第36話 不穏なる福峰
それから程なくのこと。
ようやく目指す薬問屋にたどり着いて、めぼしい薬を買い求めていた折であった。
にわかに外の通りが騒がしくなった。
拦柜奥で薬棚から薬材をとりだし、皿で測り取っている店東から、何気なく冽花は目を移す。と。
まもなく硝子の破砕音が響き渡った。ついで重たいものが路上にぶつかり弾む音が続く。人々の小さいどよめきと悲鳴が鼓膜をつんざいて、おもわず肩を跳ねさせた。
店内が静かなだけに、余計にその物騒な音は、冽花の耳を刺したのである。
「な、何だァ、今の音!?」
おもわず外を伺い見ようとしてしまうものの、「待ちな、お客さん」と店東が声をかけた。
「お客さん、街に来て日が浅いんだろう? 今は出ない方がいい」
「いや、でも……」
「この福峰で騒ぎをおこす……恐いもの知らずは白墨党と懶漢の一派だ。いずれにしろ、関わらない方がいいよ」
「懶漢の、一派?」
店東は手を止めると、ぐるりとその場を見回す。小さく手招きをした。冽花は拦柜ごしに体を寄せ、耳を傾ける、そうして。
「ここだけの話、今、福峰は荒れてる」
思ってもみない言葉を聞くことになるのであった。目を瞬かせる。
「え、荒れてる? ……そんなところ微塵も……。嗚呼、でも、白墨党は来る時に、水の蛇に追われてるのを見たのと――」
そこで言葉を切る。
硬い、それなりの重量のあるものが、さらに通りに放りだされた。再び硝子の破砕音があがる。
女のか細い悲鳴と、制止を求める弱々しい哀願の声があがる。それに対し、なじり言い寄る男の声が続く。
冽花は口をへの字に曲げる。猫耳があったら伏せたい気分であった。
「今のこの、物騒な物音いがいは……」
「……あんた達、一日でこの街の暗部を見るはめになりそうだね。悪いことは言わない、やめときな」
痛ましげな顔をし首を振って、店東はより一層声を潜めた。早口に告げてくる。
「懶漢は、署理知府……つまり、知府『范瑟郎』さまの名代だ。実質今、街を取り回している。一言で言うと……最悪だ」
「署理、知府? また、なんでそんなのが……」
「お務めの折の事故で行方知れずとなられたのだよ。最初はしばらく抱水様が名代として立たれてていたものの、懶漢が赴任してきた。そこからが横行の始まりだった」
冽花は絶句した。
またも街の基本的な部分が、正常に機能していない場に来てしまったのである。
しかも、知府――福峰を治める地方官、范瑟郎の失踪。かつての名代が抱水ということは。つまり、范瑟郎、その人こそが抱水の契約者ということになる。尋ね人が行方知れずだった。
「この美しい福峰の町を勝手気ままに作り替え、酒食、女色にふけり……配下のならず者どもと共に悪行三昧。きゃつらの現れる場には、今のように悲鳴と怒号があがり続けるのだよ」
町を勝手気ままに作り替え――その言葉にふと、来るまでにいくつも遭遇した作業現場を思い起こす。美しい水の都に無粋な、幾つもの。ぐっとより口角をさげる。
汚い罵声まじりの怒号、押し殺された悲鳴があがったことにも起因していた。
「ただでさえこの有様だ。恶棍どもも増えてきてな。近頃では夜半に通り魔が現われるという」
「と、通り魔だァ!?」
「うむ。よほど悪辣な手を使うのか、被害者も喋りたがらないようで。あまり情報がない。どうも複数犯ではあるようだが――……」
と、ここで繊細な破砕音が響きわたった。皿が割れるような音が。
冽花はおもわず肩ごしに通りを見てしまう。
また口汚い罵声が轟いたのちに、「ひっ」と弱々しい嗚咽が続いて、子どもの泣き声があがったためであった。
泣き声の高さが不自然である。――持ち上げられでもしたのか。
それを庇うらしき悲壮な哀願も続く。若い、言い寄られていた娘の声色であった。
「やめてください! 弟弟を放して!!」
「聞けねえなあ。この小猴崽子……まともに料理を運ぶこともできやしねえ。狂妄な目で見てやがったくせに。はっはっは、小便まで漏らしやがったぞ!」
人々のざわめきの中に『酷い』『足をかけたのはそっちなのに』と呻くような呟きが混ざるものの、すぐ静まり返る。黙らされたのか。
子どもの火がついたような、恐怖にまみれた哀れな叫びがあがり続ける。
「こういう小猴崽子はちいせえ頃から、よーく身の程を教えてやんねえとな。……ったく、これもお前がグズグズするからだぜ?」
「っ……わ、かりました、から……お傍に参りますから……心をこめて、お仕えしますッ。だから……!」
店のなかが静かであるとどうじに、鋭い聴覚だからこそ、聞こえてしまうものがあった。想像できるものがあった。
だが、冽花はもう一度だけ前を向き直した。口をつぐんで、じぃっと我慢した。自分が出ていっても余計にややこしくなるだけだから、と。
それに。食べ物と薬を買って、探路のもとへ帰らねばならない。
だから。
奥歯をきつく食いしばり、震える両手を白くなるまで拦柜上で握りしめて耐えていて。
その言葉を聞いたのである。
「もう遅ぇ。そうだなあ。ああ……お前がやれ、抱水」
――っ、抱水!!
その名だけは聞き捨てならなかった。冽花は目を見開いて、肩ごしに振り返る。
通りからは身も世もなく泣き叫ぶ、娘の声が届いていた。
「っ、! ほ、うすい様……おやめください、抱水様、お慈悲を!」
「いつもの扇でぶっ叩くのでもいいぜ? 水の蛇で壁に……いいや? この硝子まみれの地面に叩きつけんのも爽快だな! ただし殺るなよ、手も抜くんじゃねえぞ。俺の言葉は懶漢さまの言葉も同じだ。……分かるだろう?」
『……是』
神経質そうな、硬い声音の『是』であった。
冽花は、唇を震わせて、薄く歯列を剥きだしながら賤竜を見た。そんな冽花を、賤竜も硝子球のような瞳で見返してきた。
人の。人の幸せを生むために僵尸にされた奴らを。それを存在意義にしている奴らを、悪戯に人を傷つけることに使うだなんて!
怒りに目の前が真っ赤に染まるような思いがしていた。そうして、冽花はついに決断を――……。
「叔叔。詰めといてくれ。あとで取りに――」
『否。此が行く、冽花』
「賤竜?」
苦渋の決断をしようとしていたところで、傍らよりの声に目を瞠らせた。
再び賤竜を見やると、彼は目を細めて首を振ってきた。
『契約者たるお前を、契約者いがいの命に従っている抱水の目に晒すわけにはいかない。その行動意図、先行きが不明だ』
「いやでも、お前が行っても――」
『不要緊。ここは抱水の守る地だ。操れる気、気脈は無数に存在する。『水滴石穿』の使用許可を求む』
「あ、許可する」
『是。行ってくる』
そう告げると、賤竜は足早に店から出て姿を消した。
冽花はその背を見送ると、店の扉ごしにそっと騒ぎの中心を盗み見た。
そうして、思った通りの酷い惨状に絶句した。




