悲報
芳子は舞を送り届けると家路に着く。
「お帰りなさいませ。お兄様。」
千鶴子が出迎えてくれる。今は一時的に九段下のアパートで千鶴子と2人で暮らしている。
芳子はソファーにすわると着ている上着を脱ぎ捨てる。
「お兄様。」
千鶴子が隣に座る。
「今日はなんだか嬉しそうね。何かいい事でもあったのですか?」
「ああ、ちょっとな。おいで。」
芳子は千鶴子を抱き上げると自分の膝の上に座らせ長い黒髪を撫でる。
「今日は教会に行ってきた。」
「あら、お兄様はいつからクリスチャンになったのかしら?」
千鶴子がからかう。
「違うよ。その教会は手紙をくれたあの娘舞ちゃんが働いてるんだ。そこは信者じゃなくても受け入れてくれて、宗教だけでなく性別、年齢、人種、関係なくどんな人でも訪れられるんだ。」
「それがどうかされたのですか?」
「かつて僕が夢見た満州国の理想像と似てるような気がするんだ。」
「だけど満州国は日本軍がアジア民族を牛耳るための偶像国家だった。」
千鶴子の表情は暗くなる。
「それで舞ちゃんが教会で講演会できるように神父様に掛け合ってくれるって言うんだ。あそこに来る人達なら僕の話を分かってくれるはずだ。」
「良かったわ。私もそうなるといいわ。だけど」
「だけど?」
千鶴子には心配事があった。
「お兄様、私と舞ちゃんどっちが好きなんですか?」
「千鶴ちゃんに決まってるだろう。」
芳子は即答で答える。唇を指で掻きながら。
「嘘、お兄様のいつもの癖が出てますよ。」
芳子は嘘をつくとき唇を掻く癖があるのだ。
「千鶴ちゃん、これでも信じられない?」
芳子は千鶴子をソファーの上に横たえる。
「きゃっ!!辞めて下さいお兄様。」
「いいじゃないか、他には誰もいないんだし。」
千鶴子は手を握られ芳子と唇を重ね合わせる。
(お兄様の馬鹿。)
千鶴子は思った。芳子は日中両国に名の知れた男装の麗人だ。芳子を慕う少女も多数いるし、軍の人間も芳子に気がある者も少なくない。その度不安になる。自分に芳子を繋ぎ止めておく自信はあるのか?そう思うたび芳子はこうして千鶴子の不安をかき消してくれるのだ。
芳子が舞の働く教会を訪れてから5日が経った。舞は授業を終え子供達を見送ると礼拝堂でお祈りをしている神父様の元へと行く。
「神父様、子供達皆帰りました。」
「ご苦労様、ありがとう。」
「明日ですね。芳子様がいらっしゃるの。」
舞は嬉しそうに話す。
芳子に講演会を訪れた翌日、講演会の話を神父様に持ちかけた。彼は快く賛成してくれた。
その事を電話で伝えると日程の相談と会場の下見を兼ねて明日来てくれることになった。
「舞ちゃん、それが難しいそうだ。」
急用でもできたのだろうか?
「実は言おうか迷っているのだが。」
「言って下さい。」
神父様は舞に今日の夕刊を渡す。
「川島芳子、銃撃。救急搬送される。」
新聞の表紙にはそう書かれていた。