その17:メガネメガネ
四方木礼祀は夜道を歩いていた。
「変な電話繋げやがって…… あのクソ親父が」
機嫌は頗る悪そうだ。溜め息を吐きながら、峠のトンネルへと向かっていた足を止める。
そして、振り返り、尾けてきた人影に声を掛けた。
「何の用だ。メガネ星人」
疎らになりつつある街灯の暗がりから、血走った目の根瓶誠二が姿を現した。手には美術の授業で使った切出小刀を構えている。
「四方木礼祀ぃィ…… お前、お前のせいで、僕は……!」
「知るか。俺が何かしたって言うなら証拠のひとつも持ってこい」
「何が証拠だ! 小学生か!」
「ガキはお前だ。立志式も過ぎたんだから、もっと物事を学べ」
「きっさまあぁァアッ!!」
根瓶誠二は腰だめに小刀を構えて突っ込んで来た。どこで学んだのか、刃が横を向いている。
「人に刃物を渡す時はこう」
礼祀はクルリと小刀の刃を根瓶の方へ翻す。
その直後、根瓶は礼祀に思い切り激突した。礼祀は小指をぶつけた箪笥のようにビクともしない。
ぬち、と、血脂を裂く音がした。
「……は、あ?」
間抜けな声と共に、アスファルトへ崩れ落ちる根瓶。
「えっ、痛…… 痛っ! 痛たたたただだだッ! え、これ、ウソ、だろ、おい、よも、ぎッ!?」
礼祀は見向きもせずに歩み去っていく。
「おいっ…… よも……ぎ…… ちょっと…… これ…… お前…… マジ、か……?」
礼祀は見向きもせずに歩み去っていく。
は? 有り得ないだろ? 小刀が刺さって……血が出てるんだぞ? それを、無視?
(もう手前らの為には、何もしねーことにするわ)
え…… あれって、こういうことか!? いやいやいや! そんな無茶苦茶な!!
犯罪だろ、こんなの!? いや、法律以前に人として間違ってるだろ!?
目の前で人が苦しんでるのに、平気なのか!? こんなに痛いのに、俺のことなんてどうでもいいのか!?
ストーカーなんてレベルじゃない。こいつは完全な異常者だ。早く警察を…… いや、その前に、救急車を……!
頭に昇っていた血が抜けたか、失っていた正気をわずかに取り戻した根瓶は、鉄の臭いに滑る手で必死にスマホを取り出すと、今日二度目の緊急通報を押した。
『もしもし、私メリーさん。ヤドゥーケさん、私からでいい?』
「うむ、拙僧はメリーさんが飽きてからで構わぬ」
『いいの? 子供を攫うのは久しぶりでしょ?』
「良いさ。徘徊する御老人方を導くのも悪うはなかった」
『Thank you so much!』
「滅相もない…… しかし、その唐突な英語は何ぞ? 其方、日本産であろ?」
『どんまい、どんまい』
スマホと、背後から、声がした。
振り向けば、宵より黒い墨染を白装束に重ね、剃髪を無精のままに伸ばしたような蓬髪の、不気味な僧形。
なんなんだよ。
なんなんだよ、なんなんだよ、なんなんだよ!!
呼んだのは医者なんだよ! 坊主はお呼びじゃないんだよ!
メリーさんとかもういいよ! 電話くらいまともにさせてくれよ!
誰かまともな人はいないのか、と見回しても、この変な坊さん以外には誰もいない。人気の無い場所を選んだのは、根瓶自身だ。
「さて、メガネの。御陵様……礼祀殿を危険人物だと思っておったのだろう? その上で態々一寸掻を出したのだから、当然、危険も覚悟の上であろうな?」
『そんなわけないの。ただのバカなの。躾の悪いガキなの……ではでは』
背筋を走った凄まじい寒気。
震えながら墨染と宵闇を見上げる根瓶。
そのスマホから、楽しそうな、心底楽しそうな幼女の声が響く。
『It's showtime!! 私、メリーさん!! 今! あなたの後ろにいるの!!!』
「ほほぅ、此れは如何にも。浅ましくもおそろしさは筆につくすべうもあらずなん……とや」
結局、根瓶誠二も行方知れずとなった。
根瓶家は悲しみに暮れたが、その顔にはどこか諦めが漂っていたという。




