介護士にできることー4
「おーい、護人さん、まだ終わらないかな?」
がらりと、居室のドアが開いた。
冴香だった。
「あ、すみません、もう終わっています」
「そう? 彩峰さんが、まだ終わらないのか~って気にしているよ」
ポニーテールを揺らして、冴香はそんなことを言う。
排泄介助に入るだけにしては、時間がかかり過ぎていた。
浩司が気にするのも理解できる。
「すみま――」
「桐谷さん、残念だね」
「……」
もう一度、謝りかけて、冴香の言葉に遮られる。
冴香の視線は、駿介の手に注がれていた。
桐谷さんと、手を握り合ったままだった。
「……」
なんと返して良いのか分からず、駿介は黙り込む。
駿介にとって、冴香は話しやすい相手とは言えない。
一対一で話したことがほとんどない……だけではない。
もう一つ、理由がある。
浩司とは、意見が合わないながらも、同性同士ということもあり、なんとなく理解し合えている部分がある。互いの考え方が違うという前提で、話すことができている。
――この人、分からないんだよな……。
しかし、冴香に関しては、正直『分からない』のだ。
最初は、浩司とともにいることから、浩司に近い考えを持っているのだと想像していたが、会話を聞いていると、そうでもないようなのだ。浩司の機嫌を損ねないよう、上手く立ち回っている――とでも言うべきか、「そうですよね~」と言いつつ、自分の意見は発言しているのだ。
駿介からすると、怖いくらいに人付き合いが上手く、それでいてきちんと自分の意見は持っている――ある意味、不気味な先輩だった。
身構えてしまう。
「一つ、質問していいかな?」
冴香はするりと居室へ入り、駿介の隣に並ぶ。
その自然な立ち振る舞いも、駿介にとっては不気味に見える。
「はい。なんでしょうか?」
半歩、横へ動き、応じる。
距離感も、やたらと近い。
「さっき、彩峰さんと二人で話していたみたいだけど、桐谷さんのことだよね?」
「え? はい。そうですけど……?」
「護人さんは、桐谷さんの入所に関して、どう思っているの?」
「――っ」
ド直球。
冴香は、駿介の複雑な心境を知ってか知らずか――いや、おそらくは気付いた上で、踏み込んできた。
「どう思った、というのは……?」
「そのままの意味だよ。桐谷さんのためになにかしたいとか、それとも、入所自体を快く思ってないとか、なんでもいいよ?」
向けられた丸っこい目には、真剣さに加えて、優しさも垣間見える――気がする。
「……」
駿介はどう答えたものかと、目いっぱい逡巡し、結局、変に隠しても仕方がないと観念する。
冴香は、いつも浩司と一緒にいるのだ。
浩司から、駿介のこともよく聞いているだろう。
素直に返事をしようと腹をくくる。
桐谷さんから手を離し、冴香に向き直る。
そして、言った。
「できることなら、夏祭りに参加していただいてから、お別れできないかと思っています」
浩司には、無理だと断言された。
不可能だと。
冴香には、どう取られるか――
「うん、いいと思うよ」
「――え?」
聞き間違いかと思うほど、冴香は簡単に駿介の意見を認めた。
「桐谷さんのために、なにかしたいんでしょ? 私は賛成するよ」
「え……と、本当ですか?」
「もちろん。というか、え? 否定されると思ってたの?」
曖昧に、頷く。
「なんで? あ、もしかして、彩峰さんになにか言われた?」
「……」
無言で肯定する。
無理だ、駄目だ、とはっきり言われたせいで、他の先輩方も同様なのではないかと思っていた。
それに、浩司が言っていたことも、間違っていないと感じている。
どうしたって、無理を通すことになるのだ。
否定されても仕方がない。
「あー……あれかな? ケアマネの仕事になるとか、他の御利用者や職員に迷惑がかかるとか、そういう感じ?」
冴香は苦笑いでそんなことを言う。
エスパーかと思うくらい、当たっていた。
「彩峰さんはそういうところ、厳しいからね~」
「……はい。でも、それも、事実ですよね」
「まあ、そうなんだけど」
冴香は、うーんと首を捻る。
やはり浩司の言っていることは間違っていないのだ。
冴香も、安易に否定できないといった風だ。
「……」
「……」
二人して、数秒間黙り込む。
と、
「じゃあ、私から、一つだけ、いいかな?」
少しだけ、困ったような笑顔を浮かべて、冴香は言葉を吐き出した。
「私は、桐谷さんのためになにかするなら、応援するよ」
冴香は一度、桐谷さんへと視線を向ける。
「家族関係のこととか誕生日のこととか、それもあるけど……一緒にいる時間が長かったからね。私も、なにかしたいっていう気持ちはあるよ」
ぐっと手を伸ばし、桐谷さんの手に触れる。
「……」
ほんの一、二秒、桐谷さんの手に触れて。
「でもね」
駿介へと視線を戻す。
その瞳は、微かに揺れていた。
「でも――それならどうして、他の御利用者の時にも、同じようにしないのか、って言われると……答えられないんだよ」
悲しそうな、申し訳なさそうな、そんな口調だった。
「護人さんが、桐谷さんのためになにかする、頑張るっていうなら、先輩としてできることはやりたいと思うし、応援もする。ただ、これだけは覚えておいて」
「もし、桐谷さんのためだけに、なにかをするのなら――他の御利用者が入所になった時も、同じようにする覚悟を持っていてね」
「――」
他の御利用者にも同じように。
そう言われた瞬間、駿介は一人の男性を思い出していた。
西坂源一さん。
少し前に、ふれあい西家から去った御利用者だ。
西坂さんがふれあい西家から旅立つ時、駿介を含め、職員は『何もしなかった』。
ただ、その時は、滝野さん脱走事件の事後処理に追われ、忙しかったという事情がある。なにかするにしても、時間的、精神的な余裕がなかった。
――……本当に?
いや、と考え直す。
あの時、駿介はなにかをしようとすらしなかった。
何もできなかったという後悔はあったけれど、それは介護的な部分であって、お別れ前になにかをしてあげようとか、そんなことは全く考えていなかった。
なにか、やろうと思えばできたのではないだろうか。
脱走事件があったからとか、余裕がなかったからとか、そんなことは、言い訳にしかならないのではないだろうか。
「よく、考えてね」
冴香はそう言い残して、居室から出て行く。
「……」
取り残された駿介は、唇を噛みしめ、天井を仰ぐ、
熱くなった頭が冷えていくのを感じる。
駿介の気持ちを理解し、なにかするなら協力するとまで言ってくれた先輩からの、厳しい忠告が、胸の内に響いた。
覚悟を、持て――。




