その6:二階子ちゃん
「お、俺、先生呼んで来る」
1人の男子生徒……塚井馳夫が、そう言って教室を飛び出そうとした。
「えっ、それはどうなの」
「大事になっちゃうんじゃね?」
「被害者の意向が一番大事なんじゃ……」
「そんなこと言ってる場合かよ! 怪我人が出てんだぞ!」
塚井が叫ぶと、教室のどよめきが消えて、由璃の呻き声と十字河の呼吸音だけが残る。
「な? 俺は行くからな!」
再度宣言した塚井を、止める者はいなかった。
「四方木! お前、覚悟しとけよ!」
捨て台詞を残して、塚井は放課後の廊下へと駆け出していく。
「あー、せいぜい気ぃつけて行けや」
名指しされては仕方ない。礼祀は手だけひらひらと振って男子生徒に応えた。
どうなろうと仕方ない。大した罪も落ち度も無いのに死んでしまう生き物なんて、この世には当たり前のように満ち溢れているのだから。
※※※※※※
狗尾柄中学の校舎は、3年の教室が2階に、職員室は1階にある。
塚井馳夫は勢い込んで階段を駆け下りた。いつも教室で寝たフリしてるあの陰キャがストーカーだったとは恐れ入ったが、この機会に小輪雁夏水に恩を売れるかもしれない。いつも彩湖蓮由璃や十字河護里が睨みを利かせていて中々お近づきになれない、あの夏水ちゃんに!
使命感と期待に胸を突き動かされながら、塚井は階段を駆け下りた勢いのまま、廊下へと曲がって職員室に突撃……
「あ、あれ?」
そこに職員室はなかった。
血のように赤い夕焼けに照らされて、3年生の教室が並んでいる。
振り返ってみると、階段はまだ下に続いていた。
何かの勘違いか?
階段を降りたと思ったら降りていなかった。そんなことがあるんだろうか。超スピードや催眠術か?
納得も理解もできないまま、とりあえずもう一度、今度はゆっくりと階段を降りる。
……2階から1階に降りた。はずなのに、まだ階下へ向かう階段は続いている。この校舎に地下なんて無いはずなのに。
「はぁ!?」
廊下を見る。3年の教室が並んでいる。
窓から外を見る。2階だ。誰もいない校庭が血のような夕焼けに照らされている。
「なんだよこれっ!?」
階段を昇ってみる。3階だ。2年の教室が並んでいる。
階段を降りる。2階。3年の教室。
階段を降りる…… さらに下へ続く階段、3年の教室。何だ、何が起こっている?
「1階には着かないよ?」
声が、した。
さっきまで、人の気配なんてしなかったのに。
待て、なんで人の気配がしない? まだ放課後になったばかりだぞ?
「1階に着いたら、死んじゃうからね」
死。異常事態の中で投げかけられたそのフレーズに、ゾッと背筋が凍る。
振り向くと、一人の少女が立っていた。
誰だ? 狗中の制服じゃない。どこの生徒だ? 何の用だ?
「し、死んじゃうって……?」
初対面の女学生に塚井が訊いたことは、名前でも所属でもなく、死のことだった。
「死んじゃうは死んじゃうだよ。こんな風に」
少女の頭が、ぐにゃっと、ぐしゃぐしゃっと潰れ、血と脳漿とよく分からない中身のパーツが溢れ出す。
「あああああああああ!?」
塚井は逃げた。よく、足が動いたものだ。真っ先に先生を呼びに行くと言い出したあたり、行動力の有る人間なのだろう。
3年2組、元いた自分の教室に駆け込んだ。
「でっ、出たっ! あれっ、アレが、出ぇっ!」
全力でクラスメイト達に異常を伝えようとして……
誰だ、こいつら。
知ってる顔が1つも無い。いるのは知らないおっさんおばさんの群れ。
何かの業者? でも制服着てる。学生服を。何で大人が?
40人近くも集まって、暗い顔して俯いている。意味が分からない。誰なの。何でいるの。ここは俺らの教室だぞ?
「全然成仏しないねぇ」
心臓が止まるかと思った。後ろから、さっきの少女の声。
ああ、おばさんたちの制服、この子が着てるのと同じだ。そうだ、この制服って確か、この中学の昔の……
「反省すれば、成仏できるのに。やっぱりそういう人たちなんだねぇ。反省してれば死ななかったのに、死んでも反省しないんだから」
そう言って、さっきの少女……頭は元通りになっている……は、塚井の横を通り過ぎて教室に入り、席の一つに座った。
花瓶が置かれた、落書きだらけの席に。
「こ…… こいつらは……」
「殺してくれたんだ。わたしが関係ない人まで見境なく襲う狂った怨霊にならないように」
殺、殺、殺、殺。普段なら大して気にもしないその言葉が、異常な存在感を持って男子生徒の臓腑に圧し掛かって来る。
「こ、殺してくれた、って、誰が、誰を」
「黄泉祇の御方が、わたしを虐めた人たちを」
少女が微笑んだ。
制服を着せられた大人たちが、一斉に呻き声と啜り泣きを漏らした。
「よも、ぎ?」
「だから、わたしは許せないんだ。あの方が踏み躙られている時はヘラヘラ見物してたクセに、今さら先生に告げ口に行こうとする人が」
なんだよ。なんなんだよ。どういうことだよ!
もう、恐怖で思考が働かない。教室を飛び出す。
階段を降りる。降りる。降りる。降りる。
「だから、1階には着かないって」
また、後ろから少女の声が聞こえる。走り過ぎて張り裂けそうな心臓が、ドクンと脈打つ。
「いつもは、こんな使い方しないんだ。落とされたり飛び降りたりしちゃった子が、地面に着かないようにするためのモノだからね」
「うわあああぁああぁあぁああああ!!」
絶叫して、塚井は窓へと駆け寄った。
校庭が見える。すぐ下に1階がある。窓を開けて、身を乗り出した。地面まで3メートルくらいか。
芝生の上なら怪我はしない。運動神経には自信がある。一気に跳び下りる。
なんだったっけ? 職員室に行くんだっけ? そうだ、職員室に行けばきっと終わりだ。こんな、ワケの分からない、悪い夢みたいな状況は……
「う、わ」
着かない。
「うわああああ! うわああああああああぁ!!」
辿り着かない。いつまで立っても。すぐそこに在るはずの地面に。
「だから、1階には着かないって」
通り過ぎる窓から、少女の声がする。
何度も、何度も、塚井馳夫は窓辺に佇む少女を通り過ぎて、落ちていく。
何度も、何度も。
「そうやって落ち続けてたら、そのうち、あの方が助けに来てくれるの…… いつもは、ね」
その瞬間、塚井は唐突に、直感的に、全てを理解した。
分からされてしまった。
(もう手前らの為には、何もしねーことにするわ)
「助けて! 助けてくれぇ、四方木! 俺が悪かった! 何でもする! だから! 助けに来てくれぇ!! 四方木ぃぃぃ!!」
塚井馳夫は落ち続ける。
「ズルいだろ!? ちゃんと言ってくれよ! 知ってりゃ、あんなこと、絶対に!!」
「知ってても知らなくても、あんなことしていいわけないでしょ」
膨れっ面の少女が通り過ぎていく。何度も、何度も、何度も。