見つめる先ー2
お願いしますと声を発したのは、浩司たちとは別のテーブル席に座っていたおばあちゃんである。
古俣イツ子さん、七十六歳。
真っ黒に染めた髪の毛に、つやつやの肌。しわも少なく、健康的に見える顔つきだ。
こうして遠目で見る分には、『御利用者』という感じはしない。
ふれあい西家の御利用者の中では、一番若い人物だ。
「どうされましたか?」
浩司はその場を動かず、声だけで返事をする。
「トイレ~」
古俣さんは単語だけを発し、なにをして欲しいのか、はっきりと口にしなかった。
浩司はやはりその場を動かず、言葉だけを返す。
「トイレが、どうしましたか?」
「行かせて~」
「自分で行ってください」
「行かんね~よ~」
「できないところはきちんとお手伝いしますから、まず、ご自分でやってみてください」
「一人じゃ歩けないよ~」
「歩けますよ」
「転ぶ~」
「転びません」
と、同じようなやり取りを、さらに数度繰り返す。
決して、意地悪をしているわけではない。
古俣さんは、ウォーカーを使えば、自分で立ち、歩くことができるのだ。
銀色のウォーカーは、車輪が四つ付いており、フレームも頑強な造りになっている。しっかりとつかまっていれば、そう簡単には転ばないよう、設計されている。
古俣さんが座るすぐ横に置いてあり、十分、手の届く位置にある。
それにつかまり、立ち上がれば良いだけなのだ。
「お願いします~」
「だから、なにをお手伝いすれば良いのですか?」
「トイレ~」
しかし、古俣さんは一向に立ち上がろうとしない。
喋るばかりで手も足も全く動く気配がない。
「……」
浩司はいい加減、声をかけ続けるのも面倒になり、席を立つ。
古俣さんの近くまで行き、改めて、「立ってください」とお願いする。
すると――
「立てた~」
古俣さんは、今までのやり取りが嘘のように、すんなりと立ち上がった。
もちろん、浩司は手を貸していない。
変わったことと言えば、浩司が近づいただけだ。
浩司はそのまま「着いて行きますから、進んでください」とお願いする。
立ち上がったのだから、あとは歩いてトイレまで行けば良いだけである。
ところが。
「どこに行けばいいの~?」
今度はそんなことを言う。
「トイレじゃないんですか?」
「トイレ~」
「ではそのまま真っ直ぐ歩いてください」
「こっち?」
「真っ直ぐです!」
「教えて~」
古俣さんは立ち上がった姿勢のまま、動かない。
浩司の顔を見上げて、「教えて~」と繰り返す。
「こっちです」
浩司は呆れ半分で、ウォーカーを軽く押し、方向を示す。
一歩目を踏み出すと、古俣さんは「こっち?」とそのまま歩き出す。
ふらつく様子もなく、しっかりとした足取りである。
三歩、四歩と歩き――
「どこ~」
また、足が止まる。
不安そうに、きょろきょろと浩司の姿を探す。
「そのまま、真っ直ぐ、歩いてください」
すぐ後ろから浩司は重ねて指示を出すが、
「教えて~」
このやり取りが繰り返される。
そして、トイレのドアまで来ると、
「あけて~」
と言ってドアを開けさせて。
便器の前まで来ると、
「ズボン下げて~」
と言う。
全て、自分でできることである。
「自分でできることは自分でしてください」
と何度も声をかけるが、「できない」「転ぶ」と言ってやろうとせず、結局、浩司がやる羽目になる。
しかも、そうして、ようやく便座に腰を下ろしたかと思うと、
「いや~、難儀だった~。早くしてくれたっていいろ~?」
と、まるで『浩司が早くしなかったから大変だった』と言わんばかりの態度を取る。
「……」
浩司は、その言葉を無視する。
『だったら、自分でやればいいじゃないか』
そんな言葉が浮かんでいたが、言っても仕方がない。
古俣さんは、ずっとこうなのだ。
一人でできることがまだ多くあるのに、やろうとしないのだ。
確かに、ウォーカーを使用しなければならない程度には足腰が弱っているし、認知症も持っている。
けれども、椎川さんのように全く立てないわけでもなければ、滝野さんほど認知症が進んでいるわけでもない。
性格の問題なのだ。




