見つめる先ー9
◆
八月に入り、『暑い』を通り越して、『熱い』と言いたくなる日が増えて来た。
今年の夏は、既に例年を大きく上回る酷暑となっており、お盆の頃には四十度近くに達するとの予報も出ている。
そんな、誰もがだらけてしまう気温の中でも――
「お願いします~~~~」
古俣さんは、相変わらずの調子だった。
事業所内は冷房が効いているとはいえ、暑いことに変わりはない。古俣さんの煩いくらいの声が響き、聞いているだけで暑さが倍増する。
「静かにしてくれないかねえ」
椎川さんはうんざりした様子でそう言い、その横では、あの滝野さんですら、「嫌になるわね」と鬱陶しそうにしていた。
駿介は、古俣さんの声が聞こえる度に駆け寄り、
「どうされましたか?」
と対応する。
尋ねられた古俣さんは、「トイレ~」と言う。
その顔は悲壮感に満ちており、今にも漏れてしまいそう、という風である。
駿介は「こちらですよ」と古俣さんを先導し、トイレへ連れて行く。
ドアを開き、便器の蓋を開け、あとはズボンを下ろして座るだけ、という状態まで準備を進める。
一刻の猶予もない、という古俣さんの表情を見ての対応だった。
ここまで手伝えばさすがの古俣さんも、自分でできるだろう――と、思いきや、
「下ろして~」
ここまで手伝ってもなお、ズボンを下げるところまでやって欲しいと所望される。
「……」
すぐに介助することはせず、どうするべきか考える。
日々のちょっとした動作を自分で行うことで、筋肉を使い、手足を動かし、身体機能を保つことができるのだ。『日常リハビリ』とも呼ばれる大切な動作で、軽く考えて良いことではない。
反面、御本人の希望としては、介助して欲しい、とのことだ。
駿介は試しに、こう問いかけてみる。
「古俣さん」
「なに~?」
「今、ドアを開けて、蓋を開けるところまではお手伝いしましたので、ズボンを下げるところだけ、お願いできないですか?」
「できない~」
「……」
即答だった。
これでは駄目だ。
ならば――。
「では、今はズボンを下げますので、トイレが終わった時、自分であげることを約束してもらっても良いでしょうか?」
「いじわるするなって~。やって~」
「……」
これも、拒否される。
――やっぱり、難しいのか。
ある程度介助した上で、条件付きならば、やってもらえるのではないかと考えたのだが、厳しいようだった。
やはり、一筋縄ではいかない。先は長そうだ。
「漏れる~。早くして~」
なんて、考え事をしている間にも、古俣さんから声がかかる。
「……今回だけですよ」
このまま失禁させるわけにもいかないので、渋々、古俣さんの希望通り、ズボンを下ろす。
「ありがとうね~」
古俣さんは、一応、お礼を言いつつ、便器に座る。
座ったと同時に、排尿の音が響いた。
どうやら、本当に漏れる寸前だったらしい。
「終わったら、コールボタンを押してくださいね」
駿介はそう言い残し、トイレを出る。
――困ったな。
ドアの前でため息を吐く。
田島からのアドバイスを受け、古俣さんが大声を出す度、あの手この手でいろいろ試しているものの、未だ、正解が見つからない。
寄り添って、一緒に答えを見つける――と、口で言うのは簡単だが、それを実行するのは至難の業だ。
正解があるのかないのか判然としない問題へ、時間無制限で挑み続けるという作業は、相当な覚悟が必要となる。
古俣さんと心中する、くらいの気持ちでないと、できないかもしれない。
――……まあ、それはそれとして。
ふと、顔を上げると、浩司の目がこちらを向いていた。
分かっています、と心の中で答える。
介護士の仕事は、古俣さんと心中することではない。
他にも、御利用者は多くいる。
やらなければならない業務も沢山あるのだ。
古俣さんは、まだ若い。
長い付き合いになるだろう。
向き合う時間は、これから先も、多くあるはずだ。
まず、やるべきことをきちんとやる。
話はそれからだ。
「コージさん、次、なにをしましょうか?」
フロアに戻り、浩司に声をかけると、
ピンポーン!
そのタイミングで、コールが鳴る。
古俣さんだった。
「あー……とりあえず、古俣さんの相手、お願いします」
浩司は、心底面倒くさそうな顔をしたが、放って置くわけにもいかないと思ったのだろう。
古俣さんの対応を任せてくれた。
「分かりました!」
駿介は元気よく返事をして、トイレへと戻ったのだった。




