第55話 『僕』と『私』の邂逅
カンカンカンカン、と遠く、不穏な半鐘の音が響きつづける。
そうして、しきりと何度も通りを早馬が行き来する。馬に乗った兵士たちは声高に市民らへと繰り返し呼びかけ続ける。
いわく、『蟲獣の群れが福峰に向かっている。到着は一刻(二時間)以内』、『家の門戸を固く閉ざし、なかに籠っているように』、とのこと。
それらの報せは、たちまち市井に散っていた白墨党の構成員によって、探路のもとへも運ばれた。警護の数が増え、彼らは一様に武装していた。
そうして、そんな彼らを前に、探路は牀に腰を下ろしたまま顎を撫でさすっていた。
「蟲獣の群れが、一刻以内にこの福峰に……」
「はい。正確な数は報じられていませんが、城壁に数多の兵士が集められているようです。恐らく、北門方向から到達するのではないかと」
「そうか。……冽花たちからの連絡はないのかい?」
「そちらの方は今のところ何も――、……っ!」
そうやり取りをしていた最中であった。鋭く部屋の扉が打たれた。
探路と、話をしていた白墨党の構成員は顔を見合わせる。扉を見ると、他の構成員が扉越しに応対していた。
扉はほどなく開けられた。
現れたのは、息も絶え絶えで汗みずくの兵士であった。
兵士は牀から体を起こす探路を見るや、へたり込むように片膝をついて、汗と涙の粒を床へと滴り落とした。
「瑟郎……様……っ、よくぞご無事で……ッ」
そう絞りだす彼を見て、探路は刹那に眉尻をさげ、わずかに複雑そうに唇を曲げる。が、口を開く。
「楽にしていいよ。誰か、彼に水を」
「っ……いいえ、先に報告をさせてください。抱水様からの、火急の報せです」
「……ッ、――…………許す。話してごらん」
『抱水』――その言葉を耳にした途端、騒めく小蛇が幾条も首筋を這いあがってくるように、頭痛の兆しが探路を襲った。だが、奥歯を噛みしめ鼻から息を抜いて、強靭な精神力によって、その恐怖を押さえつけた。
背を伸ばし直し、せいぜい堂々としてみせる。
探路――元は范瑟郎であったとて、今の彼には記憶がない。それでも周囲が不安がらぬように、恐らくの瑟郎らしく振る舞ってみせていたのだった。
それに。探路の胸のおくで、突き上げるような衝動がこみ上げていた。
抱水。……抱水。その名をもつ者こそが、あるいは自分が求めてきた存在ではないか。そんな予感がしていた。
そうして、おもわずと身を乗りだす探路の前で、兵士は語りだした。
それは。
「『迫る蟲獣の数、二百。我、力の及ぶかぎり奮戦する所存なり。我が主、范瑟郎。貴公は身の安全を第一に考え、守りを固めてくださるよう』」
淡々としつつも哀切の滲む言葉であった。
兵士の双眸が潤み、ぼたぼたと滂沱の涙を流す。歯の根がかち合わなくなり、それでも彼は絞りだした。
「……っ、『貴方の任せてくれた、福峰と民はお守り致します。貴方をお守り申し上げる。……お帰りを、心より』……ッ」
『お待ち申し上げていた』と。
かの風水僵尸の忠義、切なる思いのこもった言葉を、確かに届けたのだった。
聞き終えた探路は口をかすかに開け放した。唇を、わななかせた。
「……っ、……抱、水……」
そうして彼は牀に手を突くなり、足を下ろす間さえもどかしく――勢いあまり、前のめりに転げ落ちそうになったのであった。
慌てて傍らの白墨党構成員が抱きかかえて、その身を支えた。
「瑟郎様!」
「っ、……放してくれ! 抱水……っ、抱水が――!」
探路は。その腕のなかで不自由な身をもがかせながら、目の前が急速に滲んで、視界が歪みゆくのを感じていた。
体が言うことを聞かない。それがこんなにももどかしい。
今すぐにでも彼のもとへ行きたいのに!
抱水。君は。
「こんな……こんな時になっても、お前は……!」
我慢するのか。――『助けてくれ』とは言わないのか!
その思考に思い至った途端、頭をつんざかんばかりの痛みが湧きおこった。
頭のなかを幾条もの蛇が這い、のたうち回っているようだ。
目の裏が明滅するほど。それほどの痛みが湧きおこり、おもわずと呻いて頭を抱えこむ。
けれど、探路は頭をかきむしり、かぶりを振った。
「閉嘴ッ! 閉嘴、閉嘴……ッ、こんな、痛みなんて……ッ」
探路を抱く白墨党構成員は慌てふためき、その身を支え続けるしかできない。
その腕のなかで探路は吼えた。喉が破れんほどに吼えたのであった。
「こんな痛みなんて……っ、『約束を守れない痛みに比べたら』……ッ!」
そう自分で告げた瞬間、探路はハッと目を見開いた。
約束。――そうだ、約束だ。自分は『彼』と約束していたのだ。
いつか、確かに捕まえた記憶の欠けらのなかで、こう告げていたのである。
『彼』にむけて。
「三月後には必ず帰るからね。約束する」
「僕は……」
帰らなきゃいけない、『彼』のもとに。こんな言伝ごしではなく、確かに『彼』のもとに。
帰りたいんだ。
熱い涙が目から溢れ出て、頬を伝った。頭痛はもはや雑音に過ぎない。
帰りたい。帰りたい。痛切に、その思いがこみ上げ、探路が俯いたその時であった。
その涙をそっと拭うかのように頬へと添えられる、たっぷりとした筒袖があった。
探路は、瞬いて見た。
目の前に、ゆったりとした長衣を纏い、冠をかぶった優男が片膝ついているのを。
その身は向こう側が透けている。幽鬼であった。
無論、探路の涙を拭うことはできはしない。だが、後から後から零れ落ちるそれを撫で、困ったように眉尻をさげて笑っていた。
男は告げた。
『よくぞ。そこまで、一人でたどり着いたものだ』
「……君は?」
『名乗る価値もない咎人だよ。けれど、一つだけ言っておくと……君の前世だね』
僕の、前世。
「僕は……」
『私の千々に裂けた魂の名残りを受け継ぐ者。故にこそ、君の魂はなおも『彼』を求めてやまぬのだろう。――ずうっとずっと、一人にしていて悪かったね。見て見ぬふりなど、もうできはしない。君の頑張りに負けた』
優男は探路の額にみずからの額を押し当てて、目を閉じた。
『私の力を君に与えよう、瑟郎。そうして、今度こそ果たしてくれ。『彼』との約束を』
その体が白き光の粒子と化し、散る。
探路は。どくり、と自分の心臓が不可思議に高く脈打つのを感じた。
体が徐々に暖かくなってくる。そうして――探路は『理解した』。
同時に、いつかの、妹妹が言っていた言葉が頭をよぎった。
『蟲人はね、自分の手や足を使うみたいに自然と力を使えるの』
拳をゆっくりと握りしめる。そうして目を閉じる。
探路の体に――その握った拳を基点に、艶やかな『梔子の花』の絵図が浮かびあがった。
梔子の痣は瞬く間に全身へと伝わり、頬へも、そして耳にも描かれていった。
その場に匂う、澄みきった甘やかな花の香り。
「し、瑟郎様が『転化』を……!」
それまで息を飲んで見守り続けていた者の一人が、声を押し殺し告げた。
そんな彼の小さくも忙しない呼吸音、心音、緊張する筋肉の軋み。探路の耳にはそれらが情報の渦となって、集まり始めていた。
けれど、探路は両耳をふさいだ。
『耳がよくなった』ことによって、何よりも先に気になった音があったからである。
その音は『自分の内側から』発せられていた。
耳をふさいだことによって、他の音が失せて……聞こえる。聞こえてくる。
自分の体が痛みに強張り、軋む音。引き攣るような呼吸音、だがそれに対して、心臓は力強く飛び跳ね続けている。体を熱くし続けている。
それらの音に混じり――ざわざわと、ぐにゅぐにゅと、小蛇が蠢くような音がする。
音は、自分の頭のなかから聞こえてくるではないか。
「見つけた」
探路は息を吐いては大きく吸い始めた。呼吸は気の巡りを活性化させる上で、最も効率的な方法である。
あの幼い幽鬼はこうも言っていた。
『『転化』する時には気の流れが盛んになるの。わたしたち魂魄の欠片や記憶が……えっと、“より原初の気に近い”わたし達が、生きてるあなた達と結びつくから、そうなるみたいなんだけど』
『私』が合一したことにより、気の流れが盛んになっている。
そして、あの賤竜がこうも告げていたのである。
探路が痛みに苛まれる折には、体の気血水(人の体を成り立たせている三つの要素)に急激な乱れが生じるのだと。
首輪が『気』を発しており、その気は経絡を通り、頭に伝播しているのだと。
そうして、この音である。――こういう風には考えられないだろうか?
頭痛の原因は『首輪を基点』として成り立ち、『独自の気の流れ』を持っている。ゆえにこそ、場所が一定せずに、いつも『後頭部から』――『首筋から頭ぜんたいへと派生して』いっていたのではないか。
つまり、独自の気の流れを持つ、『生き物』なのではないかと。
生き物であるのならば、今の状況はさぞかし居心地が悪いに違いない。
自分たちが食い物にしてきた経絡が、肉体が、燃えるように熱を発しているのである。
煮詰められるようなものであったに違いない。
ますますと探路は息を大きく吸っては吐き続ける。心臓を拍動させ、拳をきつく握りしめては、体に力をこめて、熱を高め続けた。
「出ていけ、僕のなかから……!」
なかで悶えるように、ひと際強い痛みが発せられるものの。痛む箇所は徐々に頭のなかから後頭部へ、さらに首筋へと至る。
そうしてついに金属めくものが、近くで割れるような音を聞いた。
ぽろりと落ちる、赤錆色の首輪の欠片があった。
急激に痛みが退いて――楽になってゆく。
そうして、探路はふと瞬きを落とした。
まるで貼りつけられていた紗が剥がれ落ちるかのように。どうしても思い出せなかった記憶が、みるみるうちに頭の底から湧きあがったのである。
おもわずニッコリした。
なによりも先に脳裏に思い描かれたのは、かの風水僵尸のしかめっ面であったから。
「やっと君を……思い出すことができたよ、抱水」
そうして、探路は――瑟郎は、長い悪夢から目覚めたのだった。




