第56話 赤錆色の襲来
水を打ったような静寂が街を包みこんでいた。通りには人っ子一人いはしない。
家々の扉は固く閉ざされ、商店の傍らには卸しかけの積み荷が放りだされている。水路にも杜撰に繋いだだけの舟が、幾つも木っ端のごとくに空しく揺らめいていた。
そんなうら寂しい通りの一角――中央のひと際大きな、目抜き通りに抱水は佇んでいた。冽花たちと兵士の一団を連れて。そして、おもむろに口を開いた。
『隠れていてもよかったのだぞ?』
口元を扇で隠し、目は頭上の兵士らが居並ぶ城壁を見ている。そんな彼に、冽花は目を丸めると、後頭部で組んでいた手を解いた。
「何言ってんだよ、水くせえな。ここまで来たら一蓮托生だ」
「おうともさ。福峰が滅んじまったら、俺たち白墨党も参っちまうしなあ」
笑いながら浩然も口を挟んでくるのに頷き、冽花は傍らを見やる。
「それに、虎の蟲獣が二百も来てるんだ。賤竜の力も必要だと思う」
その言葉に硝子球の瞳が冽花を見、ついで抱水を見遣った。
三者三様の答えに、抱水は鼻を鳴らした。やはり瞳を向けることはなく。
『……勝手にしろ。ただし、どうなっても責任は負わぬゆえな。そのつもりでいろ』
「当たり前」
「むしろ蹴散らしてやるぜ」
『威勢だけはいいことだ。――む』
抱水は眉をひそめ、冽花らは表情を引きしめる。
再び半鐘が打ち鳴らされだしたのである。合図だ。蟲獣の襲来である。
抱水は扇に白炎を纏わせるなり、周囲の水路へと散らす。
血を摂ったものの、完全な武装解禁をせぬのは、その浪費を厭うてのことである。
そして、彼は用心深かった。自らの目でも敵戦力を確認せんと欲したのであった。
流れる水を支配下において目を閉じるなり、その水の流れに沿って、外へと意識を広げ始めた。揺らめく水面、水の匂いを感じながら外へ。
締め切られた水門より外、わずかに零れる水の筋をたどって、城壁の外へと。
湖の水と一体化すると、『それ』は視えてきた。
続々と岸辺に到達する、胡麻粒のようなもの達。前列の者が波しぶきをあげて、湖へと浸かる。躊躇なく泳いで渡ってこようとしているようだ。
――っ……なんだ、あの姿は。見たことも聞いたこともない。
目を閉じたまま、抱水は眉を寄せた。
その蟲獣たちは皆、全身が赤錆色の毛並みと瞳をもつ、銅像めいた姿だったのである。虎面の瞳も、その頭に浮きでた人面の瞳にも、生気がまるで感じられない。
そして、抱水はほどなく息を飲むことになる。
兵士たちが十分に第一陣の距離が近づくのを待ち、矢を射かけだした直後であった。
キロリと虎たちは城壁を見上げるなり、背中から無数の赤黒い触手を出したのである。
頭のない蛇を思わせる触手はうねり、瞬時に硬質化。城壁に突き刺さる。そして、その触手を足がかりに彼らは登りだしたのであった。
矢を射かけられ、針鼠のごとくにされても、彼らは止まらない。
抱水は奥歯を噛みしめた。怖気が走ってたまらなかった。
――これは。蟲獣と呼べるものなのか……!?
慌てて意識を自身に戻し、じっと気の流れを読んでみようとするものの、それもまた、奇妙極まりない結果が出てくる。
気の纏う『気配』は一つだけである。だが、それは無数に存在している。
一にして全、全にして一。まるで群体のごとき在り様をもつのだと、知れたのであった。
――これは蟲獣などではない……! もっと異なる在り様の……。
ぱっと目を見開く。だが、ひと足遅かった。
どよめく兵士たち。それでも彼らは槍を持ちかえ、懸命に蟲獣――と思われる虎を刺し、片っ端から叩き落とそうとした。
だが、突き刺されようとも止まらぬのである。どころか、虎たちの背から新たに生えてくる触手が、槍をつたって持ち手へと殺到しだす。蛇のごとくに。
その怖気をまねく光景といったらなかった。
どよめきが――悲鳴と変わるまで、そう長くはかからない。
「お、おい、どうなってんだ、アレ!?」
城壁から聞こえてくる怒号と悲鳴に、さすがに焦りを滲ませて冽花が訊ねる。
抱水は歯噛みをした。そうして唸るように告げた。
『蟲獣ではない』
「え?」
『蟲獣ではないと言っている! 見た目は虎の蟲獣のなりをしているが、アレは別の……おそらく、類を見ないたぐいの代物だ』
「なんだって!? 一体、どんな――……、っ!!」
冽花もまた、目をみひらき『それ』らを凝視した。
ついに第一陣が城壁の頂上に達したのである。
背から勢い伸びる触手が兵士を串刺しにし、ぶら下げる。重量をもって押し潰すなり、顎をひらいて噛み潰す。強靭な前足の一撃で肉を裂いて、首をぐるりと回転させる。
阿鼻叫喚の地獄絵図がそこに存在した。
「な、なんだよ、あれ、気色わりぃ!! それに……強ぇ。あんなのが二百もいるのか!?」
『ああ』
「っ、来るぞ!」
鋭く浩然が叫ぶ。どうじに、虎たちの群れが城壁から飛び降りてきた。
身構える冽花たち。先に準備をしていた抱水の対応が早い。水路から無数の水蛇を呼びだすなり、虎たちに殺到させる。その身が空中にある段階から呑みこませていく。
四肢をばたつかせて触手を出す虎たちだが、浮力には敵いようもなかった。
ぐっと抱水が手を握りしめると、水蛇のなかの水が急速に圧縮を開始。瞬く間に水圧で圧し潰され、虎たちは水蛇を染める色水と化した。
謎の生命体とはいえど、丸ごと圧し潰されれば、ひとたまりもない様子である。
が、いかんせん数が多い。すべての水蛇を操ったとて取りこぼしが生じてしまう。
ついに、どすんと三匹が降り立つ。通りを猛然と駆けてくる。抱水は叫んだ。
『私は手が離せない! 賤竜の契約者、賤竜、浩然ッ、兵士たちよ!!』
「ッ……ええい、やってやらぁ!」
ほんの少しだけ怖気づくものの、気合いをこめて冽花は駆けだした。それに並ぶ形で、ほか二人も駆けだす。さらに続く形で、兵士らも槍をかまえ突撃を開始する。
先手必勝とばかりに冽花は虎たちを指さす。
「賤竜、『水滴石穿』を許可する! 初っ端からやっちまいな!」
『知道』
「浩然、あたしは右をやる。アンタは左のヤツを頼む!」
「ああ!」
そうして、三人はそれぞれ散開する。
冽花は自身のもとへと駆け寄ってくる虎と相対した。




