見つめる先ー4
◆◇◆
「寒っ!」
休憩室のドアを開いた直後、流れて来た空気に驚く。
凍えるような、凄まじい冷気が襲いかかって来た。
「冷房の温度下げ過ぎじゃないか?」
駿介は休憩室に入ると、リモコンを手に取る。
設定温度は、二十度になっていた。
通りで、寒いわけだ。
「上げておこう」
リモコンを操作し、二十八度まで上げる。
冷房は、十時出勤の遅番か、二階で過ごしている和田管理者がつけておくことになっている。
きっと、早く冷えるようにと冷房温度を下げたまま、忘れてしまったのだろう。
「……」
座布団を敷き、一人、腰を下ろす。
――まだ、慣れないな。
ぐるりと休憩室を見回す。
六月末まで、『休憩時間』と言えば、先輩たちに分からないことや納得できないことを質問できる、貴重な時間だった。
先輩たちにとっては良い迷惑だったかもしれないが、駿介にしてみれば、自身を高める良い機会にもなっていた。
七月に入り、戦力として数えられるようになってからは、指導担当だった浩司とも勤務時間がずれ、会わないことも増えた。
結果として、休憩時間もばらばらになり、一人で休憩を過ごすことも増えていた。
それはきっと当たり前の変化で、誇らしく思う部分もあるのだが……なんとなく、『慣れない』と感じてしまう。
――とりあえず、食べるか。
慣れないからと言って、ぼんやりしていても仕方がない。
駿介は昼食を取ることにする。
がさがさとビニール袋を漁り、菓子パンを手に取る。
続いて、お気に入りのスポーツドリンクに口を付ける。
疲れた体に染みわたる。
美味かった。
と。
「お願いします~~~~」
遥か遠くから、そんな声が聞こえて来た。
「……古俣さんか」
紛れもなく、古俣さんの声だった。
無音で過ごしていたため、ここまで声が届いたようだった。
一階から、ドアを閉めている休憩室まで響いてくるとは、なかなかの声量である。
「~~~~~~~~!」
「~~~~~~~~!」
続けて、なにを言っているのかは分からなかったが、職員の声も耳に届く。
なにやら、古俣さんと言い争っているような雰囲気だった。
――なんとかならないのかな?
菓子パンを口に放り込み、思案する。
古俣さんの『アレ』は、認知症の症状と、本人の性格が合わさったものだ。
繰り返し同じことを言ったり、何をすれば良いのか分からなくなったり……というのは認知症の症状で、できることを人にやらせようとしたり、甘えた態度を取ったり……というのは性格によるものだ。
毎度、手を焼かせられる、『困った状態』だ。
とはいえ、
――……緊急案件、ではないからな。
滝野さんの脱走、木澤さんの入浴拒否、西坂さんの暴力行為。
そういったものと比べると、数段、可愛く見える。
大きな声を張り上げ「お願いします」と言っていても、直接的な被害はない。
椎川さんが「困った人だ」と言っていたように、周囲にいる人間にとって『うるさい』状態であっても、それ以上の事案は発生しない。
強いて言えば、古俣さんの対応に追われて、他のことができなくなるという、『職員の時間が潰れる』くらいだ。
駿介からしてみれば、それはむしろ望むところであり、御利用者のためならば、いくらでも時間を割いて良いとすら思う。
言ってしまえば『その程度』なのだが……
「お願いします~~~~」
また、声が届いてくる。
「……ちょっとな」
周囲への被害がないから、良いのか?
職員が多少苦労するだけだから、良いのか?
それは、違う。
古俣さんは、自分でできることがまだ多くある。
それを甘えて、誰かに任せるということは、その分、体を動かす機会が失われているということだ。
お年寄りは、一度筋力が低下すると、戻すことは困難を極める。
若者と違い、筋肉が付きにくく、骨も脆い。
体を動かす機会を減らせば、その分、どんどん体が動かなくなる。
御本人のためにも、『甘え』を許してばかりもいられない。
やれることはやってもらう、というのは介護の基本中の基本である。
ただ――。
問題になるのが、『本人の意思』だ。
古俣さんは、意図的に『手伝ってほしい』と希望している。
それを、無理やり本人にやらせるのは果たして、どうなのだろうか?
虐待――ではないと思う。
ないとは思うが、本人が希望していることを捻じ曲げるだけの理由が、こちらにあるだろうか?
駿介が、虐待事例だと思った木澤さんの時とも、状況が違う。
木澤さんの入浴拒否は、不衛生によるリスクが大きかった。
本人が嫌だと言っていても、入浴していただくだけの理由があった。なにより、木澤さん本人が、『入浴そのものを嫌っている』という状態ではなかった。
御利用者の笑顔のため、『ありがとう』という言葉を引き出すために、必要なことだったと理由をつけることができる。
古俣さんの場合はどうだろうか。
本当に、できることはしていただくだけの理由があるだろうか。
もし、古俣さん本人が心から『もう動けなくなっても良い』と思っているのなら、こちらの理想を押し付けることは可能なのだろうか――
「お疲れ様です~」
思考を巡らせていると、休憩室のドアが開いた。
誰が来たのかと顔をあげると、田島の顔が見える。
四十過ぎとは思えぬ、透き通るような白い肌に、肩口で結んであるおさげスタイルの髪の毛。
浩司と勤務が分かれた代わりに、最近は、田島と勤務が重なる機会が多くなっていた。




