ドアを開ける男ー10
◆◇◆
「あっ」
ボールペンが手から滑り落ちる。
カシャンと小さな音が鳴った。
――面倒くさい……。
地に落ちたそれを、浩司はじっと見つめる。
誰か自分の代わりに拾ってくれないかな、なんて思う。
「……」
当然、拾ってくれる人など現れるわけもなく。
「……はあ」
結局、自分で拾うことになる。
三日前、駿介と言い争いをしてから、どうにも調子が悪かった。
モチベーションが上がらない、と言い換えても良い。
ため息と愚痴ばかりが口をつく。
心の半分以上が灰色に染められ、その色が一向に変わらない。
それこそ、ボールペンを拾うというなんでもないことですら、面倒だと感じてしまうほど、嫌気がさしていた。
「西坂さん! そろそろご飯になりますよ!」
駿介は普段通り、元気いっぱいだった。
浩司とは対照的に、明るい声を張り上げている。
「西坂さん! そろそろ見回りは終わりにしませんか?」
あの日から、駿介は西坂さんに付きっ切りになっている。
よくもまあと思うほど、声のかけ方を変えたり、接し方そのものを見直したり、根気よく付き合っている。
重度の認知症である西坂さんからも顔を覚えられたようで、その精神力には感心する。
――でも、今して欲しいことはそれじゃないんだよな。
浩司はボールペンを拾い、駿介へぼんやりと視線を送る。
時刻はお昼時。
忙しくなる時間だ。
昼食作りや定時のトイレ誘導など、やらなければならない業務は多くある。
駿介はここ数日間、西坂さんばかりを気にかけ、他の業務が疎かになっていた。
――まーいいや。
駿介に抱いた不満をため息とともに吐き出す。
あの日、カンファレンスを行った結果、西坂さんが立ち上がった際は、必ず職員が一人、付き添うことが決定された。
そこには、声のかけ方や、接し方についても、実際に行いつつ検討していくことが含まれている。
個人的に言いたいことはあったが、駿介のしていることはカンファレンス通りで、間違いではない。
「主任、昼食作り、お願いしてもいいですか?」
「了解。もう作り始めていいか?」
「お願いします」
本来であれば、川瀬主任にフロアの管理を任せ、駿介にご飯を作ってもらいたいところだったが、わざわざ声をかけるのも面倒だった。
川瀬主任に昼食作りをお願いし、続いて冴香へと声をかける。
「先に休憩入ってきていいか?」
「いいですよ。フロアは私と護人さんで見ていますね」
「頼む」
話が早くて助かる。
本日、浩司はフロアリーダーだ。
その日の状況にもよるが、フロアリーダーは昼食前後に休憩をもらうことが多い。
今現在、川瀬主任が昼食を作り、西坂さんは駿介が、他の御利用者は冴香が対応できる状況が整っている。
浩司が抜けても問題なさそうだった。
「主任、先に休憩入りますね」
「はいよ。お疲れ」
川瀬主任にも一言、声をかけ、浩司は休憩室へと向かう。
重たい足を動かし、階段を上り切る。
と、
「うおっ」
思わず、声が出てしまう。
二階廊下の窓越しに、外の景色が見えた。
「凄い雨だな」
今日は、朝から天気が悪いとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
普段なら見通せる山々も、綺麗な田園風景も、何も見えなかった。
視界が悪くなるほどの土砂降りの雨が降っていた。
「帰るまでに止めば良いけど……」
願望を口に出してみたものの――空を眺める限り、望みは薄そうだった。
浩司は余計に沈んだ気分になりつつ、休憩室へ向かう。
――メシ食って、寝るか。
休憩室に入って十秒でそう決意する。
ストレスが溜まる一方なのだ。
起きていても、鬱々とした考えしか浮かばなそうだった。
十分ほどで昼食を食べあげ、浩司は座布団を丸める。
肉体的にも精神的にも、疲れていた。
「…………」
丸めた座布団に頭をついた五分後には、夢の国へと旅立っていた。
◆
……。
…………。
プー、プー、プー
どのくらい時間が経っただろうか。
「……ん?」
なにか、音が聞こえた。
休憩室に備え付けてある電話機からだった。
どこかから、内線がかかってきているようだ。
時計を見上げると、休憩時間終了まで、まだ時間がある。
「……なんだよ」
せっかく気持ち良く寝ていたというのに、台無しだった。
少し苛々しつつ、浩司は受話器を取る。
「はい、休憩室――」
〈コージさん!〉
びっくりした。
受話器を取った瞬間、耳元で大きな声が響いた。
鼓膜が破れるかと思った。
「うるさいな」
電話の向こうにいるのは駿介だ。
なんだか焦っているようだったが、フロアには川瀬主任もいるのだ。
浩司が出る幕などないだろう。
一応、「どうした?」と聞き返す。
すると――
〈滝野さんが、いなくなりました!!〉
そんな、耳を疑うような言葉が聞こえてきて。
浩司は、休憩室を飛び出した。




