第26話 探路と小さな姐姐(おねえさん)
探路は笑った。どうにも、苦味が禁じ得ない笑みをうかべて。
「こう考えてみると、僕は普通の人間なんじゃないか? とも考えられるよね。……あそこにいたのは、何かの間違いなんじゃないか、って」
そういう考えも生まれてしまうのだ。その言葉に、妹妹は目に見えて慌ててしまう。
だが、やはり探路はすぐには彼女を慮る気持ちになれなかった。
あの――辛く厳しい忍従の日々が思い起こされたからであった。
自分が誰かも分からないまま、四肢を鎖に繋がれて、狭い檻のなかに座り、時おり配給される饅頭(蒸しパン)と水で永らえていた。
さらに食事には痛みが付き物であった。食事のたびに浅いとはいえ傷をつけられ、血を絞り取られたためだ。その傷を自分で舐め、癒すために次の食事を待った。
そうしている間に、時おり連れ込まれて連れ出されてゆく蟲人たちを、成すすべもなく見送っていた。時には自身が連れだされることもあったが、どこでも扱いは同じだった。
人間らしい活動の一切を抑制され、劣悪な環境下で『飼育』とも言うべき扱いをうけて。
少しずつ、人間性が死にゆくのを感じていた。
手足は衰え、体力がなくなり、声はかすれて、思考力も鈍麻していった。
冽花と会った頃には、半ば獣と化していたかもしれない。
だが――あの、野の花のごとき輝きを目の当たりにした。
花も嵐も引き連れての躍動に加えて。嫌なことは嫌だと言い、また逆に人を温かく思いやる姿があった。人間らしい心があり、生きていた。
そんな彼女の姿に、少しだけ凝り固まっていた心が、息を吹き返したのである。
だが。こうして平和な日々を過ごしていても思い出してしまうのだ、時おり。
そうして、こう思うのである。
今がもしかしたら夢であって。本当は未だにあの檻のなかにいるのかもしれない、と。
――そうだとしたら、僕は。
弱々しい笑みを浮かべるまま、底なしの泥濘のごとき絶望に陥ろうとしていた、その時であった。
ふ、と――目の前がほんの僅かに、暗くなった気がした。
気づくと探路は妹妹に抱きしめられていた。
小さな小さな体に抱かれて、頭を撫でられていた。
『探路』
まろく柔らかい声が呼ぶ。仮初の名前を。
けれど彼女が。野の花のような人が付けてくれた、『こちら側』での名前を呼んだ。
探路は瞬く。
「妹妹……?」
『うん。探路。好孩子、好孩子』
「――……!」
『没事。好啦好啦』
探路の胸のうちを見透かすような言葉であると同時に、子どもをあやすような物言いであり所作であった。どこか手慣れていた。
否。あるいは。冽花たちにもこうしていたのかもしれない。彼女はずっと、ずっと長く生きてきたのだから。
死者に『生きていた』という表現は不適当かもしれない。それでも、今の探路にとって、この表現と感覚がぴったりと当てはまると思った。
優しい仔猫。龍脈に還ることもなく長くこの地上に残ってきた――ただ一つの、大切な心残りを果たすため、留まり続ける死者。
探路は口を、小さく開けて。戦慄かせた。
喉が急激に干上がるのを感じた。そして、直感的に、『まずい』と判じていた。
この感覚、この現象は――……泣いてしまう。
目頭がカッと熱くなり、視界がみるみるうちに歪んで、滲んでゆくのを感じていた。
けれど抗えなかった。ひくり、と喉仏を上下させて――最初の一粒が零れ落ちるのを、他人事のように知覚していた。
熱く、塩辛い涙が溢れだす。
「う、ぁ……ああァ……」
抱かれている感触などはない。
包む身の暖かさも、撫でてくれる手の柔らかさも、ありはしなかった。
だが、確かな暖かさを感じていた。
ずっとずうっと欲しかったものを、得られた気がした。
……否。少しだけ、違う。まだ少しだけ違和感があった。胸に隙間風を感じた。
そうして。
零れ落ちる滂沱の涙を感じながら、探路は、ただ一欠けらだけ思い出したのである。
それは、とても――とても大切だったに違いない記憶であった。
夕日に染まる一室。瀟洒な調度品と執務机とに囲まれた場所で。
窓から〇×の街並みを眺めながら、『彼』と話をしていた。
「この景色もしばらく見納めになるかと思うと、感慨深いものがあるな」
『何を大げさな。たかが三月の巡視だろうが』
「三月もだよ? ××。三月も、この街と君と離れ離れにならないといけないだなんて。涙が出そうだ」
『然様なことぐらいで泣くな。仕方なかろう。これも我らの重要な仕事の一つだ。励むがよい。……留守は任せておけ』
「うん。この街を頼んだよ」
『うむ。お前も、壮健に過ごしていろ』
「もちろんだよ、××」
それからしばらく沈黙をおいた後、おもむろに向き直ると『彼』も振り向いてきた。
その顔は赤い光のなか、逆光となっては判然としない。
けれど、手を伸ばすと確かに『彼』はそこに存在した。頬の輪郭を指先でなぞる。
「三月後には必ず帰るからね。約束する」
『ああ、しっかりと務めあげてこい。……しかし、なんという顔をしているのだ、お前は』
自分は一体、どんな顔をしていたのだろう。だが薄い肩が揺れて、困ったように『彼』が笑う気配があり。柔い衣擦れの音をたてて、たっぷりとした筒袖が寄せられた。
『しようのない奴だな』
憎まれ口を叩きつつ、袖を寄せて背へと回し、抱きしめてくれた。
『お前は案外と、寂しがり屋なのだから』
そう言って、甘やかしてくれる『彼』の――誰かの姿が見えたのである。確かに。
だが、次の瞬間、激烈な痛みが頭を貫いて。
影は一瞬で消え去ってしまった。探路のなかから。
あっ、と探路は呻き声をもらした。ついで、あうぅ、と漏らした呻きは、痛みへのそればかりではなく。心が悲鳴をあげるがゆえであった。
ようやく。ようやく掴めたのに少しだけ。
――誰? 誰なんだ、君は。一体。
それが、何よりも追い求めているものだと判じた。直感的に理解していた。
目を瞑ってすすり泣く。子どものようにかぶりを振って、妹妹の胸元に顔を擦り寄せて、泣いたのである。
声にならない嗚咽をもらし、胸の内で、ままならない思いに慟哭した。
――誰なんだ、君は。ねえ。応えておくれ、もう一度。
君に、会いたいんだよ。君のもとに帰りたいんだ。
辛くても苦しくても、心がすり減っても。だから耐え続けたんだ、僕は。
『××』……君に会いたい。
応える声はない。それが余計に悲しくて探路は泣いた。
ズキズキガンガンと、のたくる蛇のように頭の内側から全体を、痛みに苛まれたとて。声が枯れるまで泣き尽くして、そうして体力を使い切ったのであった。
泣く力も失せて、眠気に苛まれだす探路から、そっと妹妹は離れた。そうして、牀から降りていく。その様子を見て、探路は口を開いていた。
「ねえ、妹妹。……どうして君は、普段あまり表に出ないんだい?」
『え? うーん……』
急な問いかけに、妹妹は目をみはって唸りをもらした。だが、そう訊いたのにはわけがあった。きっとこの後、冽花達を呼びにいくに違いないからである。
泣いて泣いて泣き尽くして、探路は色々なものが枯渇していた。
そうして冽花たちが戻ってくれば、この時間は終わりを告げる。妹妹は――見ていると、滅多に表へ出てこないようだから。
頭のなかにほんの少しだけ掠めた影へ、言い訳をする。
――そうだよ、僕は意外と寂しがり屋で……甘ったれなんだ。だから。
気になっていたことを聞いてやろうという気になったのである。
少しばかり悩んだ末に、妹妹は幼い顔に不似合いな大人びた苦笑を滲ませた。
『わたしの時間はもう終わってるから』
その答えに探路は目をゆっくりと瞬かせて、「ああ」と呻きまじりに告げたのであった。
自分の時間。自分の生は終わりを告げているから。だから。
今生の生にくっ付いてきてしまうほどの未練があろうとも、できるだけ影響を与えないよう、出てこぬようにしているのだ、と。
だけど、それは。
「でも、それってすごく寂しいことなんじゃないかな」
そう、探路は告げた。率直に思った。
先ほど彼女のことを、『生きている』と感じたのだから尚更に。
今、こんなにも近くに大好きな哥哥がいるというのに。彼に記憶が残っていないとしても、もっと甘えたり、話してみたくはないのかと。
みずから気持ちを押し殺し、表舞台に立とうとせぬのはあまりに惜しく、寂しく。痛々しく、いじらしい――そんな結末を、探路は望まなかった。
それとなく、そっと内緒話をするかのように声を潜めて、囁きかけた。
「もっと哥哥と話したいんじゃないかい? ……甘えたいんじゃないのかい?」
効果はてきめんだ。その声を聞いた途端、妹妹は困ったような顔をした。眉尻とともに猫耳をも伏せて、尾を垂らしたのである。
『で、でも……』
「今更と思うかい? 冽花はむしろ喜ぶと思うよ。賤竜は……戸惑いつつも受け入れると思うな」
言いつつ、あのすこぶる内心の分かりにくい真顔を思い浮かべる。けれど、よく見ていると分かりやすい賤竜の内面に、ふふりと探路は含み笑うのだった。
冽花と風水――自分の務めに対して忠実であると同時に、自分にたいして頑なだ。そうして最近では、冽花に関わる事柄に積極的に関わるようになりだしていた。
「まあ、僕に任せておきなよ。今日のお礼がわりだと思ってね。……ああでも、一つだけ約束してほしい。僕が、君に抱っこされて泣いちゃったことを、秘密にしておいてくれるように。……さすがにバレるのは恥ずかしいから」
歯を覗かせて肩を揺らし、片目を瞑ってみせると。妹妹は瞬いた後、口元に手を当てた。クスクスと泡が弾けるように笑い声をこぼしたのである。
そうして、こっくりと頷くと薄紅色の光の粒となって散った。
――その場に訪れるのは静寂である。遠くに、また人の営みの喧騒が聞こえ始めた。
ふっと一つ息をこぼすと。少し前とは別種の、穏やかな心もちでもって、探路は眠りに就いたのであった。




