見つめる先ー3
「古俣さん、トイレが終わったらまた来ますので、ボタンを押してくださいね」
浩司はそう言い残し、トイレから出る。
ボタン――コールボタンのことである。
各トイレ、各居室に設置されているもので、所謂『ナースコール』と同種のものだ。
ボタンが押されると大きな音が鳴り、フロアの壁に設置されている電子版に、番号が表示される。
職員はその番号に従い、トイレや居室に出向くというわけだ。
古俣さんは、足腰が弱っているだけで、手、指、腕に関しては何も問題はない。
自分でお尻を拭くこともできるし、やろうと思えば、ズボンの上げ下げも一人でできる。
なにかできないことがあった時、コールで呼んでいただくようお願いしておけば、あとは職員が助けることなどない――
ピンポーン!
――ない、はずなのだが、浩司がトイレを出て五秒後にはコールが鳴る。
「……」
浩司は回れ右をして、トイレへ戻る。
ガラガラと力任せにドアを開ける。
「なんですか?」
「はい~」
「どうしましたか?」
「出ない~」
古俣さんは、自分の股間を指さす。
「……」
どうやら、尿が出ないことを報告するためだけにボタンを押したらしい。
「そうですか。では、もう少し座っていてください」
浩司はそれだけ言って、トイレのドアを閉めようとするが、
「待って~。出して~」
そんな声が耳に届く。
続けて、
「どうやってするんだ~? 出ないよ~」
と、古俣さんは言う。
排尿の方法まで教えないといけないのだろうか。
ここまでくると、本当はトイレに行きたいわけではないのに、『かまって欲しいから』声をかけてきたのではないか、と疑ってしまう。
「……」
いい加減、うんざりしてきた。
「古俣さん」
「はい~」
「古俣さんが、トイレに行きたいと言うからここまでお連れしたのですが、出ないのですか?」
「分からね~。出ない~」
「……出ないのですね?」
「出ない~」
浩司の言葉に、古俣さんは「出ない」と繰り返す。
浩司は呆れつつも、『排尿の方法』が分からなくなったと仮定してみる。
「では、出そうな感じはありますか?」
排尿の方法が分からなかったとしても、トイレに行きたいと言ったからには、『出そうな感覚』はあるということだ。
もし、本当に出そうな感覚があるが、排尿の方法が分からないのであれば、それなりの対応も考えるのだが――
「分からね~。出ない~」
古俣さんはためらいなく、そう答えた。
――じゃあ、なんでトイレに行きたいと言ったんだよ!
そんな言葉が浮かんでくるが、やはり、腹の内にとどめておく。
浩司は大袈裟にため息を吐き、「じゃあ、トイレにいる必要はないので戻りますか?」と尋ねる。
すると、
「戻る~」
古俣さんは、自分から立ち上がり、ズボンを上げてみせる。
そして、そのまま歩き出し、真っ直ぐフロアへと進んでいく。
浩司の手伝いなど必要とせず、すいすいとウォーカーを押していった。
「……」
古俣さんの後ろ姿を見送り、トイレのドアを閉める。
――なんだったんだ、この時間は。
頭が痛くなってくる。
介護士は、御利用者の生活を支えるために存在する職業だが、王様に仕える従者ではない。
年長者であり、あくまで他人であるという関係性から、御利用者への言動、コミュニケーションに関して、厳しく指導される。
しかし、『人間関係』であることに変わりはない。
古俣さんの、ある種『わがまま』に付き合っていたこの時間で、他にできることがあるのだ。
本当にトイレへ行きたくて、手伝いが必要なのであれば、介護士としてきちんと対応したいと思うけれど、これでは、時間の無駄としか言いようがない。
滝野さんのように、外へ出るほどの元気はないし、木澤さんや西坂さんのように、激しい拒否があるわけでもない。
それは良いことではあるのだが……。
「お願いします~!」
また、フロアに古俣さんの声が響く。
浩司が「なんですか?」と聞くと、また、
「トイレ~」
と始まる。
認知症の症状で、直前の言動を忘れてしまったり、分からなくなったり、そういうこともあるだろう。
それは、重々承知している。
それでも、
――めんどくせーな、おい。
そう思わずにはいられない。
テーブル席の端っこで、やり取りを聞いていたらしい椎川さんも、
「困った人だねえ」
と呟いていた。
全くもって、その通り。
少しは椎川さんを見習ってほしいものである。
結局、夏祭りの話し合いがほとんど進まなかったのは、言うまでもないことである。




