第3話 猫娘、長たる鬼と対峙する
「長ァ!」
部下の、切羽詰まった声を聞き届けるとどうじに、老鬼は足を止めた。
次々に打ち出される弩の射出音。だが、老鬼は振りむきざま、後足を退いて腰を落とし、腕を交差させた。
「老ぁぁぉぉ鬼ィィ――ッ!」
そう叫びながらぶっ飛んできた猫娘がいたためである。
烈しくまっすぐ愚直な――飛び蹴りであった。
その後ろには、弩の矢で無残にも破壊された孔雀石の絵図が幾つもあった。
だが、どれもこの烈しくも艶やかなる『杏色の風』を止めることはできなかったようだ。逆巻きそよぐそれに老鬼は目を細めた。
受け止めるものの踏んばり切れずに、老鬼は右へ体をひねる。衝撃で痺れる腕に密かに奥歯を噛みしめつつ、拳を握り締めた。
受け流しがてら、近づく娘の顔へと一発くれるべく。文字通り、鼻っ柱をへし折ってやろうとした。だが。
「っ、何度もボコボコ殴られてぇ……たまるかってんだよッ! オラ!」
「っむ」
ぺん! と強かに、柔らかくしなる、若干痛いもので逆に頬を張られてしまう。
流し見れば、彼女の尾である。
舌打ちを一度。裾をはらい、老鬼は身をひるがえした。
降り立つ冽花と相対する。
「太啰唆。あのまま寝ていればよかったものを」
「ハッ。そうすりゃ、お優しい老鬼様が……帰りしなについでに、痛みも感じさせずに、龍脈へ送ってくれるってえ寸法かい?」
「分かっているじゃないか。俺たちの争いに、横から首を突っ込んできた分際で」
「ッ! っていうか……アンタらこそが横入りなんだっつーの!」
「ほう?」
おもわずと怪訝に首をかしげる老鬼に、冽花は指を突きつける。
「こちとら、十七年間この場所を夢に見てきたんだよ! 来る日も来る日もずっとな! 『今度こそ、やり残したことを果たすんだ』って……そう考えてた。そんで、ようやくだ。ようやく来れたってのに……ドンパチされてたんだよ!」
けば立つ玉蜀黍もかくやの尾とともに、ひどく興奮して吼えた。
老鬼は得心した。目の前の異形と化した少女。そうして、その物言い。なにより、突きつけられた細腕にうかぶ『杏の花』の痣。引き連れる薫風といい。
「お前、賤竜の縁者の蟲人か」
「ああ。――っ、ご明察だ、よッ、笨蛋ッ!」
「口も悪ければ足癖も悪い」
そうして老鬼が得心すると同時に、冽花は突きつけていた腕を横ざまに振るう。反動で回し蹴りを見舞ったのであった。
右側頭部を的確に狙う、勢いはあるものの分かりやすい軌道。老鬼は腕を差し入れて受け止め、無防備な軸足を払う。崩れ落ちてくる身の肩をつかみ、腹に、浮かせた膝を突き刺すつもりでいた。
が、目を見開く。すぐさま膝を退くや、冽花を突き飛ばしていた。
飛び退く彼女は、腕をひいて拳を握り締めていた。鋭く弓引くような姿勢。舌を打って睨みすえていたのは――老鬼の股間だ。
「手癖も悪いときている」
「へっ。女の顔と腹ァ殴る賎貨にゃあ、陽萎がお似合いだ!」
「下流」
「閉嘴!」
噛みつくように吼えたてる。
そんな冽花へと――老鬼は、目だし穴の目を針のように眇めていた。
消耗はしているはずだ。現に一度倒れ伏している。
が、血みどろながらも意気軒昂にまだまだ吼えたける彼女を見て、太い溜息をついた。
そうして瞳を横へと動かす。周囲の状況を見て――一刻の猶予もないと判じたのである。
事態は拮抗し、切迫していた。
同じ人獣とはいえ、同一集団ではない彼女の登場に、人獣らは浮足立っている。それを牽制する黒尽くめたちも、自身の指示を待っている状態であった。
老鬼は決断する。やっぱり溜息まじりだったが。片手を上げて素早く数度、人差し指を立て屈伸させて、部下らに符号を送る。その手を後頭部に回した。
「これだけはしたくなかったんだが」
「あァ?」
「後始末が啰唆だ。……『虱潰しに消す』必要が出てくる」
ぼやきつつ、後頭部で結わえている黒布の結び目を解いた。しゅるりと衣擦れをたてて、半面の下から細いそれを引き抜く。
目出し穴のおくで開かれる『右目』に、冽花は今更ながらに気付いた。
元よりの異相であった。まして、仮面の奥など気付きづらい。この男、片目をふさいで今まで戦っていたようだ。それだけでも化け物じみているのだが。
息を飲んだ。ぞわり、と耳の毛まで膨れ上がるのを感じた。
老鬼の右頬に、鮮やかな『桜の絵図』が浮かび上がったからであった。
見る間に纏われる薫香。柔らかい桜の花の香り。
そうして、その目のなかに切れ目がはいる。ぱちり、と白目のなかにもう一つ。『桜色に煌めく瞳』を開かせた。
増えたのは、『人の瞳』である。俗にいう重瞳だ。さらに深まる異相。
が、冽花は別な意味で戦慄を覚えていた。
「お、まえ……その目は」
「ああ」
老鬼は頷いた。
「俺も蟲人だ。……故に退けない。お前を、完膚なきまでに叩きつぶす」
その重たい決意に満ちた一言に、冽花はさらにまごついたのであった。
おもわず奥歯を噛み締めるなり、大振りな一撃を向けてしまう。だが、それを見逃す老鬼ではない。応じて突き入れる拳でその手を払い除けるなり、反動を利用し繰りだす拳と真っ直ぐな蹴りを、冽花の胸と腹に叩きこんでいた。
「ぐっ、ぁあ……! ァぐ! うぅ!」
みしり、と鈍い音をたてる肋骨。柔らかい腹。よろめく冽花の横っ面を横殴りの一撃が襲う。歯の欠片を吐いて、女の身は軽々と吹き飛ぶ。床へとはずんで倒れ伏す。
が、そんな彼女を追いたてる老鬼に容赦の一文字はない。
「いぎゃぁぁあ!」
振り上げた足が狙うのは、伏した体ではなく尾だ。
力強く踏みしめる靴底で、尾の骨が砕かれた。腰から目も眩むような痛みが伝播し、冽花は泣き叫んでいた。その身が固まってしまう。
また腹を蹴り上げられて息が詰まる。胃の内容物を吐き散らかし転がる。
収縮する胃と肺に苦しんでいる間に、肩と太腿に刺さる鏢があり――ここで老鬼は手を止めた。
目の前に薄紅色に煌めく光が散ったからである。冽花の猫耳と尻尾が失せる。
現れたのは、彼女をかばい、両腕をひろげる少女であった。
甘い蜂蜜色の瞳を潤ませて、大粒の涙をこぼす、くだんの少女だった。
わななく唇をひらき、老鬼へと切なる叫びをぶつけた。
『もうやめて! っ……冽花をいじめないで!』
「……お前が、この娘の前世の」
『ええ、わたしがこの子の前世……わたしが頼んだの。わたしのせいなのよ! だから!』
「聞けんな」
『え……?』
「ただでさえにも蟲人は……獣の蟲人は、その身体能力の高さに比例し、生命力も強い。回復力も旺盛であり……ゆえに完全に息の根を止めねばならない。まずもって、俺のこの姿を見た時点で、その娘に生きる余地はない」
『そんな……』
「冽花と言ったか。これが蟲人の戦いだ。互いに譲れないものがある以上、容赦をされることはない。『お前だけではない』のだ」
透ける少女の体ごしに垣間見る、冽花は。腹を押さえたまま、身じろぐことはなかった。
そんな彼女に溜息をつくなり、老鬼はとどめを刺しに――だが、ふと聞こえてくる声に、呟きに、足を止めた。
「……でも……」
「……?」
「それ、でも、あたしは……っ、退くわけには……いかない。今度、こそ」
今度こそ。
老鬼は、目出し穴のおくの両目を眇めた。
「……そう思い、俺も生きている」
低く切り捨てる。そうして、その晒された首筋に鏢を投じようとした。
それで終いである。実際にそれは振るわれかけるところまでいった。
少女が身をひるがえし、冽花の身へと縋りつく。透けた体では到底盾になどなりようがないというのに、冽花の上体にしっかとしがみついて、その身を伏せたのであった。
終わらせることに重きを置いた老鬼は気付かず、知り得なかった。
密に触れ合った二人が、こんな囁きを交わしたことを。
「妹妹」
『うん』
「少し、だけ……『削る』」
『っ……うん』
涙を振りしぼる少女――妹妹の、体が弾けた。再び薄紅色の光の粒となって散り。
冽花の体が、黒く燃え上がったのだった。体の内側から黒い炎が噴き出ているのである。
その奔流は老鬼の手を止めて、飛び退らせるのに十分であった。
炎に押しだされるように傷口から鏢が転がり落ち、ふらつきつつ冽花は起き上がる。
床に手をついて、燃える――獣身を起こし、炯々と輝く目をむけるのであった。
距離をあけた老鬼は目をより眇めて、首を傾いだ。
「なんだ、その炎は。どこから出ている?」
解らない。……視えない。理解ができない。
そう言って目を凝らす老鬼の視界には、傷ついた冽花が、『骨身を透きとおらせる』形で立ち上がる姿が映りこんでいた。
これこそが、老鬼の力であった。
他者の身体……骨、筋肉、血管と、つぶさに透かして俯瞰しうる。
ゆえに、その生物の弱みを知ることができ、また行動の予兆を知ることができる。『こうしよう』と考えた折に、すでに生き物は無意識に身を反応させているのだから。
ゆえに老鬼は、獣の動体視力をもつ冽花と相対することができていた。
が、その老鬼をして視えない。先が読めずにいる。
怪訝をあらわにする老鬼に、冽花は薄く血のついた唇で笑ってみせた。
「これも、前世からの借りものさ」
「……っ、もしや、お前……」
「ああ。そうさ。……あたしは『二つ』混じってるんだ。正確には、一人と一匹だけどね」
その事実に絶句する。
自分ですらも――固まる老鬼に、冽花は両拳を握り締めて、高々と吼えたのであった。
「おら、どうしたァ!? ビビってんじゃねえぞ! 『お前だけじゃない』……譲れないモンがあるんだろう!?」
「……!」
その言葉を聞くなり顎をひく老鬼に、獰猛に歯を覗かせてみせた。
「お互い大事なモンのためにやり合おうや、老鬼!」
その言葉に老鬼は応えなかったけれど、微かに滲ませた畏怖をも飲みこんで目を眇めた。
そうして二人はぶつかった。
黒き炎に巻かれる冽花に、臆すことなく老鬼は立ち向かっていった。
炎の理屈は解らないけれど、冽花の体は傷ついたままだ。ならば、支障はあると判じて、それまで通りに攻めることを決めたのであった。
鏢を交えがてらに、冽花の傷口を中心に攻めたてる。初めは袖の内側へと手を引っこめ、炎を警戒していたものの、冽花の炎が『熱をもたずに燃やさぬ』ものだとすぐに知って、それまで通りの攻め手に切り替えた。
冽花も負けてはいない。炎を――再び立ち上がって戦うための活力を噴きあがらせて、拳と蹴りで応戦したのであった。
一進一退、紙一重。互いに互いの急所を狙い、守り、また攻める。立ち位置をかえて、飛んで跳ねて、二匹の獣が相食むように二人は戦った。
その様子を、周りは呆けたように眺めているしかできなかった。
それほどまでに二人の戦いは熱く、拮抗していたのである。
だが、長いとも短いともつかない戦いは、やがてお互いに消耗を招き始める。
老鬼は、ずきりと左側頭部に走る痛みに奥歯を嚙みしめた。右目の酷使のしすぎだ。
冽花は、ぐらりと眩暈を感じていた。血を流しすぎていた。
だが。二人は拳を、蹴りを、見舞いあった。
「うぉおおおおおお!」
「おおおおおおおォ!」
そうして。二人は押し合いへし合い――互いの力の合一に、後ろへとそれぞれ弾かれたのであった。
老鬼はたたらを踏みつつ飛び退って着地、事なきを得る。
だが、冽花は。
冽花は。弾き飛ばされた末、それまで自然と背にする形でいた――中央の祭壇に。『縦に埋めこまれている濃緑の棺』へと背から突っ込むなり、盛大に叩き壊したのである。
それを見るなり、ハッと老鬼と周りの者らは息を飲んだ。とくに老鬼は、慌てて一歩を踏み出していた。
しかし。
遅かった。
黒い炎もかき消えた冽花は、盛大に咳き込んだ。
口元から新たに血液を溢れさせながら、ぐらりとその身が前へと傾ごうとする。だが、後ろから『緑の差し色を入れた黒籠手の腕』に抱きすくめられていた。
冽花はハッとする。そうして、にわかに泣き笑いめく表情を浮かべる。
体を捻らせるなり。わずかに眉尻をさげて笑い。
「ああ。……迎えにきたぜ、賤竜」
かすかに瞼をもたげている眠たげな硝子球の瞳へと、笑いかけたのであった。
狭い場所ながらも器用に体を反転させる。冷たい頬に手を添えて――おのが血まみれの唇を、彼のそれに重ね合わせたのだった。