プロローグ
真っ白の紙を見つめる。
さらりとした手触りが心地良い。
さぞ滑らかに文字を書けることだろう。
一般的な『紙』とは別質の、高級感溢れる純白の『紙』である。
なにを書こうか、どんなことを書こうか、思案を重ね――
「面倒くさい……」
浩司はそれを放り投げた。
ばさっと音を立てて舞ったそれは、足元近くに落ちて来る。
「んー……っ!」
紙の行く末を見届けてから、ぐーっと背筋を逸らす。
体重を預けられた愛用の椅子が、ぎしぎしと鳴った。
「どうするかな」
机に向かって三十分以上。
進展がなかった。
投げ捨てた紙に視線をやり、独り言ちる。
「安易だったかなー……?」
フローリングの床に落ちた紙には、『履歴書』の文字がある。
大学を卒業し、介護士として働き始めてから五年。
給料の低さと仕事の忙しさに嫌気が差し、転職を決意したものの、なかなか転職先が決まらなかった。
――こんなに、決まらないものなのか。
介護士に就職した際、浩司はたった一度の面接しか受けていない。
それで、就職できたからだ。
介護業界は、慢性的な人手不足だ。余程、妙なことを口走らなければ、誰であろうと就職できるだろう。
国家資格である『介護福祉士』を持っているとなれば、なおさらだ。
そんな業界に、長くいたからか。
浩司は、甘く見ていた。
書類選考の時点で数回、面接の段階で数回、既に『お祈りメール』を受け取っている。
原因はいくつかあるのだろうが、転職先を絞っていることが大きい。
給料が低い、仕事が大変だ、という理由で転職するからには、条件の良い会社へ入りたいと思っている。
しかし、そういう会社は、特別な資格が必要で、介護福祉士しか持っていない時点ではじかれてしまう。
ごくまれに、資格が必要ない会社もあるのだが、そういった会社は競争率が高い。
端的に言って、受かる気がしなかった。
「……」
見慣れた天井に視線を移し、思考する。
今、自分が働いている場所は、それほど条件が悪いだろうか?
給料は毎月、きちんと出ているし、賞与もある。
人間関係だって悪くはない。
介護という仕事自体が嫌いなわけではないし、ある程度、周囲からも信頼されていると感じる。
仕事内容に見合った給料か? と、問われれば、首を傾げざるを得ないけれど、今、生活できなくなっているわけではない。
大変な思いをして、転職する必要があるだろうか。
――……いや、まだ早い。
投げ捨てた紙を拾い上げる。
これから先、誰かと結婚して、家を建てて、子供を育てて……なんてことになった時、どう考えても、今の給料では低すぎる。
大学時代、友人たちは、何十、何百と試験を受けて、希望する就職先を射止めていた。
ほんの数回、失敗したくらいでなにを弱気になっているのか。
自分自身で転職すると決めて、上司にも許可を取っているのだ。
やるだけやってみて、本当に駄目だったのなら、考え直せば良い。
「よし」
冷房の温度を一度下げ、熱くなった頭を冷やす。
まだ、七月に入ったばかりだ。
これから募集をかける会社も、多くあるだろう。
こんなところで足踏みしている暇はない。
――なんとかなる!
パンと頬を叩き、気合いを入れる。
気合いでなんとかしよう……なんて、自分の柄じゃないことは百も承知だが、つい先日、『熱量』によって、事態が動く場面を見せつけられたばかりだ。
どうしても、意識してしまう。
「あ、そう言えば……」
そう言えば、明日から、その後輩君――護人駿介――は『独り立ち』の予定だったな、なんて想いを馳せて。
浩司は、負けていられない、とボールペンを握り締めた。
……結局、この日書いた履歴書も、書類選考で落とされたのは、言うまでもない。




