滝野さんー6
◆
「はああ~~~~~」
昼休みである。
母親が作ってくれた弁当を平らげ、人生最大級のため息を吐いた。
ふれあい西家の二階には、職員専用の休憩室がある。
十畳程の畳部屋で、中央にはコタツ、壁にはテレビがある。
電子レンジやポットなどもあり、数人で休憩する分には困らない広さ、設備がある。
「でかいため息だな。どうした?」
「あ、すみません」
浩司は口を押さえ、謝罪する。
浩司の正面、上座側に座っているのは、川瀬純一介護主任だ。
ふれあい西家の現場職員を取りまとめている人物で、浩司や駿介にとっては、直属の上司に当たる。
ガタイの良い駿介よりもさらに大柄で、熊のような体格だ。黒縁眼鏡と、天然パーマの短髪が特徴的で、御利用者に説明する時は「もしゃもしゃ頭のおじさん」と表現することが多い。
現場職員の大黒柱である。
「護人君のことか?」
「……分かりますか?」
疑問形で返すと、間髪入れずに分かるよと返事がくる。
午前中、彼の希望通り、コミュニケーションを取っていてもらったのだが、正直、進歩したとは言いづらかった。
やる気満々の駿介に立ちはだかったのは、やはり、滝野さんだった。
先日と同様、滝野さんは、「旦那はどこにいますか?」と尋ね、駿介は、「お仕事に行っているみたいですよ」と返答していた。
正当例の一つと言って良い。ここまでは良かった。
問題はその後だ。
滝野さんに、
「どうしてあなたがそんなことを知っているのですか?」
と問われ、駿介はまた、固まってしまった。
詰まりながらもなんとか「旦那さんからそう聞いていますので」と答えたが、「いつ聞いたのですか? 旦那がここに来たのですか?」と突っ込まれ、撃沈した。
お仕事へ行っている、と答えたなら、「詳しくは私たちも分からないのですが」と前置きを入れた上で、「急な用事らしく、ついさっき電話がありました」とでも言えば良い。ついでに「電話が来た時に、滝野さんに代われば良かったですね」と付け加えれば満点だ。
まだ二週間だ。
いきなり全てを理解しろ、などと言うつもりはない。
けれど、駿介の不器用さを見ていると、ムズムズとしたストレスばかりが溜まっていく。
「――という感じで、ちょっと困っていまして」
事の経緯を説明すると、川瀬主任は顎に手を当て「なるほどな」と一緒に考えてくれる。
「護人君の成長があまり見えてこない、か……。それでコージは、どこまで教えるべきか悩んでいるってところか?」
「そうです。『正しい答え方』を教えるだけなら誰でもできますし、簡単なのですが……」
「それじゃあ成長に繋がらないもんな」
「はい」
全力で頷く。
教える側になって初めて考えた難しさだった。
介護現場では、臨機応変に対応しなければならない場面が非常に多い。
何故か。
同じ病気であっても個人差があるからだ。
認知症は最たる例だ。
滝野さんに通用するコミュニケーション技術が、他の方にも通用するとは限らない。
回答例を教えて、滝野さんとのコミュニケーションを切り抜けられたとしても、次に繋がらない。自分で考え、正解を導き出す力がないと、同じことの繰り返しになるのだ。
そう考え、浩司は『滝野さんに対する正しいコミュニケーション技術』を駿介に教えていなかった。
「そうだな……」
川瀬主任は手元にあったオレンジジュースに口をつける。
紙パックに入った可愛らしいデザインのものだった。
子供さんのものが余ったのだろうか。
「ん、ごちそうさま」
主任はじゅるじゅるじゅるとそれを一息で飲み干し。
「放っておけば良いんじゃないか?」
そう言った。
「え?」
思わず驚きの声をあげると、川瀬主任は「別におかしなことじゃないぞ」と続ける。
「成長を促したいなら、どんどん経験を積ませた方が良い。新人だからとか、まだ早いとか、そんなことを言って何もさせないなら、じゃあ、いつなら良いんだってと思わないか? そんなのは、新人から、『経験する機会』を奪っているだけだよ」
言われて、想像する。
今でこそ教える側になっているが、浩司だって、就職当時からなんでも上手くできたわけではない。何度も何度も挑戦して、いろんな御利用者と関わって、ようやく、今がある。
もしも、その積み重ねがなかったとしたらどうだっただろうか。
きっと、何も知らないまま、なんの度胸もつかないまま、今に至っていたはずだ。
紙パックを器用に折りたたみながら、川瀬主任は言う。
「見守ることは必要だよ。明らかに間違っていることなら、厳しく指導するべきだ。事業所の信頼を損なうようなことをされても困るしな。でも、手を出し過ぎても良くない。成長できるタイミングを奪ってしまう。……その辺を見極められるかどうかが、指導する側の腕の見せ所だ。ま、難しいけどな」
はは、と川瀬主任は笑う。
言い終えるのと同時に、紙パックをたたみ終えていた。
――見極め、か。
浩司は天井を仰ぐ。
浩司が就職した際に、指導担当としてついてくれたのは川瀬主任だった。
今になって、恵まれていたと感じる。
川瀬主任は介護士としても二十年近く経験を積んでいる大ベテランだ。介護技術だけでなく、人に教える技術も秀でている。
指導者としても、文句の付け所がない人だ。
そういう人の下で経験を重ねられたからこそ、浩司は自信を持って仕事に取り組めている。
一方、浩司はどうだろうか。
介護士としてもまだ五年目で、その上、今年度で辞めるつもりでいる。
任された時から思っていたが、やはり、自分なんかよりも、川瀬主任や他の先輩方が適任ではないだろうか。
指導される側である駿介にとっても、良いことなど何一つない。
「ま、俺らもいるし、一人で抱え込まずにな」
「はい。ありがとうございます」
川瀬主任の笑顔に励まされる。
こういう気遣いができるところも、川瀬主任の強みであり、さすがと思わされる部分だ。
浩司はとりあえず、もうちょっと放っておいてみよう、と心に決め、休憩を切り上げた。




