第23話 『私』が『彼』から離れた理由
きっかけはたぶん、読んでいた『詩集』だ。
最後に目を通したのは、鶯の詩であった気がする。
番をもとめて囀る、夏山に響く鶯の声になぞらえ。恋しい恋しいと募る思いを文にして送った。けれど、相手からの答えはない。今日も私は一人、鶯の声を聞いている。
そういった趣旨の詩であったはずだ。
『悲しいものだな』と滲みでる哀切に感じ入る一方で、共感できない部分もあった。
――そんなに慕わしいのなら、手紙など待たずに会いにいけばいいものを。
そう思ったからだ。
きっとこの詩の作者は自分のように、手足が萎えているわけでもなく。まして、記憶を失くしているわけでもない。
心赴くまま自由に手足をつかい、相手のもとへ訪ねていけばいいのに。
そんなことを考えていると欠伸がもれた。徐々に瞼が重くなってくるのを感じた。
そうして、その夢を見た。
何べんと見るけれども、一度も覚えていられない夢を。
見れば必ず、誰かも分からぬ相手へと詫びる。……涙を振りしぼりながら。
そんな夢を見たのであった。
『僕』は――……『私』は。
『私』は罪人である。名を名乗る価値もない咎人だった。
――一分の乱れもない規則的な足音。今日は少々荒く土を踏みしめている。
夕紅に染まる塾の一室にて。
竹簡や巻物のつまる書架に挟まり、『私』は『彼』の訪れを知った。
これから庭を回り、入口からはいって、他の講師に挨拶がてら『私』の居場所を聞いて。廊下を通り、我がもとへとやって来るのだろう。
手に取るように分かる。『彼』は礼と道理を弁えている男だ。きっかり決められた道筋を通り、我がもとを訪れるに違いない。
果たして『彼』は予想通りに動く。
規則正しく一定の歩調を保つまま、こちらを目指し始める。
その足音を聞きつつ、『私』は手にした竹簡と巻物の小山を片付けていた。
だが、ふと『あること』に気づき、笑ってしまう。
相も変わらず一定で刻まれる靴音。だが、微妙に先ほどと比べると早まっている。足音自体も大きくなっているではないか。
変化は微細であるものの、『私』には分かった。彼が苛立っていることが。
そして、足音は廊下へと至る。
今や、生みだされる反響は『私』の耳に痛いほど、よく染み通っていた。
作業の手を休め、残りの竹簡と巻物をまとめて置いた。
耳をふさぐ。
これから起きることは、『彼』に言わせると『耳が良すぎる』『私』にとって、酷極まりないことであったからだ。
ほどなく。建付けの悪い扉が引かれた。
そして間もなく、幾ばくも進まぬうちに引っかかったのであった。
ただでさえにも苛立っている者が、面白いはずもなく。
ガッ。……ガッ! ガンッ!
塞いだ掌ごしにも聞こえてくるのだから、相応の力が込められているのだろう。だが、扉は最後まで滑らかに進むことはなかった。
合間に、低い唸り声と短い悪態と舌打ちが聞こえた。
さもありなん。こういう男だ、『彼』は。
旦湖藍という男は。
礼と道理を弁えているものの、公私の顔が著しく異なるのだった。
そして、ようやく扉は開かれる。その向こう側から、『彼』は顔をのぞかせた。
夕日を照りかえし、まばゆく輝く、額の白角。
その下で、痩せぎすの顔の満面がしかめっ面になっていた。
細い眉により峨々たる山脈が描かれ、元よりつり上がった細目がより一層、まなじりを尖らせ。口元からは薄く歯列すら剥きだしていた。
――嗚呼、すごく不高兴 だ。
この期に及んで、『私』は笑いだしたくなった。
なぜって、『彼』は薄い肩を上下させて、『私』を睨みすえている。
『私』に早く会いたいがために、歩調を速め、扉にやつ当たり気味に挑みかかり。息を切らして――今、心臓を早鐘のように脈打たせているのである。
これが嬉しくなくて何とする。これが――愛おしくなくて、何とするのだろうか。
微笑みかけると、目尻が一層つり上がった。
扉の縁に手をかけて、一歩大きく踏み込んできた。
「旅に出るとは、本当か?」
唸るようにひと声。開口一番にこう告げてきたのであった。
『私』の前で立ち止まると、たっぷりとした筒袖に包まれる腕を両方とも腰へと当てて、身を軽く乗りだしてくる。
肩をもいからせて、『私は怒っているのだぞ』と主張がよりおこなわれる。
だが、やはり『私』には聞こえていた。
『彼』の心臓が、訊ねるとどうじに『ドクリ』と、ひと際大きく飛び跳ねる様が。目元、口元、肩と、より硬く筋肉がきしんで強張る音をも聞こえていた。
示す感情は――『緊張』と『不安』か。
告げたのは一言なのに、こんなにも多くの音を『私』へと発している。
今日も我が友は、非常に不器用に『私』へ多くの感情を抱いて、投げかけていた。
やはり愛おしく思いながらも、つとめて平静を保ち、『私』は応じた。
「本当だよ、湖藍」
「……っ、なぜ」
「春海にいる伯夫に誘われてね。この塾を辞し……しばらく、あちらの土地を、ほうぼう巡ってみようと思うんだよ」
『彼』の目が見開かれ、うろついて、息が飲まれた。
だが、それも刹那のことであった。すぐにまた眉間のしわを深め、首を傾げてきた。
「然様な、あまりにも急なこと。……今でなくてはいかんのか? それは」
『私』を見上げる瞳がかすかに揺れていた。
聞こえてくる心臓の音も、いぜんとして大きく脈打ち続けていた。
すべてを分かっていて、『私』は頷いた。
「伯夫に、仕事を手伝ってくれ、とも頼まれていてね」
「……っ、そうなのか」
「うん」
『彼』は俯いてしまった。ゆっくりと乗りだしていた身を引いていく。腰に当てていた手もずり降ろした。唇を結んで、瞳を右方へと逸らし、何事か考えている様子であった。
そうして『彼』はまた口を開いた。挑むように『私』を見上げて。
「日延べすることはできぬのか、幾ばくかでも」
「どうして?」
「…………お前にも、参加してほしいからに決まっておろう」
目を伏せ、『彼』は顔を少しだけ背けた。
途端にじわりと頬と耳に朱がのぼっていき、『トクン』と心臓が跳ねる音がした。
やさしく、綺麗な音であった。
「私と彼女の結婚式に。……他ならぬ……恩人であるお前にな」
そうして、『彼』は上目ぎみに『私』を伺ってきた。
『私』は――。
そんな『彼』を見て、胸に刃物を突きこまれるような痛みを覚えていた。
きちんと笑えているだろうか。笑えているはずだ。『彼』の顔色に変化はないのだから。
抱えた痛みもばれてはいないはずだ。『秘密』は、ばれていないはず。
そうして、『私』は笑ったまま口を開いたのだった。さも残念そうに眉尻をさげて。
「悪いね、湖藍。伯夫に、どうしても、と言われてるんだよ」
「……っ、……そう、か」
『彼』にとっては一世一代の勇気を振り絞った言葉だったのだろう。
今度こそ、項垂れた。深く俯き、唇をかみしめた。
……『彼』に、『私』いがいの友達はいない。
外面はいいものの、その内実は偏屈で不愛想。癇癪もちな上に繊細な心をもち――その豊かな感性は、皆の心をうつ詩を作りあげる。
川下りをした折に作った、碧々とした水面と草木を謳い、“翡翠のごとし”と称えた詩は、おもわず『私』も涙ぐんでしまったほどであった。
偏屈で不愛想で、繊細な心をもち、才にあふれた湖藍。
独りぼっちの湖藍。
『彼』の切なる願いと、柔らかい心を切りつけてしまったと分かっていた。
それでも、『私』は。
「…………もうよい、では」
ふと、『彼』は呟いた。見ると、その眉間のしわが徐々に深められていた。きつくきつく寄せられていく。
『彼』は気が長いほうではない。――嗚呼、来るな、と予感した。
閃く雷鳴のような、鮮烈な怒りの轟きを予感したのであった。
「もう、止めぬ。……ッ、お前なぞ、どこへなりとも行くがよい!」
『彼』は叫んだ。力なく垂らしていた右腕をも勢いよく振るって。
室内の空気をわんと震わせる声色に、反射的に『私』の身は竦んだ。
その姿を見て『彼』は目を見開き、息を飲んで――傷ついた顔をしたのであった。
湖藍はそういうところがあった。
唯一の友である『私』へと甘えて、時に子どものように癇癪を起こす。そして、やってしまった後で自身が傷つくのである。
いつもの『私』ならば、そんな『彼』を愛らしく思い、折れていたのだが。
「……対不起」
今の『私』は。――強いた笑みすらも浮かべることができなくなっていた。目を伏せて、それ以上『彼』を見ぬことにした。
『彼』は少しばかり黙した後に、ひと言「帰る」とだけ言い、きびすを返した。
『私』は最後まで『彼』を見ることはなかった。見られなかったというほうが正しいか。
湖藍の一言によって、開いた心の傷をかばうのに精一杯だったからであった。
『私』は友たる立場にあり、また男の身でありながら、湖藍を愛していた。
だが、湖藍には。愛してやまない女性の存在があった。
これが、『私』が『彼』の傍から離れた理由――逃げた理由だ。