その9:みんな大好き電話のあの子
「……塚井馳夫、戻ってこねーな」
「保健も遅いね……」
3年2組の教室は、未だ曾て無い雰囲気に包まれていた。
職員室へ行ったはずの塚井馳夫も、保健室へ行ったはずの保健もまだ帰らない。
彩湖蓮由璃と十字河護里は関節が腫れて腕や脚の形が変なことになっているし、小輪雁夏水は魂が抜けたように床に座り込んだまま。
天野手鞠は変な歌を唄ってはにこにこ笑って、何を訊いても内緒としか言わない。
根瓶誠二のメガネはズレっぱなし。
そんな中で四方木礼祀だけがいつものように寝ている。
なんだこれ。
「……なぁ、悪いけど俺、用が有って。そろそろ帰らないとマズいんだ」
1人の男子生徒が、気まずそうに手を上げて申し訳なさそうに発言する。
「……ごめん、あたしも部活」
「俺も、家の手伝いしないと……」
「全員残る必要ないよな?」
「説明出来ればいいんだし」
「当事者が誰もまともに話出来そうにないんだが」
「それなりの数がいないと、話の信憑性がなくならない?」
「俺、最初から全部見てたわけじゃないんだよな……」
「怪我人を運ぶ手伝いとかも要るんじゃね」
「それにしても塚井遅過ぎだろ」
「何かあったんかな」
「様子見に行った方がいい?」
クラスの中心的な人物が機能不全な教室で、まとまりの無い議論が交わされる中、
「通報だ!」
怒号を上げて、根瓶誠二が勢いよく復活した。立ち上がりながらメガネをクイッと上げてポジションを直すと、ポケットからスマホを取り出す。
「きっと塚井達は事件を隠蔽したい学校側に足止めされているんだ! そうはさせてなるものか! まずは救急車、そして警察だ! 四方木、罪は償ってもらうぞ!」
一息に捲し立てると、周りが止める間も無くロック画面の緊急通報ボタンをタップする。
「もしもし、消防ですか! 救急車をお願いします! 場所は狗尾柄中学の……」
『もしもし、私メリーさん。今、狗尾柄駅にいるの』
空気が凍った。
プツッ、ツー、ツー…… 根瓶のスマホから懐古主義な電子音が流れる。
「……根瓶ちゃん、何そのアプリ? こんな時にそんなネタに走られても……」
「い、いや、僕は、何も……」
冗談だと思ったクラスメイト。激しく動揺する根瓶。天野は相変わらずにこにこしている。礼祀は眠っている。
「ま、まぁ、本当に通報しちゃうよりはマシじゃね? これ以上大事になっても、俺ら責任取れんし……」
ぺーぽぽっぽーぺっぽっぽー ぺっぽっぽー ぺっぽっぽー
「うわっ!?」
唐突に鳴り響く、単音のメロディ。根瓶の手の中のスマホが震える。
「……鳴ってんぞ」
「僕じゃない!」
「いや、どう見てもお前の……」
「僕のスマホはこんな着信音じゃない!」
絶叫する根瓶。電子音に合わせて、天野がまた歌い始めた。
「めーりさんのーひっつっじー ひっつっじー ひっつっじー」
「止めろぉぉ!」
無邪気な声で歌い上げられた、その名前。
根瓶の顔が恐怖に歪んだ。下手な冗談だと思っていたクラスメイトたちさえ、あまりの不気味さに言葉を失う。
「めーりさんのーひっつっじー まっしーろねー」
天野の歌も、謎の着メロも止まらない。
クラスメイトたちの視線の中、根瓶は震える手で魅入られたようにスマホをタップした。
「……はい、根瓶です」
『もしもし、私メリーさん。今、あなたの学校の前にいるの』
知らない少女の声が教室に響く。スピーカーモードにした憶えなどないのに。
ガタッ! ガタガタッ!
何人かが窓際に駆け寄って、校門を見た。
血のように赤い夕焼けに照らされた校門。誰もいない。
「止めろよメガネ星人! ふざけてる場合じゃねーだろ!」
「違う! 僕じゃない!」
「アンタじゃなきゃ誰に出来んのよ!」
「は、ハッキングとか、ウィルス? とにかく僕は何もしてないんだ!」
めーりさんのーひっつっじー
「うわぁぁあ!」
根瓶はスマホを放り投げてしまう。
まるで、落ちた衝撃で受信ボタンが押されたかのように、スマホから少女の声がした。
『もしもし、私メリーさん。今、あなたの教室の前にいるの』
「手鞠ぁ! お前何か知ってんだろ!?」
「なーいしょ」
天野手鞠はにこにこ笑っている。この薄気味悪い空気の原因はだいたいこの子の異様な豹変のせいだ。でなければ、誰がこの程度の悪戯で震えるものか。
クラスメイトの反応は概ね2つに分かれた。教室のドアを見る者と、目を背ける者。
「……ハハッ! どうせ、塚井か保が戻って来たってオチなんだろ!」
1人の男子生徒が、すぱぁん! と思いきり良くドアを開けた。
誰もいない。メリーさんも、生徒も、先生も。
めーりさんのーひっつっじー ひっつっじー ひっつっじー
「後ろに来るぞ!」
誰かがそう叫んで、教室に悲鳴が上がった。
「ど、どうする!? どうすればいいんだっけ!?」
「壁だ! 壁を背にしろ! 壁に埋めるんだ!」
「窓でしょ!? 窓から落とすんじゃなかった!?」
「そもそも大勢いる時にメリーさんは来ねーよ!」
「誰よ人形捨てたのは!」
「羊は関係あったっけ!?」
「アレはただの保留音だろ? だよな!?」
「もっと詳しい奴いねーのか!」
「ググれ! 今使わなくていつ使うんだ!」
大騒ぎである。筋金入りのオカルトマニアがいれば、さぞかし盛り上がっただろう。
「めーりさんのーひっつっじー ひっつっじー ひっつっじー あーるとっきーがっこーにー つっいってーきたー」
結論。
根瓶誠二は四方木礼祀に背を向けると、スマホを握った。
バケモノにはバケモノをぶつける作戦である。ゴリラより強いんだからもうバケモノでいいだろう。
クラスメイトたちが固唾を飲んで見守る中、根瓶は青白い顔で鳴り続けるスマホを見つめる。
大丈夫。きっと四方木か天野の悪戯だ。何でか知らんけど。大したことは起きないはず……
クラス委員としての矜持と覚悟を胸に、根瓶は震えを抑え込んだ指で受信ボタンをタップした。
『もしもし、私メリーさん。今、あなたのスマホにいるの』
はぁ? と、一同が気の抜けた声を漏らす。
画面では可愛らしい金髪の幼女が、素敵な花のドレスを着て笑っていた。