滝野さんー8
「滝野さん、待ってください!」
駿介は困り果てた様子で滝野さんの背中を追い、玄関へと向かった。
浩司は、心の中ですまんと謝――
「今のは、助けるべきだったな」
唐突に、背後から野太い声が聞こえてびっくりする。
文字通り、肩を揺らして振り向くと、
「悪い。驚かせたか?」
仁王立ちの川瀬主任と目が合う。
浩司の視界から外れたところで、一部始終を見ていたらしい。
「コージ、今のは、助けるべきタイミングだったな」
「どうしてですか?」
断言する川瀬主任に、質問を投げかける。
浩司が助けないと判断したのは、自動ドアを開けられる心配がないことが大きい。
転倒でもしようものなら……という心配は確かにあるのだが、駿介だって、そのくらいの危機管理はできるだろう。『転ばないよう、そばにいる』程度のことができないなら、新人以下だ。
昼休みに川瀬主任が言っていた、『任せてみる』判断をしたつもりだった。
なにが悪かったのか。
「逆に聞くけどな」
そんな、浩司の思考を見透かすように、川瀬主任は笑う。
「コージは、どうしてこの状況で、『大丈夫だ』と思ったんだ?」
「それは――いくら新人でも、転んだりしないよう、そばについていることくらいできるだろう、と。違いますか?」
「あー……」
浩司の言葉を受け、川瀬主任は腰に手を当てる。
その視線は、廊下の先、玄関へと向けられていた。
「お前な、そういう『当たり前のこと』が身についてないから、新人って言うんだぞ?」
と。
「主任!?」
言い終えたかと思うと、突如、川瀬主任は玄関へ向けて駆け出した。
「え、なんだ?」
浩司は立ち上がり、訳も分からないまま川瀬主任の後を追う。
ふれあい西家の玄関は、広い造りになっている。
横幅は直径十メートル程あり、廊下側から見て、右手側に靴箱、左手側にコート掛けがある。
正面全体と左手側はガラス張りになっており、外の光が差し込みやすい、明るく、開けた構造になっている。
浩司は、廊下から玄関へ目を向けて。
コンマ数秒後には駆け出していた。
――マズイ!!
一気に、体中から汗が噴き出した。
大きく心臓が脈打つ。
「おい! 離れるなよ!」
後輩に対する言葉遣いとか、そんなものは吹き飛んだ。
滝野さんが、自動ドアへ向かって靴を振りかぶっていた。
開かないなら、壊してやろうということだろうか。
「おい、後ろ! 振り向け!」
声を張り上げる。
駿介は、滝野さんから目を離し、玄関に背を向け、フロアへと歩いて来ていた。視線は下に向けられており、玄関の方を見ようともしていない。
諦めてしまったのか、フロアに応援を呼びに行こうとしていたのか。
とにかく、滝野さんのそばから離れていた。
「へ?」
浩司の声を聞き、駿介はようやく、川瀬主任と浩司が自分の方へと向かっていることに気が付く。
「後ろ!」
「後ろ? あっ!」
彼も事態に気付き、動き出すが、行動が遅い。
どうしたらいいのか判断がつかないのか、それとも混乱しているのか。おろおろと戸惑うばかりで、足が動いていない。
どれほど危険な状況であるのか、分かっていないのだろうか。
そうこうしている間に、先行していた川瀬主任が駿介を追い越し、玄関へと到達する。
そして、余裕の表情で滝野さんの手元にある靴を掴み。
「滝野さん、落ち着いてください」
芯のある、力強い声音で制止を促した。
「ま、間に合った……」
遅れて、玄関へたどり着いた浩司は、何事もないことを確認し、ふう、と大きく息をつく。
「だから言っただろ?」
対し、川瀬主任は、息一つ切らさずそんなことを言う。
ここまで全て予測済みだと、その顔に書いてあった。
この人は、一体どこまで見極められているのだろうか。
「俺が相手をするよ。二人とも、フロアに戻っていてくれ」
川瀬主任は滝野さんと立ち会う。
「なんですか、あなたは!」
相変わらず、滝野さんは興奮していたけれど。
川瀬主任は一切揺らがず、一切動じず。
黙って滝野さんの言葉を聴いていた。
相手の言葉に耳を傾け、よく聞くこと。
介護の基礎、『傾聴』の姿勢だった。
川瀬主任には、どっしりとした安定感と、なにがあっても乱れない独特の安心感がある。
ここから口出しすることなど、何もなかった。
「戻るか」
隣で立ち尽くしていた駿介に声をかける。
指示通り、フロアへ戻ることにする。
「……」
奥歯を噛みしめる。
力不足を、痛感した。
川瀬主任のもとで、指導を受けて数年。
介護の基礎から、細かな事務仕事まで、どんなことも丁寧に、時には厳しく指導を受けてきた。ある程度、成長できた自負はある。
それでも、川瀬主任の大きな背中に追いつける気がしなかった。
「すみませんでした!」
と、足を踏み出すと同時に、駿介は謝罪の言葉を口にした。
滝野さんの相手を上手くできなかったことと、目を離してしまったことに対してだろう。
「いや……」
浩司は隣を歩く駿介から目を逸らす。
なんと声をかけるべきか、分からなかった。
駿介に落ち度はある。
滝野さんへの対応が上手くいかなかったのは仕方ないとしても、興奮した滝野さんを残し、玄関から離れたのは論外だ。それさえなければ、ここまで緊迫した状況にはならなかった。
反面。
浩司にも、落ち度はある。
初めて任された『後進育成』という業務で、まだ分からないことは多くある。川瀬主任のように、見極められていれば、こんなことにはならなかった。いなかったから、
今の状況を招いたのは、浩司にも責任がある。
もし、川瀬主任がいなかったら、滝野さんは靴を自動ドアに投げつけていただろう。ガラスが割れなかったとしても、投げた勢いでバランスを崩し、転倒していた可能性は十分ある。
そんな事態は、考えたくもなかった。
――謝るべき、か……?
いやいや、と首を振る。
ここで浩司が謝り、「自分の判断が間違いだった」と責任を被ったら、駿介はどう思うだろうか。
介護に強い情熱を抱いている彼のことだ。
自身の行動を振り返り、反省はするだろう。するだろう、が、『二度とこんなことは起こさない』と強く思ってくれるだろうか。
興奮している御利用者から目を離すなど、愚の骨頂。介護士失格と言っても良い。
心の底から、反省してもらいたい。
「あー、まあ、あれだ」
浩司は迷った末。
「お互い、頑張ろう」
結局、なにを言えば良いのか決め切れず、そんな、間抜けな言葉を口にしていた。
「へ?」
当然、言われた駿介は、頭の上に疑問符を浮かべる。
どういうことですかと目をしばたたかせる。
「あー……」
言った浩司も、どういうことだよと自身に突っ込みを入れつつ。
「とりあえず、困ったなと思ったら、すぐ先輩を呼んで。いい?」
最低限のアドバイスをする。
浩司が就職してすぐの頃、川瀬主任によく言われた言葉だった。
「……? はい」
脈絡がなさ過ぎたのか、駿介は首を傾げたまま、曖昧に頷く。
浩司は気恥ずかしくなり、「解散!」と宣言し、早足でフロアへ戻る。
「は? え、解散……?」
背後でそんな声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
介護士としては五年目でも、指導担当としては一年目のど素人だ。
素直に謝るべきだったのか、それとも、もう少し厳しく指導すれば良かったのか。今の浩司には分からなかった。
浩司にも、反省すべき点はある。
駿介だけに罪を被せるつもりはないし、指導担当として、もっとしっかりしなければ、とも思う。
目指すべき背中は、そこにあるのだ。
「よし」
浩司は頬を叩き、気合いを入れ直した。
……数分後、騒ぎを聞きつけてやって来た和田管理者に、川瀬主任ともども監督責任を問われ、こっぴどく怒られたのは言うまでもない。




