特の口調が、朝の商店街に活気と笑いを振りまいていた。
教室の扉をがらりと開けると、そこにはもう、見慣れた顔があった。
「よう、有紀ちゃん。今朝も一段と愛らしいお姿、この伸太郎の目にしかと焼き付けやしたぜ」
窓際の席で本を読んでいた女の子、有紀が顔を上げる。伸太郎の言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐに慣れたようにふふっと笑った。伸太郎の幼なじみであり、そして彼の心をときめかせる唯一の存在だ。本当は胸がどきどきしているのだが、そこは持ち前の口八丁で隠し通すのが、彼の流儀だった。
「伸太郎くん、おはよう。朝から元気ね」
「おうよ! ところで、鉄やんはまだかいな?」
伸太郎が言う「鉄やん」こと、もう一人の幼なじみ、鉄二が「おう、ここにいるぜ」と教室の後ろから顔を出す。がっしりとした体格で、少しぶっきらぼうだが、根は優しい男の子だ。鉄二のことを「鉄やん」と呼ぶのは、後にも先にも伸太郎だけだった。
授業が始まると、伸太郎は借りてきた猫のようにおとなしくなる。背筋を伸ばし、先生の話を真剣に聞く。決して風紀を乱すようなことはしない。ただ、ひとたび先生に名指しで質問されると、事態は少しややこしくなる。
「では、宝生くん。このお話の主人公は、どんな気持ちだったかな?」
「へえ、先生。そいつは野暮ってもんでございます。彼の胸の内をずばりと言っちまうのは、粋じゃねえ相談でさあ」
「え、ええと…」
「まあ、強いて言わせていただけるんでしたら、まるで春先の陽気に誘われて、つい居眠りしてしまった猫のような、そんな心地だったんじゃないかと、あっしは睨んでおりますが、いかがなもんでしょう?」
まるで、かけ問答だ。先生も、伸太郎のこの調子にどう返していいものか分からず、いつしか、よほどのことがない限り彼に話を振ることはなくなっていた。
事件が起きたのは、ある日の給食の時間だった。その日のメニューは、子供たちに大人気のミートソース・スパゲッティとフレンチサラダ。教室中に甘酸っぱいソースの香りが広がる中、一人の女子生徒が甲高い声を上げた。
「ない! 私のプリンがない!」
食後のデザートのためにとっておいた小さなプリンが、お盆の上から消えていたのだ。女の子が泣き出し、教室はにわかに騒がしくなる。誰が盗ったのか。犯人捜しが始まり、真っ先に疑いの目を向けられたのは、いたずら好きで知られる鉄二だった。
「お前だろ! 鉄二!」
「ち、違う! 俺じゃねえ!」
鉄二は顔を真っ赤にして否定する。濡れ衣を着せられ、悔しさで拳を握りしめているが、もともと口下手な彼には、うまく反論の言葉が出てこない。見かねた有紀が「ちゃんと見てないくせに、鉄ちゃんを疑うのはやめなよ!」と間に入り、事態はさらに揉め始めた。
その時だった。伸太郎がすっと立ち上がり、パン、と一つ柏手を打った。
不思議なことに、その場にいた全員の視線が、一斉に彼に注がれる。
「お立ち会い、お立ち会い! まあ、そう角突き合わせるもんじゃございやせん。腹が減っては戦はできぬ、と昔から相場は決まっておりやす。ここはひとつ、あっしの噺でも聞いて、腹の虫を落ち着かせようじゃございませんか」
先生でさえ、彼のその場の空気を支配する不思議な力に、思わず言葉を失う。伸太郎は、こほんと一つ咳払いをすると、よどみなく語り始めた。
「とある長屋に住んでおりました、食いしん坊の八五郎てえ男。ある晩、腹を空かせておりやしたが、あいにく米びつは空っぽでしてね。どうしたものかと思案しておりやすと、隣の家から、それはそれは香ばしい、鰻を焼く匂いが漂ってくる。たまりかねた八五郎、匂いをおかずに飯を食おうと、炊きたての飯をどんぶりに山と盛り…」
伸太郎が語り始めたのは、「鰻のかぎ賃」の落語をアレンジした噺だった。登場人物が目に浮かぶような巧みな語り口、声色の使い分け。教室は水を打ったように静まりかえり、子供も先生も、彼の噺にぐいぐいと引き込まれていく。プリンをなくした女の子も、いつしか涙を忘れ、聞き入っていた。
噺が終わり、「…てなわけで、匂いだけで飯を三杯もおかわりした八五郎、すっかり満足して、高いびきで寝ちまったてえ、まあ、そんなお話でございます。おあとがよろしいようで」と伸太郎が締めくくると、教室は一瞬の静寂の後、わっと笑いに包まれた。
あれだけ険悪だった空気が、嘘のように和らいでいる。もう誰も、プリンのことや、鉄二を疑う気持ちなど忘れてしまっていた。結局、プリンは女の子の机の引き出しから見つかり、一件落着となった。
放課後、伸太郎が下校していると、有紀が小走りで追いついてきた。
「伸太郎くん!」
「お、有紀ちゃんじゃねえか。どうしたんでえ?」
「今日の…すごかった。みんな、伸太郎くんの噺に夢中だったよ」
少し頬を赤らめ、はにかみながら言う有紀。
「そ、そうかい? そいつは、あっしも噺家冥利に尽きらあね」
平静を装いながらも、その喜びは隠しきれない。有紀は「じゃあね」と手を振って、家の方向へと曲がっていった。
伸太郎は、雲の上を歩いているようなご機嫌な気分で、家の玄関をくぐった。
「ただいま戻りやした! おお、母上! 今日も夕日に照らされたお姿が、一段と輝いておりますぜ!」
「はいはい。何か良いことでもあったのかい?」
輝美の言葉を背中で聞きながら、伸太郎は自分の部屋に駆け込んだ。
風呂場から、ご機嫌な伸太郎の鼻歌が聞こえてくる。湯船に浸かりながら、今日の出来事を回想していた。
「有紀ちゃんあっしの事…」
その呟きは、湯気の中にふわりと溶けていった。落語少年、宝生伸太郎の、長いようで短い一日は、こうして幕を閉じるのであった。