時間ー3
浩司は、泡だらけになった鍋をざーっと水で洗い流し、答える。
「いや? 大丈夫じゃないぞ?」
泡を流し終え、鍋を水切り場へ。
次はフライパンだ。
「え、大丈夫じゃないんですか?」
「まあな。きちんと時間を守る人と、なんでもマイペースにやる人と、どっちがありがたいかと言われたら、前者だしな」
「だったら――」
と、駿介が食いついてきたタイミングで、浩司はガン、とフライパンをシンクに置く。
びくっと肩を揺らした駿介へ、浩司は言う。
「そのうち、分かるよ」
そうして、強制的に会話を終わらせた。
浩司はフライパンについた油を擦り、思う。
――説明が難しいんだよな。
先ほど、田島が送迎業務から事業所へ戻って来なかったことも、今、時間がない中で、のんびり作業をしていることも、全て、田島の性格に起因している。
駿介に言われるまでもなく、これはよろしくない。
川瀬主任や和田管理者から、注意されている姿を何度も見たことがある。
特に、送迎業務に関しては、事業所内でのトラブルにとどまらない。御利用者や家族に、直接迷惑をかけてしまうことになるのだ。
それでも田島は、『許されている』。
和田管理者や川瀬主任が注意する時は、『目に余る時だけ』で、必要以上には注意しないし、なんなら、迷惑を被っているはずのご家族からですら、「ああ、田島さんね。いいですよ」と笑って許してもらえることが多いのだ。
その理由は、理屈よりも感情の部分が大きい。
言葉で説明するのは困難なのだ。
「終わったかな?」
「みたいですね。出しましょうか」
それから数分後、亀みたいな速度で作業を行っていた田島が、ようやく手を止める。
それを見計らって、浩司はお盆を手に取る。
「ほら、駿介も、出すぞ」
「あ、はい!」
田島の動きを眺めていた駿介にも一声かけ、御利用者のもとへ、昼食を運ぶ。
お盆の上には、それぞれの名前を記したネームプレートが置かれている。
間違えないよう、一人一人、名前と顔を確認しながら提供する。
食事、と一言で言っても、多種多様である。
御利用者の中には、病気によって、カロリー制限がかかっていたり、アレルギーや、服用している薬の影響で、食べられないものがあったりと、それぞれ内容が違う。
どれでもいいからテキトーに出す、というわけにはいかないのだ。
そして――食事の時間は、介護職にとって、重要な任務がある。
「コージさん、食介、誰がつきますか?」
食介――食事介助である。
小規模事業所において、食事介助が必要な御利用者はほとんどいない。
小規模事業所は、自宅で過ごせる御利用者を受け入れる場所であり、それ故に、『ある程度のことは一人でできる人』が多いからだ。
しかし、完全にいないか、と言えばそうでもない。
「桐谷さんの食介は、田島さん、お願いします」
リーダーである冴香が、田島へ指示を出す。
声をかけられた田島は「分かりました」と頷き、すぐに対応へ向かう。
車イスに座った、おばあちゃんである。
桐谷スミさん、御年九十四歳。
介護を受ける上で、指標となる『要介護度』は、最も高い五に相当する。
「桐谷さん、お昼ごはんですよ」
「……」
田島が優しく声をかけ、エプロンをつけるが、桐谷さんからは反応がない。
桐谷さんは、『寝たきり』の状態に近い。
食事を摂取することも、トイレへ行くこともできない。
声をかけても反応は得られず、いつもどこを見ているのか分からない、うつろな目をしている。
時おり、なにかを訴えるように手を動かしたり、口を動かしたりすることはあるものの、それ以外、明確な意思表情は存在しない。
田島が持っていったお盆の中身も、他の御利用者へ出すものとは異なる。
ミキサー食、と呼ばれるものだ。
ごはん、おかず、汁物、全てがミキサーにかけられており、見た目からは、それがなにか、想像することすら難しい。
モノを飲み込む機能や、モノを噛む力が弱まっていることが原因である。
「桐谷さん、お味噌汁ですよ」
田島がスプーンで茶色の液体をすくい、口の中へ入れる。
「……」
桐谷さんはもごもごと口を動かし、三十秒ほどかけて、ごくりと飲み込む。
田島は「美味しいですか?」と声かけを続けるが、桐谷さんの表情は一切変わらない。
モノを食べているという感覚があるのかないのか、それすらも分からない。
生物としての本能がそうさせているのか、ただ、口の中へ入れられたモノを、機械的に飲み込んでいるように見える。
「桐谷さん、これはお肉ですよ」
スプーンですくい、口の中へ。
もごもご、ごくん。
「これはごはんです」
白い物体を口の中へ。
「お茶もどうぞ」
田島は根気よく話しかけ、少しずつ、お皿の中身を減らしていく。
桐谷さんは、終始、無言、無表情だ。
食事介助の、日常風景だった。
「先、休憩入ってきますね」
そんな二人を横目に、冴香が声をかけて来る。
食事の時間は、食介一名と、その後の配薬、歯磨き誘導など、業務は多くあるが、三人もいれば対応できる。
それに、食事介助は通常、三十分から一時間もあれば終了する。
人数がそろっている時は、リーダーから優先して休憩に入るのが通例となっている。
「はいよー。お疲れです」
「お疲れ様です!」
冴香が二階の休憩室へ行ったことを確認し、
「駿介、薬準備して」
「はい!」
浩司と駿介、師弟コンビでフロアを回す。
三ヶ月の指導期間を経て、『本来の形』で動けるようになってきた。
決して、余裕があるわけではないけれど、それでも、人手が増えるのは単純にありがたかった。
浩司にとっては、少し気が楽になり、駿介にとっても、少し誇らしい気分になれていた。
その一方で。
「桐谷さん、これは野菜ですよ~」
田島はマイペースに食介を続けていた。
あー、これはまた時間がかかるだろうなー、なんて、浩司は予想して――。
その予想通り、田島の食介が終わったのは、一時間半が経過してからだった。




