目標ー2
「あ、お疲れ様です」
と、屋上のドアが開いた。
ドアの向こうから、大柄な男が現れる。
「お疲れ様です。休憩か?」
「はい。川瀬主任に、入ってこいと言われたので」
大柄の男――駿介は、浩司と同じく、片手にマグカップを握っていた。
彼は飲み物の好き嫌いがほとんどないらしく、大抵、お茶かコーヒーのどちらかを飲んでいる。
時おり、スポーツドリンクを持参していることもあるようだが、今日はそうではないらしい。
「西坂さん、行きましたよ」
彼は浩司の隣にやって来ると、ポツリと呟く。
滝野さん脱走事件の発端を作ったとも言える、『ドアを開ける男』こと、西坂源一さんは、本日、他施設へ移動することになっていた。
浩司が休憩に入っている間に、ふれあい西家から旅立ったらしかった。
「……挨拶、しなくて良かったんですか?」
「いつものことだからな。特別、関わりの深い方でもなかったし」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
浩司は、大して関心を示さず、ぶっきらぼうに答える。
冷たいと思われるかもしれないが、本当に『そういうもの』だ。
ふれあい西家に限らず、高齢者施設は回転が早い。
浩司が就職した時からいる御利用者は、既に十名以下にまで減っている。
他施設へ移動となった方だけでなく、体調を崩して入院し、そのままお別れになった方なんかもいる。
その度に、いちいち気にしていたら、精神的に持たないのだ。
特に、西坂さんは職員にとって負担の大きい御利用者だった。
本音を言えば、早い段階で他施設へ移動となり、良かったとすら思う。
これが例えば、五年、六年と付き合いが長く、職員にとってもありがたい御利用者だったならば、話が変わって来るのだろうが……それは、その時になってみないと分からない。
「……」
ちらりと横に視線を向けると、どこか、寂し気な表情をする駿介と目が合う。
――……コイツは、そうだよな。
どこまでも、御利用者の立場で考える駿介は、あの西坂さんですら、大切に思っていたのだろう。
なにもできなかったという悔しさからなのか、それとも、単に寂しいだけか。
明らかに元気がなかった。
その様子を見て、浩司は問いかける。
「なあ、駿介」
「はい?」
「どうして、介護士になったんだ?」
ずっと、気になっていたことだった。
就職し、仕事に就いたその日から、駿介は熱意に溢れ、どんな時でも『御利用者本位』の姿勢を崩さなかった。
学校で教わっただけにしては、あまりにも想いが強すぎる。
なにか、理由がある気がした。
「あれ? 話していませんでしたか?」
「聞いてないな」
浩司が答えると、駿介は言った。
「憧れの人がいるんですよ」
その口調に、ためらいはなかった。
「数年前、祖母が体を悪くした時に、一生懸命尽くしてくださった方がいたんです」
「介護士さん、なのか?」
「はい。どんな時も笑顔で、本当に、カッコイイ人でした。何度も助けられましたし、祖母も、あの人が来ると、いつも楽しそうでした」
だから、と駿介は続ける。
その視線は、空へと向かう。
「だから自分も、誰かを助ける仕事に就きたいと思ったんです。……困っている人や、病気で苦しんでいる人がいたら、そばにいてあげたい。僅かな支えにしかならないかもしれないけど、それでも、味方でいたい――」
「――あの人のように、誰かの笑顔を、守りたいんです」
駿介は、きらきらと目を輝かせて、言い切った。
浩司は「そうか」とだけ答えて、コーヒーに口をつけた。
――憧れ、か。……それは強いな。
きっと、駿介の祖母を支えたという介護士さんは、とても立派な方だったのだろう。
少なくとも、浩司のように『給料が低いから』と介護士を辞めようとしている人間よりは、気高く、カッコイイに違いない。
理想的な介護士さんを実物で見ているからこそ、駿介の気持ちも、余計に大きいのだ。
――……荷が重い、な。
改めて、思う。
介護士を夢見て、理想的であろうとする駿介を、たった数年、介護をかじっただけの人間が指導して良いのだろうか。
駿介のような人間こそ、川瀬主任が指導すべきではないのだろうか。
今回の脱走事件も防ぐことができなかったし、やはり今からでも、指導担当を変わってもらった方が――
「あー、でも」
「ん?」
と、駿介が言葉を付け足す。
相変わらず、視線は空へと向けたまま、こんなことを言う。
「今は、基本的なことをきちんと学びたいです。今、あの人と同じことをやろうとしても、絶対にできないと思うので」
「……そうか」
「はい」
しっかりと頷く彼を見て、浩司は思う。
――まあ、もう少しくらいなら、いいか。
我ながら、単純である。
「じゃあ、俺は先に戻るぞ」
「分かりました」
駿介に一声かけて、屋上をあとにする。
「意外と暑かったな……」
七月も間近である。
日向ぼっこをするには、気温が高かった。
肌から汗が噴き出している。
「よし、行くか」
でも、悪い気はしなかった。
浩司は汗を拭い、階段を駆け下りる。
「休憩、ありがとうございました!」
そして、大きな声を出して、仕事を再開した。
《第一部・完》




