言の葉、お預かりします。
ドンっ
鈍い音がした。だが次の瞬間、目を開くとそこは真っ白な世界だった。自分だけが存在する世界。
「ここは……」
男は辺りを見渡す。すると、男の真後ろに誰かが立っていた。
「あ、すみません、」
男は反射的に謝った。だがすぐ違和感に気付く。
「え……?」
見るとその人間には脚がない。上半身だけがぷかぷかと浮いている状態だ。背丈、というより『それ』の目線、は男と同じくらいで、脚がないこと以外は普通のサラリーマンのような見た目である。歳は30代後半くらいであろうか。普通の会社員のように黒いスーツを着ていて、まる眼鏡を掛けた几帳面そうな男の見た目をしている。
男は『それ』をじっと見つめていた。すると『それ』は突然口を開いた。
「えーと、櫻井幸太郎、17歳、だね。はい、あぁ、はいはい。」
『それ』はどこからともなくクリップボードを出してきて、留められている紙に目をやった。そしてそれを見ながらうんうん、と頷き、再び男の方を見た。
「えっと、はい。あなた、死にました。」
突然の宣告に、男は唖然とした。男はすぐには動けなかった。やっとの思いで思考をフル回転させる。
「確か、何かが俺にぶつかって……」
男がぼそぼそと呟いていると、『それ』が話し始めた。
「はい。歩行者天国を乱入して来た大型トラックに轢かれて、即死でした。」
『それ』は淡々と話を続けた。
「本来あなたはもう少し生きる予定だったのですが、こちらの不手際により少しばかり寿命が縮まってしまいました。」
「不手際……」
「はい、大変申し訳ありませんでした。」
『それ』は淡々とした物言いだった。まるで感情の無いロボットのように。男は『それ』の瞳をじっと見つめた。その瞳には何が映っているのか、男には分からなかった。何か不気味なものを見ているようで、だがそんなことはどうでも良いくらい、男の心は乱れていた。
「し、死んだんだよな、俺。まだやりたい事沢山あったのに、もうできないってことだよな。こんな簡単に、親にも友達にも、何も言わないままお別れってことだよな。」
男は溢れ出る思いを止める事ができなかった。対して『それ』は機械のように無表情でただこちらを見つめている。それが男は無性に腹が立った。
「何だよ、謝って済むと思ってんのか?不手際で早く死んだ?ふざけんなよ。こっちはただ普通に生きてただけなのに……!!」
気付けば男は『それ』の胸ぐらに手がのびていた。
「ふざけんなぁぁぁっっっ!!!」
スカッ
男の手は『それ』をすり抜けた。何度も触れようと試してみる。だが駄目だった。どうしても『それ』に触れる事ができない。
「すみません。私は実体が無いのです。」
「実体が無い?何だよそれ。大体お前何なんだよ?」
男が問うと、『それ』は相変わらずの無表情で説明を始めた。
「私は死んだ者の魂を確認し、次の会場へと案内する係の者でございます。」
「はぁ……?次とかあるのかよ。そんなのどうでも良いから、生き返らせてくれよ。まだやり残したこと沢山あるんだ。」
『それ』は眉毛をピクっと動かし、再び無表情で答えた。
「それは……できません。前例がございませんので。」
男は今までに経験したことのない絶望を感じた。そして体が硬直した。
(さ、さすがに夢だろ……こんなあっけなく人生終了かよ?)
男が悶々とした思いで立ち尽くしていたとき、『それ』の携帯電話が鳴り出し、『それ』は「はい、どうしましたか。」と言って電話に出た。
「はい、はい。あぁ、分かりました。」
『それ』は電話の相手にペコペコとお辞儀をしながら暫く会話を続けた後に、電話を切った。そして男を見ると、こう言った。
「櫻井さまには生き返るチャンスを与えるとの事でした。というわけで、」
「え、ちょちょ待て待て」
『それ』は男の阻止を無視してパチンッと指を鳴らした。
「ちょ、まっ…………」
男は視界がふっと真っ白になり、そして闇に包まれた。
―――――――――――――――――――――――
「つんつんつつ〜ん」
(む、何だ……?)
男は何者かに頬を突かれている感覚がした。男は目をそっと開けた。
「あ、起きたぁ〜!」
(ん、誰……)
男の目には可愛らしい顔つきでポニーテールをしている女と、それよりは少し年上であろう落ち着いた雰囲気のある髪の長い女性が映っていた。二人とも巫女なような服を着ている。
男は木にもたれ掛かりながら草の上に座っていた。ここはどこだと辺りをキョロキョロ見渡す。見ると、周りには木々が何本も生えていて、手元には蟻2、3匹がトコトコと歩いていた。少し遠くを見ると、こじんまりとした手水舎のようなものがあった。
「ここは…」
男が言いかけると、ポニーテールの女が元気良く、
「あぁ、ここはね、神社!私たちのお家ですっ!!」
と言った。そして大人っぽい女が続けて、
「まる眼鏡の怖いおじさんいたでしょ?あれは魂全般を扱う専門部署・魂お預かり所の職員ですね。そして私たちが扱うのが……」
「「言の葉」」
(言の葉……ん、どゆこと?)
男は何が何だか、という感じで何も喋れずにいた。そんな男を見て大人っぽい女が「中に入って話しましょうか。」と言い、男は二人の後ろをついて行き、木々を通り抜け、社殿の隣にある小さな建物の中へと入っていった。
「えっと……」
建物の中は事務所のようになっていて、二つの黒いソファが向かい合わせに置かれており、その間に机が置いてあった。男はソファに座らされ、事の事情を一から説明してもらうことになった。
「あなたは櫻井幸太郎として17年間生きてきたわよね。けれど大型トラックに轢かれて呆気なく死んでしまった。でもそれは、人の運命を定める神々と魂お預かり所の間で生じた齟齬による、間違いだったの。つまり、あなたはまだまだ生きる予定だったのね。」
「そうそう、だから神々は特例で君を生き返らせることをお決めになったの!でも無条件にっていう訳にはいかないんだよなぁ、これが。色々と複雑な事情が絡んでくるんだよね〜。」
「まあそこは良いわ。とりあえず、貴方には仕事をしてもらいます。この仕事を通して貴方が生き返らせるに値する者として認められた時、貴方は元の人生を再び歩むことができる、ということです。」
男は分かったような分からないような、ぼんやりと話を聞いていた。
「えーと、まだいまいち分かってないんですけど、そもそも俺が今いるこの世界って、普通に生きてる人間が住む場所ですよね……?あれ、つまりもうこれって、俺生き返ってません?」
男は今すぐ自分の家に帰ろうと立ち上がった。するとポニーテールの女が男の腕を掴み、じっと見つめた。
「あのね、鏡見てごらん。ほら。」
そう言って女は手鏡を男に向けた。男は鏡の中の人間と目が合った。
「え、これ誰……」
そこには男の知らない人間が驚いた顔をして男を見つめていた。
「いや、え、ちょっと待って、これ、え、」
男の一挙一動を鏡の中の人間が真似する。
「これ……俺?」
ポニーテールの女は手鏡をしまうとこう告げた。
「君は生き返るまでの間、櫻井幸太郎という人間とは無関係の人間として過ごしてもらうんだよ。もちろん、その状態でここから逃げようとしたら、その瞬間に君は死ぬんだけどね。」
男は固唾を飲んだ。もう、やるしかない。そう思った。
「……分かりました。それじゃあ仕事っていうのを教えてください。」
男は二人の女を真っ直ぐと見つめた。覚悟を決めた顔だった。
「もちろんよ。最初から始めるわね。」
大人っぽい女はすぅっと息を吸い、話し始めた。
「私たちは言の葉お預かり所の職員で、ここ、言の葉神社の巫女でもあります。貴方にしてもらうのは言の葉送り所の方の仕事。これは簡単に言うと、亡くなられた方の生きている間に伝えられなかった思い、つまり言の葉を、その方の大切な方へと送る仕事です。」
「ほら、大切な人が亡くなったときに、故人の声が聞こえることがあるって、聞いた事ない?それだよそれ〜!」
(それ、と言われても……)
男は少々困った顔をして、「へぇ……」とだけ言った。
「まぁ、一緒にしていくうちに分かってくるよ!」
「そ、そうですね……」
男は曖昧な返事だけすると、黙って下を向いた。
(今頃皆んなは何してんのかな……。俺が死んで泣いてるのかな……)
頭の中は家族と友人のことでいっぱいだった。仕事をすれば生き返られる、その言葉を信じて頑張るしかない。男は歯を食いしばり、心の中でこのように唱えた。
(頑張れば、きっと………!!)
―――――――――――――――――――――――
その日の夜、男はソファの上で寝ることになった。二人の女は建物の二階で寝るらしい。男は今、暗い部屋の中でソファに横になっていた。全く眠れなかった。
何も考えないようにすると、かえって家族たちのことが思い出される。そうすればきっと、涙が止まらなくなるだろう。男は違うことを考えることにした。
(あのあと……)
仕事の説明を一通りしてもらった後、女たちは自己紹介をした。
「あ、私は西園寺桃花!18歳です!」
「私は巫部凛よ。歳は……」
そう言うとその大人っぽい女は口元に人差し指を当てて、「内緒」と妖艶に言った。
「えぇ、凛さん若いじゃん、隠すことないじゃ〜ん!」
すかさずポニーテールの女がツッコミを入れる。
「いやいや、年齢不詳ということにしときましょ。あ、それで貴方の名前なんだけど…」
男はビクッとした。
(そうだ、櫻井幸太郎とはしばしお別れだ……)
「えっと、魂お預かり所の人から貴方の名前を貰ってるのよね。」
凛さん、と呼ばれたその女はどこからか書類を出してきて、パラパラとめくった。
「あ、そうそう。貴方の名前はね、『木下心』よ。」
「木下、心………。はい、分かりました。ありがとうございます。」
―――――――――――――――――――――――
男は自分の新しい名前を思い出し、ため息を吐く。
(これが夢ならそろそろ覚めてくれ……。寝て覚めたら櫻井幸太郎として普通に生活してる、それだけで良いんだ……。)
男はソファから起き上がり、建物の外に出た。まだ日が昇っておらず、辺りは真っ暗だ。そして涼しい風が肌に染みる。どこからか虫の声が聞こえた。男は社殿のすぐ下にある階段に腰を掛け、ぼんやりと辺りを見渡した。
「知らない風景……。これが夢なら、俺は随分とまあ想像力が豊かなこって…。」
そこでしばらく座っていると、突然、
「どうしたの?」
と声が聞こえた。振り返ると、ポニーテールの女、桃花がいた。不思議そうに男を見つめる。
「いや、眠れなくって……。」
男がそう言うと、桃花はにこっと笑って男の隣に座った。
「そりゃあ眠れないよねぇ。何が何だかって感じでしょ?」
「は、はい……。」
男は俯いた。桃花はどこか遠くを眺めながら、口を開いた。
「櫻井幸太郎は、今は死んでる。家族も友達も、皆んな悲しんでる。だけど、生き返るチャンスを与えられた。それならさ、頑張るしかないんじゃない?」
桃花の優しい声が、男には悲しくて、腹立たしくて、仕方なかった。
「…何が分かるんですか。頑張るしかないのは分かってます。生き返るチャンスを貰えたのも、きっとすっごくラッキーなんだって、分かってます。もっとポジティブに考えなきゃって、分かって……」
目の前の世界が急に歪んだ。男は桃花に顔を見られないように、さらに下を向いた。
「……分かってます。だけど、まだ夢なんじゃないかって信じたいんだ……。」
桃花は静かに泣く男の隣で、どこか遠くを眺めながら座っていた。その顔にはどこか儚げな表情が浮かんでいたのだった。
―――――――――――――――――――――――
次の日の朝。
「おはよう!心くん!」
「こら、桃花。そんな耳元で叫ばないの。鼓膜破れちゃうじゃない。」
「えへへ〜」
男は騒がしいと思い、目を覚ました。男はいつの間にかソファの上で眠っていたようだった。男は起き上がり、二人の女と目が合った。二人は巫女装束ではなく、普通の動きやすそうな服を着ていた。
「あ、えっと、おはようございます……。」
男は気まずそうに挨拶をした。すると凛さんはニコリと笑い、
「さぁ、今日から仕事よ。その前に、朝ご飯を食べなきゃね。」
と言うと、男を二階へと招いた。
―――――――――――――――――――――――
二階は普通の家庭のような、ダイニングテーブルがありキッチンがありテレビがあり、と一階の事務所とは全く雰囲気が異なる。男はテーブルの椅子に座らされ、桃花と凛さんはキッチンへと向かった。
「二人はここに住んでるんですか?」
男がそう聞くと、凛さんが冷蔵庫を開けて中から食材を取り出しながら答えた。
「うん、そうよ〜。巫女だからね〜。」
「家族とかは……」
男が尋ねると、桃花は少しピクッとして、答えた。
「うん、家族とは離れて暮らしてるんだ。ここが私たちの職場であり家であるってことだよ。」
「そうなんですか……。じゃあこの神社は二人だけで?」
桃花と凛さんはおにぎりを持って来ながらこう言った。
「いや、私たちが言の葉お預かり所の仕事をしているときはバイトの人が全部やってくれてるよ。」
桃花がそう言うと、凛さんは少し急かすように
「さ、早く食べましょ。あと30分で時間になっちゃうわ。」
と言い、男と二人の女はパクパクとおにぎりを頬張って出かけた。
三人は大きな社殿の後ろにある、小さな社の前まで歩いた。
「それじゃあ、行くわよ。」
凛さんがそう言い、手を合わせて何かを唱え始めた。
「え、え?行くってどこに…」
戸惑う男の肩に桃花がポンっと手を置き、「静かにね」と優しく言った。そして桃花も手を合わせ目を瞑ったので、男は仕方なく同じように真似した。
「扉をお開きください。」
凛さんがそう言った瞬間、何か温かい空気が流れ、ふわっとした浮遊感を感じたと思えば、すぐに収まった。
「えっと……」
男はいつ目を開けて良いのか分からず、さりげなく助けを求めた。すると桃花が男の耳元で「もう良いよ」と囁いた。男はそっと目を開ける。するとそこは、見覚えのある白い空間だった。
「あ、ここ!!」
男は叫んだ。すると凛さんはふふっと笑い、言った。
「うん、そうよ。貴方が亡くなった時にここに来たはず。ここはね、死者が最初に訪れるところだから。」
「それじゃあ、言の葉お預かり所はこっちだから。来て。」
そう言うと凛さんはどこかへと歩き始めた。男は何が何だかよく分からないまま後をついて行く。その道中で、桃花に質問をした。
「あのさ、ここって死者が来るところなんだよな?俺たち人間なのにこんな所にいて良いのか?」
男が尋ねると、桃花はなんて事無い普通の顔で答えた。
「うん、良いんだよ。私たちは今、実体をさっきいた所に置いて来てるから。ほら、私を触ってみてよ。絶対触れないから。」
男は言われた通り、桃花の体を触ろうとした。
「あ、どこ触ろうとしてんの?うわ、うわぁ……」
桃花が突然そう言ったので、男はムッとして
「触れって言ったのそっちだろ!?」
と言った。すると、「えいっ」と桃花は男の顔面に拳をぶつけた。
「わっ!?」
男は驚いて叫んだ。が、その手は男をすり抜けてしまった。
「ほらね?」
桃花は得意げに言うので、男はさらにムッとしてそっぽを向いた。
「あ、言ってる間に着いたよ。」
桃花が言うので、見ると、そこには椅子と机があった。椅子の数は四人分。三つの椅子と一つの椅子が机を挟んで向かい合わせに置かれている。
「え、ここに座るってことですか?」
男が尋ねると、凛さんはうんと頷き、右端の椅子に座るよう促した。左から桃花、凛さん、男の順に座った。
「えっと…??何だろう。今から何が起こるんですかね…??」
男が恐る恐る聞くと、凛さんは「まぁ見てたら分かるわよ。」と優しく微笑んだ。男はそれ以上何も言えなくなり、黙って目の前の椅子を見つめていた。
「あ、来る。」
「え?」
凛さんが突然そう言ったと同時に、目の前の椅子が光り出した。と思えば、突然目の前に人が現れた。
「えっ」
男は思わず声が出てしまった。その現れた人間は、70代くらいの目つきが鋭い男性だった。
「こんにちは。」「こんにちは!」
凛さんと桃花が続け様に挨拶をする。それを見て男は遅れて「こんにちは」と言った。
「高橋浩二さんですね。こちら言の葉お預かり所でございます。」
凛さんが慣れた様子で話し出した。すると目の前の男性はギロリと凛さんを見つめてペコリと軽く頭を下げた。
「早速ですが、高橋様のこれまでの人生をお教えください。」
「…はい?」
凛さんの言葉に男性は反応した。
「何でそんなことしなきゃいけないんだ。そもそもこの真っ白な空間は何なんだ。気持ち悪い。」
男性はあからさまに嫌悪感を示していた。そして凛さんはすかさず笑顔でこう言った。
「ここは死者の方々があの世へ行く前に必要な手続きをする空間でございます。」
「死者?あぁそうか、そういえばさっきの眼鏡野郎が言ってたな。そうか、俺は死んだんだったな。」
男性は納得して、凛さんをギロリと見つめた。
「それで?俺のこれまでの人生聞いて何か楽しいことでもあんのか?」
凛さんはニコリと微笑み、答えた。
「貴方様自身が自分の人生を振り返ることで、生きている間に伝えたかった思いを思い出していただき、私たちがそれを代わりにお伝えします。」
「けっ、そんなの……。伝える奴なんて居ないよ。」
「……そうですか。では、娘の美穂さん、お子さんは幾つになったか知っていますか?」
「…は?」
「16歳です。もう高校生になられたんですよ。」
「……だから何だよ。赤ん坊の時の顔すら見たことねえってのに。」
「何故ですか?」
凛さんは相変わらずの笑顔で尋ねる。男性は少したじろいだ。
「何でって……も、もう良いだろ?どうせ死んだんだから、もう何も変わらないって…」
凛さんは、下を向く男性を真っ直ぐと見つめる。
「確かに、貴方は死にました。だけど死んだからって、貴方という存在が無かった事にはなりません。貴方の息が絶えるその瞬間まで、貴方の思いはそこにあったんです。私たちはその思いを無かった事にはしたくないんです。」
凛さんは今にも泣きそうな声で訴えかけた。側で聞いていた男がかなり心配に思うくらいに、その声は震えていた。
これには男性も驚いたのか、少しの間の後に、「分かった。」と頷いた。
「俺の人生を言えば良いんだろ?大したこと無いけどな。」
そんな前置きの後に、男性は話を始めた。その話は次のようなものだった。
―――――――――――――――――――――――
三人兄弟の真ん中に生まれて、頭の良い兄弟とは違い、勉強なんてからっきしの子供だった。子供の頃の記憶は殆ど無いけど、昔から頑固だったのは覚えている。
そんな俺も、当時は見合いが一般的だったから、比較的早くに結婚したよ。相手の女性は好きなタイプではなかったけど、悪い人じゃなかったから何となく、「あぁ、この人が俺の運命の人なんだ」って感じた。
だけど、その矢先の事だったな。結婚してすぐに子供を授かったけど、その子を産んですぐに妻は死んじゃった。
「こいつがいなければ」って考えが一瞬頭をよぎった。だけど、その赤ん坊の笑顔を見た途端に、そんな事を考えている自分が恐ろしくなったんだ。
そいつは美穂って名付けたよ。妻が死ぬ前、一緒に考えた名前だったからな。
「美穂」って呼ぶ度に、そいつはふにゃって笑うんだよ。化け物みたいに泣き叫んだり、至る所でくっさいの出すんだけどさぁ、本当に臭いんだよ。ははっ。でもその笑顔を見ると、そんなのどうでも良いやってなるんだ。
そいつもさ、あっという間に大きくなって、小学校に入学したんだ。昔と比べたら大きくなったはずなのに、赤いランドセルがおっきく見えて、後ろから見たらランドセルが歩いてるみたいでさ。毎日送り出すとき、感動と不安の入り混じった気持ちがぐわぁって押し寄せて来て、毎回美穂に心配させたっけか。「お父さん大丈夫?」ってな。優しい奴だよ、本当に。
あぁそうだ。参観日にな、俺は工場で働いてたから、その服のまま教室に入ったんだ。仕事の合間を抜け出してな。そしたら油臭かったのか、周りの親からも、何も分かっとらん小さな子供達からも、嫌な顔をされたよ。「あぁ、美穂に申し訳ないなぁ」って思っとったら、美穂が突然後ろを振り返って言ったんだ。
「私のお父さんはくさくない!がんばってるにおいだから良いにおいなのっ!」
ってな。思わず泣きそうになったよ。だけどさ、誰も「臭い」なんて言葉に出してないんだぞ?それ聞いた瞬間に、「あぁ臭かったんだな。」って何とも言えん気持ちになったわ。はははっ。
それであっという間に受験生だ。毎日夜遅くまで勉強してな、あぁ、今思えば夜食とか作ってやれば良かったなぁ。美穂は何にも文句言わずに頑張ってたよ。お金はあんまり無かったから私立の大学には行かせてやれんぞって言ったら「うん、ありがとう!」って言うんだ。「何でありがとう、なんだ?」って聞いたらな、「大学に行かせてくれるだけでとっても嬉しいよ」って言ったんだ。俺はな、その日からもっと仕事を頑張らなきゃって思ったな。
そんで美穂は第一志望の国立大学に合格したよ。でもまともに「おめでとう」は言わんかったな。「頑張ってたんやから当たり前だろ」って思ったんやと思うわ。でも言えば良かったんかな。
それから美穂は大学を卒業して、そうだ、弁護士になったんだよ。凄いだろ?運良く家から通えるところに事務所があったからな、ずっと家から通っとったわ。
それからしばらく経たんうちにな、あいつ「結婚する」って言ってきてな。「はぁ?」って思うだろ?そんで家に男連れて来て。俺思わず「ダメだ」って言ったよ。「何で?」って聞くアイツに「何でもだ。」って言ってな。俺としては一人娘が他の男に取られるのが嫌だったんだと思うよ。だけど当時は「ダメだ」の一点張りでな。最初は優しかった美穂も段々冷たくなってきて……。「あぁ、これは嫌われる」って自分でも思ったよ。だけどな、頑固な性格なもんで一度言ったことを曲げるなんて出来ないたちだったから、……。
そうだな、あの日から美穂は帰ってこなかったな。それからはずっと一人さ。何にも楽しくないし、友達もいないに等しかったから、ずっと家に引きこもってな。それが祟ったのか、心臓の病で倒れたよ。
幸いコンビニの中だったから、すぐに病院に運ばれて助かったけど……。別にもう死んでても良かったんだけどな。 はぁ、そうだ、あの時病室に美穂が来たんだ。「大丈夫?」って昔みたいな優しい声で聞いてくれたんだ。なのに俺は……。俺は、「さっさと帰れ。」って言ったんだよな。アホだよな。何でそんなこと言って……。その後美穂は何て言ってたっけな。もう覚えてないな。でも美穂のその言葉を聞いて、俺は「美穂に嫌われてる」って確信したな。それだけは覚えてる。
俺は退院した後、1、2ヶ月くらい経ったある日、また胸の辺りが苦しくなって……。あぁそうだ、さっきまで俺は家の台所に立ってて……。それできっと、いつの間にかここに来てたんだな。そうか、俺は家の中でぽっくり逝ったんだな。
―――――――――――――――――――――――
男性は一通り話し終えると、どこか遠くをぼんやりと眺めた。男と桃花は何も言えず目を逸らしていた。凛さんだけが、その男性を真っ直ぐと見つめていた。
「ありがとうございます。では、貴方が思いを伝えたい方と、その思いを教えてください。」
凛さんは淡々と、だけど温もりのある声で話した。男性は凛さんの方にゆっくりと顔を向けると、黙りこくってしまった。そして、おもむろに口を開いた。
「俺がもし……美穂に何か言ったとしても、美穂はもう許してはくれないよな。」
凛さんは一瞬考えるような素振りを見せ、口を開いた。
「いえ、そうは思いませんよ。美穂さんは絶対に貴方のことを大切に思っています。」
男性は凛さんを見た。
「何で…そう思うんだ?」
凛さんは優しく微笑んだ。
「今の貴方の話し方で、貴方が美穂さんを大切に思っていたのが分かります。もちろん、親が子供を大切に思っているからといって、子供にも同じものを求めるのは違うかもしれません。ですが、美穂さんの言動全てが、貴方を思っているからこそなのは、すぐに分かります。」
男性はその言葉を聞き、ポロポロと涙を流した。静かに泣くその老人の姿が、男の目には不思議なものに映った。
「それでは、貴方の伝えたい言葉、そしてその相手をお教えください。」
男性は目を赤くしながら、凛さんを見つめた。
「俺は……」
その男性の言葉を聞き、男は涙を堪え、桃花は肩を震わせた。そして凛さんは、男性を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「言の葉、お預かりします。」
―――――――――――――――――――――――
ここは亡くなった父の家だ。私と夫、娘、そして夫の家族だけの小さなお葬式を行っている。今は僧侶が何やら呪文のようなお経を唱えている。それを聞きながら、私たちは手を合わせている。娘の美佳はつまらないといった顔で適当に周りに合わせている。この場にいる人間のうち、父と関わりがあったのは私くらいだ。
父の遺体が見つかったとき、すでに死後3日だったそうだ。少し独特な臭いが部屋の中に漂い始めていたと聞き、私は耐えられなかった。
(頑固な人だったけど……)
私の中の父という人間は、頑固で言葉数が少なく、誤解されやすいタイプだ。
(最後に会ったのは病室だけど、それでもあまり話せなかったしな……。)
私の中で父という存在が小さくなってゆく。大人になれば皆んなそうなのだろうが、私は結婚してから父親とは殆ど話していない。殆ど、というよりも少なくて、結婚してから今まで、父と話したのはその病室での1分間だけだ。
自分が後悔しているのかも分からない。というかむしろ、あんな頑固親父なんて、と未だに思ってしまう節がある。
「あ、次は私か。」
焼香の順番が回って来た。立ち上がり、父が入った箱の前に座る。最早父親への感情なんて、そう残ってはいない。そう思い、私が父の遺影に一礼をしたときだった。
フワッ
何か温かい光が私の中に入ったのを感じた。
(え、何?)
私が戸惑っていると、突然聞き覚えのあるしがれた声がした。
「美穂。」
(お、お父さん…?)
「お前の旦那、良い奴だと思うよ。本当は結婚するって報告しに来たとき、嬉しかったんだ。だけど同時に、ちょっと寂しくてな。」
私はその声に注意深く耳を傾けた。
「あぁ、そうだ。なんだ。照れくさいな。お前にこれだけは伝えなきゃって思って言うんだけど、」
「愛してる。本当に愛してる。生まれてきてくれてありがとう。これからも、元気でいてください。」
私はそのとき、どんな顔をしていたのだろう。胸の奥がきゅうっと締めつけられるような、でも痛いとかじゃない。ただ、温かいものが全てを支配していく、そんな感じがした。
「お父さんっ……!」
気付けば温かいものが頬を伝っていた。
「……お父さんのバカッ!ちゃんと言ってくれないと分かんないじゃんっ!そんなの、最後にそんなの、ズルいよっ!!」
大人なのにみっともない、とは思いつつ、もうそんなのどうでも良かった。私はただ抑えられない気持ちが溢れ出し、子供みたいに泣きじゃくった。
―――――――――――――――――――――――
三人は白い空間から社の前に戻って来ていた。戻って来て早々に、男は小さな涙を溢し、桃花は社をただ黙って見つめていた。
「私たちは、ただ言の葉を送るだけ。」
凛さんがそう言った。
「だけどそれが誰かにとっては、かけがえの無いものになることを、私は知っている。」
凛さんは振り返り、男と桃花を交互に見てニコリと笑った。
「だから私たちは、これからも言の葉を送り続けるよ!」
そう元気よく言う凛さんを見て、男と桃花はうん、と頷いた。
「凛さん、私頑張る……!!まだまだ見習いだけど、とにかく頑張る!」
「お前頑張るしか言ってねぇじゃねぇかっ!!ズビッ」
「何よ、泣いてばっかりのあんたに言われたくないわ!」
そんな二人を見て、凛さんは珍しくははは、と大きな声で笑った。それを見た男と桃花も、つられて笑い出した。
言の葉。それは生きている間に伝えられなかった思い。だけど、伝えたいと強く願う思い。その思いは確かにそこにあった。
だから、伝えたい。
人が死んだら、その人の思いはどこに行くのでしょう。
今回はそんな思いを伝える人々のお話を書かせていただきました。
もっと空白を作った方が読みやすかったかな、と少し反省中です。_:(´ཀ`」 ∠):
評価や感想などありましたら是非お願いします!!