滝野さんー7
◆
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「はい! なんでしょう?」
午後になっても、駿介の奮闘は続いていた。
またも、滝野さんに捕まる。
フロアの右下部分、フロアと廊下の境目で駿介は呼び止められた。
「……」
浩司は耳だけ傾けるが、視線は送らない。
川瀬主任に言われた通り、今回はぎりぎりまで手を出さず、見守るだけにする。
テーブル席に座ったまま動かず、記録物に視線を落とす。
滝野さんの希望はこうだった。
「旦那が待っているので、家に帰りたいのですが、どうにかなりませんか?」
言うまでもなく、滝野さんの旦那さんは亡くなっており、昼食後のこの時間、家には誰もいないだろう。ご家族も仕事に出ているはずだ。
ちなみに、本日、滝野さんは泊まり利用であるため、家に帰ることはできない。
果たして、駿介は切り抜けられるか。
「滝野さん、旦那さんは今、お仕事に行っているので、家に帰っても誰もいませんよ」
「あら、そうなの? 誰からそんなことを聞いたのかしら?」
「先ほど、電話がありまして。急なお仕事みたいですよ」
「え、ここに電話が来たんですか?」
「そうです」
駿介は堂々とした口調で言い切る。
悪くない対応だ。
これまでの失敗から、どうすれば良いのか必死に考えたのだろう。
浩司が少しアドバイスした部分もあるが、それを知識として飲み込むだけでなく、実践できているのも評価できる。
「そうですか……」
対する滝野さんは、困ったような声音でそう呟く。
数秒後、
「でも、今日は野菜を買い出しに行かないといけないし、ご飯も作らないと……。やっぱり、家まで送ってもらえますか?」
旦那の話はどこへ行ったのか。
全く別の方向から、攻勢に出てきた。
見ていなくても、駿介が面食らうのが分かった。
対応できるか。
「だ、大丈夫ですよ。今日は、ご家族の方が買い物もするし、ごはんも作ると仰っていましたから。先ほど、電話で旦那さんもそう仰ってましたよ」
「そうなの? でも、やっぱり家のことは私がやらないと……」
「本当に、大丈夫だと思いますよ。たまには若い人に任せて――
今日は、ここで泊まって行ってください」
「……え?」
一呼吸分、また、時間が止まる。
そして。
「私、今日、泊まりなんですか!?」
駿介に負けるとも劣らない、滝野さんの大きな声が、フロアに響き渡った。
浩司は視線を落としたまま、「そうなるよ」と独り言ちる。
駿介は頑張った。
詰まりながらも切り返せていたし、辻褄も合っていた。
アドリブを利かせて、ぎりぎり、踏みとどまっていた。
ミスはただ一つ。
『泊まり』の一言だ。
滝野さんに限らず、この言葉は、使い方を間違えると大変なことになる。
何故、泊まらなければならないのか、きちんと理解できる人ならば問題はない。しかし、特定の御利用者は、認知症の影響で、説明されても理解できなかったり、理解できたとしても、すぐに忘れてしまったりする。
ご本人にとっては、訳も分からぬまま無理やり泊まらされている状態となるのだ。
誰だって、帰る家があるのに、理由も分からないまま『泊まれ』と言われたら怒るだろう。
そういう御利用者にとって、『泊まり』という単語は禁句に近い。あの手この手でなんとか対応しているのが現状だ。
不用意に使うと、一瞬で怒らせてしまうことになる。
「あなた、自分が何を言っているのか分かってるんですか!」
滝野さんは駿介に詰め寄り、人差し指を喉元に突き立てる。
下から上へ、刺すような視線を送っていた。
「私はね、家に帰りたいだけです。それだけですよ! なにかおかしなことを言っていますか?」
「い、いえ……」
「もう我慢なりません。私はもうここには来ませんよ。旦那にも報告させてもらいますからね!」
物凄い剣幕だった。
激怒、とはまさにこのことだろう。
フロア中の視線が集中する。
のんびりテレビを眺めていた御利用者は振り向き、畳場で寝ていた御利用者も、何事かと起き上がった。
相当にマズイ状況と言って良かった。
「……」
浩司は思案する。
どうするか。
これまでは、ここで割って入っていた。
他の御利用者への影響も懸念される。
放っておいて、大事になっても困る。
やはり、この辺で仲介に入るべきだろうか――。
「今すぐ、帰らせてもらいますからね!」
考えている間にも自体は進行する。
滝野さんは駿介を押しのけ、そのまま廊下を歩いて行こうとする。
廊下を突っ切れば、もうそこは玄関だ。
玄関の出入り口は自動ドアだが、こういう時の対策として、ボタンは靴箱の裏に隠してある。
いくら足腰がしっかりしている滝野さんでも、力だけで自動ドアは開けられないだろう。玄関前で立ち往生するしかない。
無理に止めに行く必要はない……ない、が、しかしである。
慌てる必要がないというだけで、安全とは言い難い。
玄関はタイル張りだ。もし、なにかの拍子に転倒し、頭でも打ったら大怪我に繋がりかねない。
なるべくなら、行かせたくはない場所だった。
「滝野さん!」
駿介は名前を呼び、引き留めようとするが、滝野さんは聞く耳を持たない。
名前を呼ばれても反応せず、無視して玄関へ歩いて行こうとする。
「――っ」
駿介が助けを求めるように、こちらへ視線を送って来た。
どうしたらいいか、分からなくなっているのだろう。
――声をかけてくれればいいのに……。
浩司は、歯噛みする。
そんな視線を送って来るくらいなら、「助けてください」と呼んでもらえた方が、余程、楽だった。
駿介の手には余る状態になっている。
どうにもできないと思っているなら、助けを呼べばいい。
その判断すら、まだおぼつかないのだろうか。
助けるべきか、否か。
浩司は何度も何度も検討し、想像し、思考して。
「…………」
沈黙を選んだ。




