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結―ユウー  作者: 初雪奏葉
第一章:滝野さん
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滝野さんー4

「……」

 はっきり言って良いのなら、「頭がおかしいのはあなたの方だ」となる。

 認知症は脳の病気だ。比喩でもなんでもなく、事実として、『頭の機能』が低下している。

 それを理解しているから言い返さないし、気にしても仕方ないと受け止めることができるが、だからとて、苛々しないと言えば嘘になる。

 なんなら、「ふざけるな!」とぶっ飛ばしてやりたいくらいである。

 でも。


「先ほどの男性職員には、よく言っておきます。申し訳ございませんでした」


 低姿勢のまま、浩司は謝罪を繰り返す。

 こういう時、言われたことを真に受けて、考えたり悩んだりしていたら、介護職員は務まらない。

 何も考えていない、と言った方が正しい。

 心を空っぽにして、流してしまうのだ。


 この四年間で身に付けた、対応技術の一つだった。


 そうして、浩司が平謝りの姿勢を貫いていると、

「もう一度、同じことがあったら許しませんからね!」

 言いたいことを言いきったのか。

 滝野さんは最後にそう言うと顔を背け、それ以上、もう話すことはないというような態度を取る。

「分かりました。心にとめておきます」

 浩司はそう返して、滝野さんの希望通り、その場を去る。

 駿介と対応を変わってから、滝野さんの口から『旦那』という単語は、一度も出てこなかった。

 ほんの数秒、数十秒前のことですら忘れてしまい、ただ『不快だ』という気持ちだけが残る――認知症の典型的な症状だった。

「ええと」

 フロア内を見回し、駿介の姿を探す。

 いつの間にか、姿が見えなくなっていた。

「お、いたいた」

 気を遣ったのか、彼は滝野さんの視界に入らないよう、フロア右奥、お風呂場がある辺りから、こちらの様子をうかがっていた。

 浩司はおいでおいでと手招きする。

「すみませんでした」

 駿介は見るからに落ち込んでいた。

 表情は暗く、猫背になっている。

 駿介の周りだけ、じめじめとした気持ちの悪い空気が漂っているように見える。

 不思議に思う。

 この一週間、ミスしている場面には何度も遭遇してきたが、こんな落ち込み方をしているのは始めてだった。いつもなら、「すみませんでした!!」と大きな声で謝ってくるところだ。

 浩司はテーブル席から少し距離を取り、御利用者に会話が聞こえない位置へ移動する。

「どうした? 今日が初めてのミスじゃないだろ?」

 なるべく優しい声音で聞いてみると、

「利用者さんを、怒らせてしまったので……」

 と返答される。

 合点がいく。

 これまでのミスは、電話での言葉遣いがおかしいとか、オムツ交換のやり方がおかしいとか、直接、御利用者を怒らせるようなものはなかった。

 御利用者の助けになりたいと夢見ている駿介にとって、その相手に逆に怒られるというのは、精神的にくるものがあったのかもしれない。

 浩司は「気にするな」と言い切る。

「どうしてですか?」

「どうしてもなにも……利用者の方は、すぐ、忘れるから」

 最後の一言は、声を潜めた。

 浩司は滝野さんの方へ視線を向ける。

 未だ、機嫌が悪いのか、ふてくされたような顔をしていた。

「少し時間を置いて、滝野さんに話しかけてみると分かるよ。さっきのことなんてすっかり忘れて、普通に接してくれるから」

「……そういうものですか?」

「そういうものだよ。むしろ、そうやって割り切らないと、仕事にならない」

 認知症対応で求められるのは、根気と、『馬鹿になること』だ。

 怒っている当人が、怒っている内容を忘れているのに、無意味に傷ついたり一つ一つの言葉を重く捉えたりする必要はない。

 もちろん、本当に自分が悪いのであれば、相手が誰であれきちんと謝罪するべきである。相手が忘れるからといって、何事もなかったかのように振る舞うのはおかしな話だ。

 そこは、誤解してはならない。

 ただ、今回のように、ちょっと声かけの仕方が良くなかった程度のことで、あれこれ気にしても仕方ないのだ。

 むしろ、それよりも怖いのは、一度や二度の失敗で苦手意識を持ってしまい、御利用者と関わらなくなることだ。

 御利用者とコミュニケーションを取らない介護職員など、仕事をしていないのと変わらない。

「護人さん、今回の声かけ、どこが良くなかったか分かる?」

 視線を駿介へと戻す。

 柔らかい口調で言ったつもりだったが、駿介にとっては責められているように聞こえたのか。

 肩を落としたまま、さらに目線が下がってしまう。

 浩司の「気にするな」という言葉にも、しっくりきていないようだった。

「分かっています」

 彼は絞り出すような声で、そう答えた。

「ん、なら次、期待してるよ」

 浩司は「頑張れ」の意味も込めて、駿介の肩に手を置き、軽く力を込める。

「はい」

 それでも、駿介の表情は晴れなかった。


 ――ちょっと、考え過ぎ、かな……。


 今日の様子を見て、彼の言う『お年寄りを助けたい』という気持ちが、信頼に足るものであることは理解できた。

 理解できたが、それだけだ。

 なにが、彼をそうさせているのかも分からない。

 教える立場として、反省はして欲しいし、守るべきことは守ってもらわなければ困る。指導はするし、時には厳しく言わなければならないこともあるだろう。

 けれど、介護は『深く考え過ぎる』と、潰れてしまうことも多くある職種だ。

 落ち込む駿介を見て、浩司も細くため息をつく。


 ――大丈夫、だよな……?


 介護に夢を抱いている後輩へ、今後、どう指導していくべきか。

 浩司にとっても、悩みの種が一つ、増えた。

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