ドアを開ける男ー6
「戻りました」
猛省していると、ほどなくして冴香が戻って来る。
普段通りの雰囲気が戻っているフロアを見て、彼女は安心したような表情を浮かべる。
「硯さん、大丈夫?」
駆け寄り、状態を問う。
気持ちの面だけでなく、殴打された胸部も心配だった。
殴打された直後、激しくむせ込んでいたし、かなり痛かったはずだ。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
彼女は即答する。
もう完璧に気持ちを切り替えているのか、いつもと変わらぬ笑顔だった。
「……本当か?」
「本当です!」
冴香は元気にそう言うが、浩司はなおも心配する。
彼女は、空気を読む力に長けている。
御利用者に対しても職員に対しても、常に人当たりが良く、ほとんど『辛い』という感情を見せない。愚痴を言うことはあっても、弱みを見せることはない。
何年も一緒に仕事をしているからこそ、冴香の「大丈夫」という言葉が信頼できないことを知っていた。
「……あの」
「ん?」
「女性の胸を、そんなに見つめないでもらっていいですか?」
冴香は恥ずかしそうに、胸を隠すような仕草を取った。
「あっ! 悪い!」
心配するあまり、冴香の胸部を見つめてしまっていた。
慌てて視線を逸らす。
そんなつもりはなかった。
「……なんか、いろいろ、ごめん」
なにをやっているのだと自戒しつつ、謝る。
見つめてしまったことだけではなく、後輩にいらぬ負担を強いてしまったことに関しても、改めて反省する。
気心の知れた相手とはいえ、同僚であり、仕事仲間だ。
家族や友達に接するのとは違う。
謝るべき時は謝る必要がある。
「申し訳――」
「気にしないでください!」
浩司は頭を下げようとしたが、冴香に遮られる。
「私も、殴られた時はイラッとしましたし、彩峰さんが怒らなかったら、絶対、私が怒ってましたよ。こっちだって人間なんですから、どんな理由であれ、殴られたら怒るのが当たり前ですよ」
冴香はきっぱりと言い切る。
「……」
じっと冴香の顔を見つめるが、表情は変わらない。
彼女が発した言葉が、先輩への気遣いから出た言葉なのか、それとも本心なのか、うかがい知れなかった。
――……やめよう。
大きく息を吐き出し、浩司は気持ちを切り替える。
こうやって考え込むのが、冴香に言わせれば『真面目過ぎる』のだろう。
後輩への心配や感謝は、あとからでもできる。
本人が大丈夫だと言っているのだから、それ以上気にしても仕方がない。
今、フロアの責任者は浩司だ。
職員が殴り飛ばされるという事案が発生したのだ。
緊急性は非常に高いと言って良い。
事後処理として、緊急カンファレンスを行い、対応を協議するべきだった。
「硯さん、主任呼んできて」
浩司は、いつもの調子で声をかける。
と、
「え? あ……はい。了解しました」
冴香は一瞬戸惑ってから頷いた。
笑顔は変わらなかったが、少し、肩の力が抜けたように見える。
やはり、気を遣わせていたようだった。
「主任、今、和田さんのところでしたっけ?」
「そうだと思う」
「分かりました」
川瀬主任は一時間ほど前から、和田管理者と応接室に籠っている。
現場のまとめ役である川瀬主任と、事業所全体を管理、運営する和田管理者は、よく二人きりで話し合っている。
――川瀬主任がいたら、こんなことにならなかったのかな。
なんとなく、そんな考えが浮かぶ。
川瀬主任がフロアにいれば、冴香が殴られる前になんとかできていただろう。
――いや、『だろう』じゃないな。
百パーセント、未然に防げていたと確信できる。
先の先まで見据えている川瀬主任は、浩司たちの知らないところでいくつも事故や事件を防いでいる。
五年目にしてようやく、それが分かるようになった。
――後輩に助けられているようじゃ、まだまだだな。
「……はあ」
冴香が二階に行ったタイミングで、もう一度、深呼吸をする。
いきなり川瀬主任のようになるのは難しくても、近づくことはできるはずだ。
反省して、前へ進めば良い。
今年度いっぱいで辞めると言っても、それまでは、自分も介護職員なのだ。
川瀬主任から学ぶべきことは多い。
「駿介、少しいいか」
「はい。カンファですか?」
「ああ」
駿介を呼び、すぐ近くに来た彼の顔を見上げる。
駿介の視線は、真っ直ぐ前を向いていた。
――駿介の『理想』って、なんなんだろうな……?
ふと。
そんなことを思う。
自分が川瀬主任を手本とするように、彼にとっての手本はいるのだろうか……?
なんて、考えたのもつかの間。
数秒後には川瀬主任たちが二階から駆け下りて来て、緊急カンファレンスが開始される。
抱いた疑問は、どこかへ飛んでいってしまった。




