滝野さんⅡー1
認知症には、『見当識障害』という症状がある。
認知症を持つ方が行方不明になるのは、『見当識障害』が影響している。
簡単に言えば、時間や場所が分からなくなる症状で、自分がどこにいるのか、今が何時頃なのかが理解できなくなるのだ。
介護施設や病院などで、所謂『帰宅願望』への警戒度が非常に高いのはそのためだ。
本人が『家に帰りたい』と言っているからといって、帰れるとは限らない。下手をすれば、人里離れた、山や森に突き進んでいく可能性すらあるのだ。
施設の外へ出るということは、生命の危機に直結する。
土砂降りの雨が降っているとなれば、なおさらである。
「状況は!?」
浩司は全速力で階段を駆け下り、フロアに急行する。
フロア左奥のキッチンには、和田管理者や大原を含め、入浴担当の職員や、訪問業務で外へ出ていた職員もそろっていた。
――駿介と……硯さん、か。
職員の顔色を窺うと、明らかに様子が違う人間が二人いた。
駿介は見るからに、挙動不審だった。
落ち着きなく窓の外へ視線を向けたり、頭を引っ掻いたりと、すぐにでも探しに行きたいと行動だけで示していた。
冴香は――。
顔が青ざめていた。
いつも場の空気を和ませ、明るく振る舞う彼女が、はっきりと分かるほど憔悴しきっていた。
この二人がミスをしたであろうことは、容易に想像できた。
「硯さん、状況は?」
冴香に状況説明を求める。
浩司は休憩前、冴香にフロアの管理を任せた。
なにをしてしまったのかは分からないが、落ち込んでいるだけでは何も変わらない。酷かもしれないが、状況説明だけはきちんとしてもらわないと困る。
「彩峰さん……」
「なにがあった?」
「えと、すみません。私が……」
歯切れが悪い。
気持ちは、痛いほど分かる。
滝野さんがいなくなった――つまり、事業所外へ出て行ってしまったのだろう。
大雨が降っていることを考慮すれば、事故に巻き込まれる可能性や、転倒のリスクも跳ね上がる。
とんでもないことをしてしまったと反省しているのだろう。
それは分かるが、今は――
「注目!!」
パン、と和田管理者が手を叩く。
職員全員の視線が一瞬で集められた。
「反省も後悔も、あとにしなさい。いいわね」
ピシャリと、和田管理者は言った。
有無を言わさぬ口調だった。
「他の職員も、責任追及はやめること。誰がフロアを見ていたとか、誰が滝野さんの行動を見逃したとか、そんなことは考えないでください。どうでもいいことです」
和田管理者は、職員へ鋭い視線を送る。
今、すべきことを職員に意識づけていく。
「滝野さんの捜索は、わたしが指揮を執ります。川瀬主任は事業所に残って、他の御利用者への対応をしつつ、職員との連絡役を担ってください。これ以上事故が起きないよう、細心の注意を払ってください」
「分かりました」
「大原さんは、滝野さんのご家族に連絡してください。すぐに見つからなければ、警察への連絡も必要になると思います。その点もお伝えしてください」
「はい」
「他の現場職員は――」
次々と指示が飛ばされる。
一人一人の目を見て、言い聞かせるように和田管理者は言葉を紡いでいった。
この状況下においても、和田管理者はぶれなかった。
――凄い……!
人の命がかかっている場面で、正確に状況を把握し、冷静な判断を下す力は、育てようと思って育てられる力ではない。
常日頃から、『もしかして』と備えているのだろう。
和田管理者が、管理者たる所以だった。
「――以上! 全員、行動開始!」
そうして、和田管理者が指示を出し終える頃には、全員の意識は統一されていた。
『滝野さんを探し出す』。
浩司は、事業所から駆け出した。




