第57話 冽花 対 赤錆色
見れば見るほど気色悪い姿である。が、怖気を噛み殺し、ぐっと身を沈めると――地面から一掴みの砂を手にし、地を蹴りだした。
身体能力の高さを活かし、肉薄していく。
迫る冽花をみて、虎の背に幾つもの肉瘤が生じる。中から触手が飛びだし、冽花を突き刺さんと狙った。が、真っすぐな軌道には真っ直ぐな攻撃が付き物である。
冽花の瞳が拡大、縮小する。その足で急な制動をかけ、斜め前へと跳んだ。
後ろで鈍い音をたてて通りに触手が突き立つ音がする。見た目は『ぬめぬめと濡れ光る赤錆色をした』『蛇に近い軟体』なのに、必要に応じて硬質化するようである。
冽花は振り返らない。なおも鋭く一歩。片手を振り上げ、目の前の虎面と人面めがけて砂を撒いていた。
新たに虎の背に浮きあがっていた肉瘤の成長が止まる。虎は口を開けると、咆哮などはあげぬまま、反射といった動きで飛び退った。退いた先でしきりと前足で目を擦りだす。
冽花は追撃をせずに、その様をつかの間に見つめた。
――こいつら、目でものを見てんのか。あたしらと同じように。
少しだけ安心する。普通の生き物らしい挙動もするようである、と。
だが油断は禁物だ。また斜めに彼女が飛び退るとどうじに、その間隙を縫うよう、兵士たちが槍を突き入れにかかる。虎は串刺しになるものの――効いていない!
――やっぱり効かないか。……っ、あ、やば……ッ!
気にした様子がなく、さらに耳を閃かせて、兵士らのほうを向く。慌てて冽花は咄嗟に動いていた。
「槍から……っ、手ぇ放せ!!」
おもわず叫びつつ駆け、陰気の火を足へ灯していた。ほの暗き炎の力を借りて、先にも増して風をまき迫る。勢い虎の横っ面を蹴り飛ばしていた。
すると、不思議なことが起きた。
虎の顔がぐにゃりとへこんで。その振動が、波打つように体全体に伝わりゆくのが見え、背の触手が悶えるようくねったのである。
「え……。って、危ねッ!」
ぽかんと思わず動きを止めてしまい、そこを前足で狙われる。鋭い爪が前髪のひと筋を切り払い、さらっていく。
紙一重で飛び退って躱し、肩で息をしつつ、冽花は今起きたことを反芻した。
――何が起きたんだ? 今……。
陰気の炎をまとわせる足で蹴ったなら、虎が悶え苦しんだ。
そこで思い出す。城壁上での惨状と今し方の反応を。矢でも槍でも効かなかったのに。
――こいつ、陰気……いや、気が苦手なのか?
ちらりと今は炎の消えた足を見下ろす。拳を握りしめる。今しもちょうど、虎の虎面の片目が開いたところであった。冽花は奥歯を噛みしめた。
――っ、出し惜しみしてる場合じゃねえか……。
ともすれば、己の命を削りかねない力であった。
だが、今しも冽花の視界の端で、あらたに朱の花を咲かせる水蛇の姿がある。
抱水とて、血を摂ったとはいえ、いつまで持つか分からないのだ。
――……やるしかねえか……!
冽花の決断は早かった。轟ッ、と自身の体に燃えさかる火を灯したのである。
――一気にカタを付ける!
鋭く地を蹴り、飛びだしていく。体を低くし、地を疾駆する獣――猫にも似て。
奇しくも猫同士だ。しなやかな筋肉に包まれた身を躍動させて迫りゆく。
が、相手はまさしく異形だ。声なく咆哮する後に疾駆。次なる挙動はやはり背の触手を利用したものであった。
冽花の背後、路面へ刺していた触手を抜くなり、背から生やす新たな触手とふくめて、挟撃を狙う。冽花の背後にずらりと並べられる五本、前には三本。その背、腹を貫かんと風切って迫った。
だが、冽花は捉えていた。抜かれる折のわずかな硬い音や風切り音を。
猫耳を後ろにひいて閃かせて――目を眇めた。
地面へ飛びこむように前転。虚空を触手が貫いていく。
姿勢を立て直しざま、地に手をついての下段回し蹴りを放つ。狙いは前足。あやまたず当てて、粘土細工よろしくひしゃげさせていた。虎の上体が傾いでいく。
反対に立ち上がる冽花はその勢いを利用し、捉えた虎の顔面に膝を叩きこんでいた。
「オラァ!」
再びへこむ虎の顔。声なき声をあげ噛みつこうとしてくるので、頭を押して後退。
がちん、と空を噛む虎のまえで、高々と足を掲げた。振り下ろす。脳天への踵落とし。からの上体をひねり、側頭部から肩にかけて、回し蹴りをお見舞いした。
怒涛の三連撃。とくに頭部への攻撃が効いた様子で、ぴんと触手がすべて跳ねあがる。
冽花は飛び退って距離をとり、右足にとくに炎を集中させていく。
虎は舌を突きだし、感情を伺わせぬ瞳――ながらも、真っ直ぐに、明確に殺意をもって冽花を捉えていた。
触手が痙攣しながら伸び、寄りあわされて、偃月刀ほどの刃を形成する。
虎は声なき声で吼えた。冽花も吼える。
「うぉぉおおおおお!!」
虎が駆けだし、冽花も駆けだす。
幅広の刃をつけた触手が鞭のごとく振り回されて、冽花の胴を泣き別れさせんとした。
だが、軟らかく読みにくい曲線ながらも、同じ獣の動体視力をもつ蟲人である。
冽花はからくも躱す。再び前へと飛びこむように転がり軌道から逃れ、そうして轟々と燃えさかる片足で地を蹴ったのだった。
前転からの流れるような立位。立ち上がる頃にはすでに足の重心移動は始まっている。
上体を捻り、練り合わされていく蟲人の力。
そして、熾火のごとく燃えあがる黒き陰気の炎。
あやまたず、虎の横っ面および柔らかい腹へと突き刺さっていた。あまりに強かかつ、鮮やかな回し蹴りだ。
虎の腹へ触れた炎が、ひと際大きく燃えさかり、唸りをあげた。
虎はビクリと体を跳ねさせた。冽花はすぐさまに飛び退り――ぎょっと目を見開かせた。
虎の体が、その場で『解れだした』のである。
まるで赤錆色の太い糸を寄りあわせていたかのように。声なき咆哮をあげる顔から崩壊が始まる。赤錆色の顔から、ばらりと幾条もの蛇に似た何かが分かれて零れ落ち、地面で痙攣しつつ溶け去っていく。
しゅうしゅうと音をあげながら――饐えた血液にも似た香りを残し、蒸発していく。
冽花はすっかりとその身が解け去るまでの間、動けなかった。
見たことも聞いたこともない存在の終わりに圧倒されて、身じろぎ一つ取ることができなかった。
だが、硬直の時はそう長くは続かない。
「おおい、手が空いてんなら手伝え!」
そう怒鳴りつけてきた浩然の姿があったのである。
ハッと我に返り、冽花は首を巡らせた。三人のなかで唯一、気が扱えない人物、浩然。だが、しぶとく戦っていたようである。
折しもちょうど賤竜もまた、棍を手にし駆けつけるのが見えた。
賤竜の元来た場所を見ると、赤錆色の屑のようなものが見える。やはり同じく『解れた』のだと知る。
得体のしれない未知の存在と戦っていたことに今更ながらに身震いしつつ、冽花は駆けだす。
まだまだ襲撃はやまぬのだった。