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結―ユウー  作者: 初雪奏葉
第三章:見つめる先
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見つめる先ー2

 お願いしますと声を発したのは、浩司たちとは別のテーブル席に座っていたおばあちゃんである。

 古俣イツ子さん、七十六歳。

 真っ黒に染めた髪の毛に、つやつやの肌。しわも少なく、健康的に見える顔つきだ。

 こうして遠目で見る分には、『御利用者』という感じはしない。

 ふれあい西家の御利用者の中では、一番若い人物だ。

「どうされましたか?」

 浩司はその場を動かず、声だけで返事をする。

「トイレ~」

 古俣さんは単語だけを発し、なにをして欲しいのか、はっきりと口にしなかった。

 浩司はやはりその場を動かず、言葉だけを返す。

「トイレが、どうしましたか?」

「行かせて~」

「自分で行ってください」

「行かんね~よ~」

「できないところはきちんとお手伝いしますから、まず、ご自分でやってみてください」

「一人じゃ歩けないよ~」

「歩けますよ」

「転ぶ~」

「転びません」

 と、同じようなやり取りを、さらに数度繰り返す。

 決して、意地悪をしているわけではない。


 古俣さんは、ウォーカーを使えば、自分で立ち、歩くことができるのだ。


 銀色のウォーカーは、車輪が四つ付いており、フレームも頑強な造りになっている。しっかりとつかまっていれば、そう簡単には転ばないよう、設計されている。

 古俣さんが座るすぐ横に置いてあり、十分、手の届く位置にある。

 それにつかまり、立ち上がれば良いだけなのだ。

「お願いします~」

「だから、なにをお手伝いすれば良いのですか?」

「トイレ~」

 しかし、古俣さんは一向に立ち上がろうとしない。

 喋るばかりで手も足も全く動く気配がない。

「……」

 浩司はいい加減、声をかけ続けるのも面倒になり、席を立つ。

 古俣さんの近くまで行き、改めて、「立ってください」とお願いする。

 すると――


「立てた~」


 古俣さんは、今までのやり取りが嘘のように、すんなりと立ち上がった。

 もちろん、浩司は手を貸していない。

 変わったことと言えば、浩司が近づいただけだ。

 浩司はそのまま「着いて行きますから、進んでください」とお願いする。

 立ち上がったのだから、あとは歩いてトイレまで行けば良いだけである。

 ところが。


「どこに行けばいいの~?」


 今度はそんなことを言う。

「トイレじゃないんですか?」

「トイレ~」

「ではそのまま真っ直ぐ歩いてください」

「こっち?」

「真っ直ぐです!」

「教えて~」

 古俣さんは立ち上がった姿勢のまま、動かない。

 浩司の顔を見上げて、「教えて~」と繰り返す。

「こっちです」

 浩司は呆れ半分で、ウォーカーを軽く押し、方向を示す。

 一歩目を踏み出すと、古俣さんは「こっち?」とそのまま歩き出す。

 ふらつく様子もなく、しっかりとした足取りである。

 三歩、四歩と歩き――


「どこ~」


 また、足が止まる。

 不安そうに、きょろきょろと浩司の姿を探す。

「そのまま、真っ直ぐ、歩いてください」

 すぐ後ろから浩司は重ねて指示を出すが、


「教えて~」


 このやり取りが繰り返される。

 そして、トイレのドアまで来ると、

「あけて~」

 と言ってドアを開けさせて。

 便器の前まで来ると、

「ズボン下げて~」

 と言う。


 全て、自分でできることである。


「自分でできることは自分でしてください」

 と何度も声をかけるが、「できない」「転ぶ」と言ってやろうとせず、結局、浩司がやる羽目になる。

 しかも、そうして、ようやく便座に腰を下ろしたかと思うと、

「いや~、難儀だった~。早くしてくれたっていいろ~?」

 と、まるで『浩司が早くしなかったから大変だった』と言わんばかりの態度を取る。

「……」

 浩司は、その言葉を無視する。

 『だったら、自分でやればいいじゃないか』

 そんな言葉が浮かんでいたが、言っても仕方がない。


 古俣さんは、ずっとこうなのだ。


 一人でできることがまだ多くあるのに、やろうとしないのだ。

 確かに、ウォーカーを使用しなければならない程度には足腰が弱っているし、認知症も持っている。

 けれども、椎川さんのように全く立てないわけでもなければ、滝野さんほど認知症が進んでいるわけでもない。


 性格の問題なのだ。

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