第25話 探路と小さなお留守番
目が覚めて一番にしたことは、瞬きで大粒の涙を潰すことだった。
歪んでいた視界が鮮明になる。
見えたのは、今できたばかりの胸元の丸い染み。
それから、その向こう側に、伸ばした足の上へと置かれた本。
さらに視界の左端から、こちらを覗きこむ小さい人影があった。瞬いて見やると、その茫洋とした輪郭がくっきりと形を成す。
誰あろう、元から半透明の――牀のふちに手をついて、心配そうに見上げてくる亡霊、妹妹であった。
金茶と黒の丸っこい縞頭にぺったりと猫耳が伏せられている。眉尻をさげ、痛ましげな顔をしているところから、探路はほどなく状況を察した。
俯けていた顔を上げて、小さく唇に弧をひく。あえて、おどけたような口ぶりで告げた。
「早、妹妹。僕は、眠っていたようだね?」
『ええ。すごく魘されていたわ』
「だろうね。……起こしてくれたんだろう? おかげで助かったよ」
言いつつ、「ううん」と唸り、首だけでもごく浅くながら左右に倒す。凝り固まった身が軋むようであった。
賤竜たちが帰ってきたら、按摩をしてもらえるよう頼まなくっちゃ――そう思いながら、探路は首を元に戻す。顔を前へと向け直した。
彼がいるのは、広々として、瀟洒な調度品の置かれている部屋であった。
どこかといえば、あの喧々諤々(けんけんがくがく)の意地っぱりな喧嘩をしていた二つの店。その、大きいほうの店の一室であった。
あの後――こっぴどく叱られた店東たちは反省し、協力しあうことになった。具体的にいえば、向かいの店東が臨時で働くことになったのである。
彼自身の店は、彼がおらずとも回るようにしてあるらしい。
さらにその腕は、老いた店東をして鼻の下をこすり、「やるじゃねえか」と言わしめるほどであり。それにまた照れ隠しの悪態が返り――なかなかすぐ元通りにとはいかぬようであった。
だが、あの二人はあれでいいのかもしれない。冽花たちは顔を見合わせて笑った。
そうして、今回の件で厚く詫びと感謝をされたのである。何かお礼を、と言われて――冽花らはそろって探路を見たのであった。
療養中の探路が、余裕をもって休むことができる客桟を紹介してくれないか、と。こう訊ねたところ、では、と提案されたのが、大店がわの空き部屋の提供だったわけだ。
重ね重ね小さい店の店東たちに礼を告げて、冽花らは居を移したのであった。
そういうわけで、探路は今、壁を背にして牀に腰をおろし。腕のしたに靠垫を敷いた、万全の態勢で、本を読み、『留守番』をしていた次第であった。
そして、うっかり転寝をしたのであった。
さもありなん、仕方がない。いい陽気だもの、と探路は窓辺を見やった。
ほんの少しだけ開けられた窓から風が入り、彼の頬を心地よく撫でる。
表通りの喧騒が、まるで寄せては退く波の音のようにさざめき、聞こえてきていた。
その賑わいを彼は嫌いではなかった。むしろ落ち着きすらする。
あるいは、それは失った記憶の――何かに触れるためであるのかもしれなかった。
だが、物思いに耽っていたのもつかの間だった。
――しまった。
探路は渋い顔をする。
「んッ……」
ふと俯くなり、体を倒し、わななく手をもたげては額を押さえこんだ。
『っ! 探路、頭、痛いのね』
傍らの妹妹が慌てふためく気配がする。だが、そちらに構うことができない。
彼女の言う通りだ。鋭い頭痛が、突如として探路の身を襲っていた。
いつも後頭部から始まり、瞬く間に頭ぜんたいに伝わっていく。
それは連鎖的に破裂する爆竹のように。あるいは小さい蛇が幾条も身をのたくらせるのにも似て、頭の隅々まで轟き、『場を限定せず』に痛み続ける、不可思議なものであった。
震える息を吐きつつ、波が去るのを待つしかない。
最近になって起こるようになった事象であった。
記憶のことを考えると、決まってこの頭痛は生じるのである。まるで思い出させまいとするかのように。探路はすっかり参ってしまっていた。
そして、起きる時機の不可思議さもそうだが。治療に当たっている賤竜から言わせるに、『発生機序じたいも通常想定され得るものではない』とのことである。
探路が痛みに苦しむつど、その体の気血水(人の体を成り立たせている三つの要素)に急激な乱れが生じるのだという。要は通常の体の循環で発生しているものではない。
また、賤竜は探路の首に嵌められている『首輪』にも注目した。
それまでは硬い沈黙を保っていたのだが、ここにきて異変を生じさせたのだ。
探路が痛みに苛まれるおりに、微細に『気』を発するのである。その気は経絡を通り、間違いなく頭へと伝播している。
ただごとではない。早急に外さねばならない。
そのための冽花たちの外出であり、留守であった。
一応の頓服の調達と鍵屋探しである。本当は一緒に行ければいいのだが――ご巡幸の日取りが近づく今、こんな状態の探路を連れまわせるはずがなかった。
けれど、一人にしていくのも心配である。
そこで。
『探路』
一緒にお留守番する存在が置かれたのであった。
まろい幼子の呼び声が響き、ふ、と傍らに気配を感じる。
あらぐ息を飲み、探路は瞳を転がした。
少女は傍らにいた。隣で立ち膝になっており、手を伸ばしてきて探路の頭へと触れた。
『痛いね、探路。快点好起来』
小さい紅葉のような手を動かし、撫でてきた。
その身は死者であることを表わし、やはり透きとおっている。触れた手の感触もありはしない。
だが、労りの気持ちはよく伝わってきて、探路は目を細めた。
痛みにいまだ伏せた睫毛を震わせつつ、吐息に笑いを含めたのであった。
「多謝、妹妹。……だいぶ、よくなってきた。撫でてくれたおかげかな」
『本当? ……よかった』
ピッ、ともたげられる尾先が小さく揺れる。幼い顔がほころぶのを見て、探路も口元を緩めた。ようやく波が去ってきて、ひと息いれては体を伸ばし直した。
『冽花たちを呼ばなくて大丈夫?』
「ああ、問題ない。それに……たまには僕を気にせずに自由に歩きまわってほしいからね。気をつけるよ」
『無理は、しないでね。わたし、冽花をすぐ呼びにいくから』
ぐっと両手を握って意気ごむ妹妹に、より笑みを誘われてしまう。
冽花も、出かける前にこうして何度も心配してきた。やはり繋がりを感じてしまう。
「謝謝。もしもの時には頼むよ」
『うん。ゆっくり休んで。……またわたし、消えてるね』
「あっ」
『うん?』
膝から転げ落ちた本をゆっくりと拾いあげる探路を見て、妹妹は空に溶け入ろうとする。その身がより薄らぐのを前に、おもわず探路は声をあげていた。
「待ってくれないか、妹妹。消えないでほしい」
『どうして?』
「暇なら話し相手になってくれないか? 一人で過ごしていると……どうしても、記憶について考えてしまうんだ」
栞をはさみ、探路は本を閉じた。眉尻をさげる。
名も住んでいた場所も、元はどんなことをしていたのかすらも思い出せない自分。どうしたって事あるごとに求めざるを得ないし、そのつど痛みに襲われていた。
一人だと、確実にそう遠くない未来、二度目に襲われてしまう自信があった。
探路のほのかな怯えもまじえた顔を見つめて、妹妹はこっくり頷き返した。再び両手の拳を握りしめる。
『わかったわ。わたし、お話し相手になる』
「助かるよ。君には幾つか聞いてみたいことがあったからね」
『聞いてみたいこと?』
「そう。前世のこととか、蟲人のことについてね。僕も蟲人の――……ふぅ」
言いかけて、ふと言葉を切って警戒する。が、痛みが訪れなかったのに安堵する。そうして、残りの言葉を告げる。
「僕も蟲人の可能性があるようだから。でも、ご覧の通りだ。それらしい兆しも見られないし……妹妹から見てどう思う?」
『うーん……』
妹妹は口を結んでもにょつかせた。敷布につけた尾の先を小さくぴくつかせて、しばし考えこむ。が、ほどなくその耳が再び伏せられ、尾もだらりと垂れさがった。
力なく首が横に振られる。
『わかんない』
「わかんない、のか。君でも」
『うん。蟲人はね、自分の手や足を使うみたいに自然と力を使えるの。それに、わたしみたいに“魂魄の名残”を連れているヒトと、玉環みたいに“記憶だけの形”でいるヒトがいるものだから』
「ああ。僕は力の使い方なんて分からないし、魂魄の名残も出てはこない。記憶だけ残されている場合があるのか」
『うん。その可能性はある、と思う。……それとね、『転化』する時には気の流れが盛んになるの』
「気の流れが、盛んに?」
『うん。わたしたち魂魄の欠片や記憶が……えっと、“より原初の気に近い”わたし達が、生きてるあなた達と結びつくから、そうなるみたいなんだけど』
「原初の気に近い……?」
『うん。龍脈に流れてる、陰でも陽でもない気。灰色の気。わたし達は本当はそこに在るべきものだから……だから、そういう性質があるに違いない、って。玉環が言ってたの』
「玉環が?」
『うん。玉環はすごく頭もよかったのよ。難しい本をたくさん読んでいて、気についても学んでいたわ』
ふと遠い眼差しをする妹妹。昔を思い起こしているのだろうと思い、探路が口をつぐむとすぐに彼女は我に返ってきた。
『そう。わたしが気を見えることに気づいて……一緒に色々試してみて、そうじゃないか、って言ってたの。……探路には今のところ、そういう気の活性化は……』
ああ、そこに行き着くのか、と探路は納得した。
「となると…………やっぱり、僕には今のところ、蟲人らしい要素が一つもないわけだ」
そう結論に至ってしまう。
前世の記憶だけが遺されている可能性もあるけれど、それだって記憶じたいがほとんどないわけだから、判断のしようもない。
先ほどの転寝のおりに、誰かへと泣きたくなるほど詫びていたことだって。もともとの記憶のそれである可能性も否定できないのだ。
そうして、そう結論づけてしまうと――苦い、憶測が生まれるのであった。