第2話 生きる為にはご飯が必要だ
あれから3年経ち8才になった。背が伸びて体も同じ年頃の連中と比較できない程逞しい。村で一番の体格だ。フフフフッ、春から秋にかけて漁をして干物を作り、年中カルシウムの摂取に心掛け、バッタやコオロギを食しタンパク質を摂った結果だよ。
漁のお陰か父ちゃんと母ちゃんも以前より健康的だ。しかし、この3年間に父ちゃんは3度戦場へ向かった。そして、3度目の戦は負け戦で腿に怪我をしてボロボロで帰って来た。逃げるため身軽にするのに防具等を捨てた為、持ち帰れたのはボロイ槍が1本だけだった。
この怪我の所為で普通に百姓は出来るが、走るのに影響が出て戦に出る事が出来なくなった。
父ちゃんも母ちゃんも村人の前では悔しそうにしていたが、家では二人ともホッとしているようだった。
村人の人数に応じて、戦に行く人間の数が決められている。つまり、次戦が有れば父ちゃんの代わりに誰かが戦に行くという事なんだよな。
二人は夜の営みは行っているようだが、子供は俺だけだった。俺がまだ小さいという事と、子供が少なく家全体の労働力が小さいので戦に行かなくても良くなったのは幸いだった。
父ちゃんが怪我をして帰って来た時に薬がない事に気が付き、自分で薬を作ろうと思った。
俺はそこで愕然とした。この村で覚醒する前の俺はウィルスの研究をしていたが、この村で薬と言われると簡単なものしか浮かばない。
俺が知っているのは、ヨモギとドクダミとミミズだ。他にも色々あると思うが、この三つの原料から乾燥させて粉とした。
俺の拙い知識だと、ヨモギは止血、ドクダミは傷の治療、ミミズは発熱に効く。この程度だ。村の周辺にもこれらは結構見つかるので採取した。
そして、自分で人体実験を行った。後で、気が付いたが、以前来た婆が実は薬に関して詳しかった。そこで婆の所で薬に関して聞き、書き留めようと思い紙は無いかと聞いたら、婆の弟子達が驚き騒ぎ始めた。
なぜなら、村で満足に字を読んだり書いたり出来るのは婆と村長と一部の村役だけだったからだ。
8才になって、今頃、驚かれても困るんだが、こっちが困った。村には寺子屋などなく、親から子への知識の伝達が主だから、親が知らない知識を子供が得る事はない。
村人の識字率がかなり低いのに俺が誰から習ったかということになった。
やばい。このままで行くと俺は狐憑きという事で殺されてしまう。
そんな時に婆が俺の所に来た。
「少し、騒ぎになってすまんかったのう。わしもこんな騒ぎになるとは思わなんだ。重蔵の所も後継ぎがお前しかおらん。その後継ぎがいなくなるのも可哀想じゃあ。そこでじゃ、お前さんはこの婆から字を習ったことにすればいい。いいか、決して忘れるでないぞ」
「・・・この際だから、婆には本当の事を言うよ。俺は、4つの時に高熱を出して寝込んでいただろう?その後、記憶喪失になった。でもね。実はあの時、この村の竹の魂は体から抜けて、俺の魂が代わりに入ったんだ。そして、竹として4年間生きて来た。字に関しては今までの生活で必要が無かったからすっかり忘れていたけど、この村ではほとんどの者が字を読んだり書いたり出来ない事を忘れていた。ついでだから言うけど、俺は算術の他に多少の知識も持っている」
「うむ。今言った事は誰にも言うては成らぬ。他言すれば、不幸になるぞ。時々、わしの所へ出入りするが良い。さすれば、字の読み書きや算術が多少できても怪しまれまい。それが嫌なら、村から出る事だな。よいか?」
「分かった。この歳で特に村から出てもやれる事も無いしな。当面はこのまま、村にいるよ」
この後、婆と色々な事を話したが、自分のやりたい事が有れば、他の村人に迷惑にならない範囲で自分の土地でやる分には問題が無いそうだ。村とは閉鎖的で異分子は弾き出されることをすっかり忘れていた。危なかった。
婆が皆に説明して今回は事なきを得た。
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8歳になり更に体も大きく、力も付いた。俺の田んぼを作ろう。勿論、家の左側に開墾されている父ちゃんの田んぼも手伝うがな。
母ちゃんのお腹が大きくなって来た。どうやら、今年中に俺に弟か妹が出来るみたいだな。
これは、益々、食料が必要だ。
村には、まだまだ田んぼを作る土地はある。だがね。何でも人力なんだよな。今ある田んぼだって父ちゃんや母ちゃんの二人では面倒を見るのがやっとだろう。人が増えないと新たな田んぼを広げられない。新たな土地と言っても荒地で大きな岩や切株などを人力で排除して耕し、取り敢えず生きていける田んぼとするには何年掛かるのだろう?
村は閉鎖的で余所者は受け入れない。この意味分かる?村に来る人間は知り合い以外、追い払われるか敵意のある奴は殺され剥ぎ取りされ林の奥に埋められる。
父ちゃんに聞くと何処の村も似たようなものらしい。見知らぬ村に近づく危険を父ちゃんから聞かされた。
人間の命がいかに軽いかだ。自然に人口が増えないと働き手が増えない。でも、現状の田んぼで採れる米を年貢に取られ、米の収穫の後で作る稗や畑で採れる野菜や粟で生きていく食料事情から人口も増えない。
と言うか、増やせない。
過酷だ。村の田んぼは全て湿田だ。
俺は、自分の田んぼを開拓する事にした。と言っても父ちゃんが維持している大きな田んぼでなく小さなものだ。実験に使う田んぼだ。
場所は家の前の畑の下の土地で家の近くを流れている小川があり用水路を作るのに丁度いいが、荒地で田んぼにあまり向いていない場所だ。
村には余分な金属が無い。ほとんどの農具は木で出来ている。当然、一輪車などない。自作の天秤棒にザルをぶら下げ荒地の石をどけて耕地にしながら用水路建設予定地に運び用水路の材料とする。
家の手伝いをしながら作業を続けたんだ。
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年が明け9歳になり正四角形的な田んぼが完成した。父ちゃんの田んぼを俺の足の幅で測った結果、300坪つまり1反で、俺の田んぼはそれと比べると1/10の30坪くらいかな。これとは別に俺に弟が生まれた。弟の名前は竹次だった。竹次は昨年生まれたから2歳になった。村では数え年だったので、生まれて1歳で新年を迎えれば1歳年をとるんだ。
俺とは7歳違いだが、元気に育ってくれ。母ちゃんの乳が終わったらバッタやコオロギを捕まえて来るから食べろよ。
母ちゃんは竹次が生まれる直前まで働いていた。昔はこれが当たり前だったんだ。
俺の田んぼは乾田だ。それと肥しの用意だ。村では排泄を林にしている。大の場合、大人は地面に穴を掘り用を足し終われば尻を葉っぱで拭いて穴を埋める。小はその辺にシャーだ。
俺はまず田んぼの近くに長方形の俺が落ちても這い上がれる程度の穴を掘り、小川の近くから粘土を採取して、この穴の中を粘土で覆っていった。折角の肥しが地面に吸収されては勿体ないからね。これに竹で編んだ蓋をして完成だ。
肥しの元であるクソを集める為、木で箱を作り林の近くに設置して家族に箱へ大をする様に頼んだ。
父ちゃんと母ちゃんは、しょうがねえ奴だという顔をしていたが協力してくれた。
俺自身は葉っぱ持参で肥溜めにダイレクトにしたね。林に設置した木箱に大が溜まると肥溜めに入れて、林から腐葉土ポイ葉っぱを集めて入れる。最後に竈と囲炉裏から出た灰を入れた。毎日長い棒で肥溜めをかき混ぜた。
人糞は回虫が心配?肥料を完全に発酵させれば熱で回虫の卵が死ぬし、日本の戦後の回虫騒ぎはGHQだったかな?生野菜を食べましょうとか、日本の現状を知らずに進めるから子供のお腹に大量発生する事になったんじゃあなかったかな。焼くなり煮るなりすれば安全だ。
肥溜めが一杯になるまで2カ月程掛かった。既に発酵していて少し臭いが減ったような気がしたが、近寄るとヤッパリ臭かった。ただ、微生物の発熱により少し暖かい。来年の早春には乾いている田んぼに梳き込んで空気と肥しで耕し、なじませた後に用水路から水入れ予定だ。
用水路は田んぼに沿って側掘りをして荒れ地の石と小川から拾って来た石を粘土でつなぎ用水路とした。粘土は近くに崖があり、地層がむき出しなっている所から採取した。
自慢の用水路だ。
とこで、俺を見る村人の評価だが、俺は元々この村で年の近い子供と遊んだことは無い。俺と入れ代わる前の竹もそうだったらしい。
四角い田んぼを作り、クソを田んぼの近くに集めていたが、それに対して特に聞いて来る村人はいなかった。村と言うのは外敵には過敏に反応するが、村人同士は明日を生きるのが精一杯で他人のする事には興味が余りないらしい。
この時代がいつなのか分からないが、人糞を発酵させて肥しとして利用したと記述があるのは平安時代頃だったよな?でも本格的に利用始めたのが江戸時代頃だったと記憶しているが、俺は歴史学者じゃないから正確な所は知らん。ここが日本だとすると、少なくとも江戸時代以前という事になる。
村では肥しを使ったのを見た事が無い。肥しは重要だよ。但し、沼地を田んぼに改良した場合は肥しという意味ではかなり豊富なため、稲の成長が良すぎて背だけが高くなり米の出来が悪いと聞いた事がある。
村の田んぼは沼地を改良したものだが、もう数えきれないほど稲作を行っていて、水は川から引いているようだから土地の栄養分は枯れているんじゃないかな。父ちゃんの稲の実は俺の前世の稲と比較すると明らかに少ない。
俺の田んぼに撒く籾の塩水選別をしたかったが塩がそこそこ高いので諦めた。まあ、重そうな籾でいいや。村では田んぼにダイレクトに籾をバラまくが、俺は苗作り用の温室代わりの木箱を木っ端で作り籾を育てる。温室効果で、早く芽が出てある程度に成長したら木箱の上部を取り外し苗になるまで育成する。昼は外で日光に当てて、夜は家の中だ。
ククククッ、冷たい水の中に放り込まれた籾は芽を直ぐに出さないよなあ。俺の籾は既に伸びてほぼ苗になるところだ。この差は大きいんだよ。だってさあ、籾から苗になるまで20日掛かるとすると、俺の田んぼはそれだけ早めに米が出来る。天候によっては米の二毛作だって出来るし、天候が悪ければ米作の後に稗を作付けするか、乾田だから畑として野菜や粟を作付けしても良い。
稗は水田で粟は畑で作るんだ。作付けする環境が違う。
田植えは当然、正条植えだよ。早く来年の春にならないかなあ。
村での米の年貢は、一家で年間2俵だった。家で維持している田んぼは300坪つまり1反くらいで、年間取れる米も種籾を入れると2俵半。つまり、俺達が米を食すことはほとんどない。
でも、この1俵、軽いんだ。頑張れば俺でも持てる。可笑しい。俺のいた世では1俵は60kgで9歳の俺が持てるとは思えない。少なくとも60kg以下だな。うーん、確か明治になってから1俵は60kgでそれまでは統治者によってバラバラだ。米を入れる俵の大きさ決められていて誤魔化す事が出来ないが、手作りだから多少の凸凹はあるにしても1俵30kgくらいだろう。
確か俺の前世のじいちゃんが言ってたのは1反=300坪程度では年間150kgの米が取れて人一人が一年間食べていける程度だぞと言っていたのを思い出した。
そうすると、父ちゃんの田んぼから採れる米は75kgだから前世の50%程度しか採れないんだな。
でもさあ、折角、採れた米を殆ど年貢に取られて、雑穀で生きていく百姓は凄いよな。