表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
結―ユウー  作者: 初雪奏葉
第三章:見つめる先
86/105

見つめる先ー9

     ◆



 八月に入り、『暑い』を通り越して、『熱い』と言いたくなる日が増えて来た。

 今年の夏は、既に例年を大きく上回る酷暑となっており、お盆の頃には四十度近くに達するとの予報も出ている。

 そんな、誰もがだらけてしまう気温の中でも――


「お願いします~~~~」


 古俣さんは、相変わらずの調子だった。

 事業所内は冷房が効いているとはいえ、暑いことに変わりはない。古俣さんの煩いくらいの声が響き、聞いているだけで暑さが倍増する。

「静かにしてくれないかねえ」

 椎川さんはうんざりした様子でそう言い、その横では、あの滝野さんですら、「嫌になるわね」と鬱陶しそうにしていた。

 駿介は、古俣さんの声が聞こえる度に駆け寄り、

「どうされましたか?」

 と対応する。

 尋ねられた古俣さんは、「トイレ~」と言う。

 その顔は悲壮感に満ちており、今にも漏れてしまいそう、という風である。

 駿介は「こちらですよ」と古俣さんを先導し、トイレへ連れて行く。

 ドアを開き、便器の蓋を開け、あとはズボンを下ろして座るだけ、という状態まで準備を進める。

 一刻の猶予もない、という古俣さんの表情を見ての対応だった。

 ここまで手伝えばさすがの古俣さんも、自分でできるだろう――と、思いきや、



「下ろして~」



 ここまで手伝ってもなお、ズボンを下げるところまでやって欲しいと所望される。

「……」

 すぐに介助することはせず、どうするべきか考える。

 日々のちょっとした動作を自分で行うことで、筋肉を使い、手足を動かし、身体機能を保つことができるのだ。『日常リハビリ』とも呼ばれる大切な動作で、軽く考えて良いことではない。


 反面、御本人の希望としては、介助して欲しい、とのことだ。


 駿介は試しに、こう問いかけてみる。

「古俣さん」

「なに~?」

「今、ドアを開けて、蓋を開けるところまではお手伝いしましたので、ズボンを下げるところだけ、お願いできないですか?」

「できない~」

「……」

 即答だった。

 これでは駄目だ。

 ならば――。

「では、今はズボンを下げますので、トイレが終わった時、自分であげることを約束してもらっても良いでしょうか?」

「いじわるするなって~。やって~」

「……」

 これも、拒否される。


 ――やっぱり、難しいのか。


 ある程度介助した上で、条件付きならば、やってもらえるのではないかと考えたのだが、厳しいようだった。

 やはり、一筋縄ではいかない。先は長そうだ。

「漏れる~。早くして~」

 なんて、考え事をしている間にも、古俣さんから声がかかる。

「……今回だけですよ」

 このまま失禁させるわけにもいかないので、渋々、古俣さんの希望通り、ズボンを下ろす。

「ありがとうね~」

 古俣さんは、一応、お礼を言いつつ、便器に座る。

 座ったと同時に、排尿の音が響いた。

 どうやら、本当に漏れる寸前だったらしい。

「終わったら、コールボタンを押してくださいね」

 駿介はそう言い残し、トイレを出る。


 ――困ったな。


 ドアの前でため息を吐く。

 田島からのアドバイスを受け、古俣さんが大声を出す度、あの手この手でいろいろ試しているものの、未だ、正解が見つからない。

 寄り添って、一緒に答えを見つける――と、口で言うのは簡単だが、それを実行するのは至難の業だ。

 正解があるのかないのか判然としない問題へ、時間無制限で挑み続けるという作業は、相当な覚悟が必要となる。

 古俣さんと心中する、くらいの気持ちでないと、できないかもしれない。


 ――……まあ、それはそれとして。


 ふと、顔を上げると、浩司の目がこちらを向いていた。

 分かっています、と心の中で答える。

 介護士の仕事は、古俣さんと心中することではない。

 他にも、御利用者は多くいる。

 やらなければならない業務も沢山あるのだ。


 古俣さんは、まだ若い。

 長い付き合いになるだろう。


 向き合う時間は、これから先も、多くあるはずだ。


 まず、やるべきことをきちんとやる。

 話はそれからだ。

「コージさん、次、なにをしましょうか?」

 フロアに戻り、浩司に声をかけると、



 ピンポーン!



 そのタイミングで、コールが鳴る。

 古俣さんだった。


「あー……とりあえず、古俣さんの相手、お願いします」


 浩司は、心底面倒くさそうな顔をしたが、放って置くわけにもいかないと思ったのだろう。

 古俣さんの対応を任せてくれた。


「分かりました!」


 駿介は元気よく返事をして、トイレへと戻ったのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ