『あたし』と『わたし』と『わたくし』の夢
夢を見ている。
何百、何千回と、生まれた時から見続けている、夢を見ている。
あたしは――わたしは、わたくしは――……『私』は。
『私』は、藍き御旗を掲げる戦士である。朱き旗を倒し、本懐を遂げるべく戦場を征く。
これは、その最後の戦場の。悔恨に満ちた記憶の、始まりの場面であった。
『私』は、黄色い砂塵の舞う、荒れ果てた広野にいた。
馬上から臨むことで、その惨憺たる有様が伺える。
かつて、ここは雄大なる大河だった。それが、乾ききった赤褐色の肌をさらし、亀裂を生じさせて、老婆の髪の筋より細い枯草を散見させている。
古き詩のなかでは、その碧々とした水面と草木を謳い、“翡翠のごとし”と称されていた、そんな地であった。
――泣いているよう。
まるで、むせび泣くような唸りを混ぜた黄風が吹きつけていた。
手慰みに左髪に挿す『杏の花枝』を弄る。かろうじて生彩を残すものを確保し、挿したものである。同時に俯けば、身をつつんだ藍き鎧が目に飛び込んでくる。
こんな時に、よりにもよって『私』が、花を飾るなど。
小さく溜息をついて、顔を上げて対面を見据えた。
枯れ野を埋め尽くす勢いの、雲霞のごとく大軍を見遣る。
これでも減らした方だ。少しずつ長期にわたり、櫛の歯を欠くように、人を削り、物を削って、そうして――……。
『玉環様』
ふと声があがった。とめどなく紡がれていた思考が、その倍は滔々と淡々と紡がれゆく声で霧散していくのである。
それはこんな言葉であった。硬い男の声色にて紡がれていた。
『軽度の気滞と、部分的な気虚(気の不足)を観測いたしました。肝(自律神経や情緒を司る臓腑)の乱れによる気の巡りの停滞……気鬱。また四肢末端への軽度の陽虚(冷えの症状)の兆しが見られます。速やかに補気薬および理気薬の服用を推奨いたします』
見れば、傍らに立つ男は、しかつめらしい顔でこちらを見ていた。
おもわず瞬いて――微笑んでしまった。
「有難う、賤竜。でも大丈夫よ。……将軍の私が布陣して以降、人前で薬を飲むわけにはいかないわ。皆に不安を招いてしまう」
『では――』
「按摩はもっと駄目。気持ちだけ受け取っておくわ」
黙りこくる賤竜に代わり、『私』は再び眼前を臨む。
言葉とは裏腹に、少しだけ胸が軽くなっているのを感じていた。
相変わらず現状は、窮鼠が果敢に攻め立てて、何度も猫を噛まねばならぬほどの人員と物量の差があるのだけれど。
意識して深く息を吸うと、ぷん、と髪よりの花の香りが感じられた。
おもわずと目を細めて、告げていた。
「ありがとう、賤竜」
『……は』
自分は何もしていないのに、といったような間があくのに、また笑ってしまった。
少しの安らぎを得て、『私』は再び彼を呼ばう。
「賤竜」
『は』
彼は顔を向けてくる。一瞬遅れて、冑の額に貼られた黄符がはためいた。
朱墨で綴った『勅令随身保命』の文字が、くっきりと目に焼きつくようだ。対称的に、目出し穴より覗く目はくろぐろとした硬質をはらんでいるのだが。
硝子球のような瞳が『私』を見返した。
「ここが正念場です。手筈どおりにお願いいたします」
『畏まりました』
こうべを垂れ、拱手(両手を胸の前で組み、お辞儀する敬礼)にて応じてくる。
賤竜。
陰陽の陰をあらわす黒備えに、木行の緑の差し色をいれる武人。
龍の首を模した冑に、鱗状に甲片を連ねる歩人甲。黒き棍を携えている。
『私』の忠実なる僕にして、無くてはならない力であり、道具だ。
風水僵尸《陰之断流》型――賤竜。
そんな『私』の僵尸にむけて、なおも言葉を続けたのであった。
「ねえ、賤竜」
『は』
「貴方には、辛い役目ばかり任せます」
体の代わりに心が暖められたので。少しだけ、甘えが出てしまったのかもしれない。
硝子球の瞳が瞬きを落とす。浅く首が傾げられる。
『辛い。身体もしくは精神に“忍従しきれないほどの”苦痛を感じている状態を指す……現在、該当する身体異常、精神的異常は認められません』
「耐えきれぬほどの痛みはない……“痛みを感じていぬ”わけではないのでしょう?」
『私』の問いかけに、彼は口をつぐむと静かにまた瞬きを落とした。
『私』は軍勢へと目を向ける。
並みいる軍馬と人の群れ。中でも『私』の対面にいる――総大将が傍らを見つめながら、言葉を継いだ。
これから彼が戦うことになる。どころか、今までも何度も『私』が命じて戦わせてきた存在を見つめつつ、胸の内を明かした。
……内心、どこまでも自分本位であり、卑小な我が身を自覚して。吐き気すらも覚えながら。
最後なのだからと。これで終わらせねばいけないのだから。今しか言えぬのだから、と。自分に言い訳をして、言わずにはいられなかった。
風水僵尸。賤竜。
自分の、罪の証の一つである彼に、懺悔まじりの決意を吐くより他なかったのだ。
「表にあらわさぬだけで、貴方が怒りを感じているのは分かります。貴方は……いいえ、貴方がたは怒るに足る、正当な理由がある。解っているのです。……けれど」
「この戦いが終われば、ようやく、貴方がたを解放することができる。ようやく、遥けき龍脈の大河へと還すことができる。見ていてください、賤竜。最後まで。……私の償いを、見届けていて」
賤竜は応えなかった。黙って、『私』を見つめていた。
そうするだろうと分かっていた。分かっていて、口に出し。
『私』は。
『私』は――……。
『――きて。……起きて、冽花! でないと死んじゃう!』
『私』は――わたしは、わたくしは――……あたしは、目が覚めたのであった。