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結―ユウー  作者: 初雪奏葉
第五章:ドアを開ける男
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ドアを開ける男ー6

「戻りました」


 猛省していると、ほどなくして冴香が戻って来る。

 普段通りの雰囲気が戻っているフロアを見て、彼女は安心したような表情を浮かべる。

「硯さん、大丈夫?」

 駆け寄り、状態を問う。

 気持ちの面だけでなく、殴打された胸部も心配だった。

 殴打された直後、激しくむせ込んでいたし、かなり痛かったはずだ。

「大丈夫です。ご心配をおかけしました」

 彼女は即答する。

 もう完璧に気持ちを切り替えているのか、いつもと変わらぬ笑顔だった。

「……本当か?」

「本当です!」

 冴香は元気にそう言うが、浩司はなおも心配する。

 彼女は、空気を読む力に長けている。

 御利用者に対しても職員に対しても、常に人当たりが良く、ほとんど『辛い』という感情を見せない。愚痴を言うことはあっても、弱みを見せることはない。

 何年も一緒に仕事をしているからこそ、冴香の「大丈夫」という言葉が信頼できないことを知っていた。


「……あの」


「ん?」

「女性の胸を、そんなに見つめないでもらっていいですか?」

 冴香は恥ずかしそうに、胸を隠すような仕草を取った。

「あっ! 悪い!」

 心配するあまり、冴香の胸部を見つめてしまっていた。

 慌てて視線を逸らす。

 そんなつもりはなかった。

「……なんか、いろいろ、ごめん」

 なにをやっているのだと自戒しつつ、謝る。

 見つめてしまったことだけではなく、後輩にいらぬ負担を強いてしまったことに関しても、改めて反省する。

 気心の知れた相手とはいえ、同僚であり、仕事仲間だ。

 家族や友達に接するのとは違う。

 謝るべき時は謝る必要がある。

「申し訳――」



「気にしないでください!」



 浩司は頭を下げようとしたが、冴香に遮られる。

「私も、殴られた時はイラッとしましたし、彩峰さんが怒らなかったら、絶対、私が怒ってましたよ。こっちだって人間なんですから、どんな理由であれ、殴られたら怒るのが当たり前ですよ」

 冴香はきっぱりと言い切る。

「……」

 じっと冴香の顔を見つめるが、表情は変わらない。

 彼女が発した言葉が、先輩への気遣いから出た言葉なのか、それとも本心なのか、うかがい知れなかった。


 ――……やめよう。


 大きく息を吐き出し、浩司は気持ちを切り替える。

 こうやって考え込むのが、冴香に言わせれば『真面目過ぎる』のだろう。

 後輩への心配や感謝は、あとからでもできる。

 本人が大丈夫だと言っているのだから、それ以上気にしても仕方がない。

 今、フロアの責任者は浩司だ。


 職員が殴り飛ばされるという事案が発生したのだ。


 緊急性は非常に高いと言って良い。

 事後処理として、緊急カンファレンスを行い、対応を協議するべきだった。

「硯さん、主任呼んできて」

 浩司は、いつもの調子で声をかける。

 と、


「え? あ……はい。了解しました」


 冴香は一瞬戸惑ってから頷いた。

 笑顔は変わらなかったが、少し、肩の力が抜けたように見える。

 やはり、気を遣わせていたようだった。

「主任、今、和田さんのところでしたっけ?」

「そうだと思う」

「分かりました」

 川瀬主任は一時間ほど前から、和田管理者と応接室に籠っている。

 現場のまとめ役である川瀬主任と、事業所全体を管理、運営する和田管理者は、よく二人きりで話し合っている。


 ――川瀬主任がいたら、こんなことにならなかったのかな。


 なんとなく、そんな考えが浮かぶ。

 川瀬主任がフロアにいれば、冴香が殴られる前になんとかできていただろう。


 ――いや、『だろう』じゃないな。


 百パーセント、未然に防げていたと確信できる。

 先の先まで見据えている川瀬主任は、浩司たちの知らないところでいくつも事故や事件を防いでいる。

 五年目にしてようやく、それが分かるようになった。


 ――後輩に助けられているようじゃ、まだまだだな。


「……はあ」

 冴香が二階に行ったタイミングで、もう一度、深呼吸をする。

 いきなり川瀬主任のようになるのは難しくても、近づくことはできるはずだ。

 反省して、前へ進めば良い。

 今年度いっぱいで辞めると言っても、それまでは、自分も介護職員なのだ。

 川瀬主任から学ぶべきことは多い。

「駿介、少しいいか」

「はい。カンファですか?」

「ああ」

 駿介を呼び、すぐ近くに来た彼の顔を見上げる。

 駿介の視線は、真っ直ぐ前を向いていた。


 ――駿介の『理想』って、なんなんだろうな……?


 ふと。

 そんなことを思う。

 自分が川瀬主任を手本とするように、彼にとっての手本はいるのだろうか……?


 なんて、考えたのもつかの間。


 数秒後には川瀬主任たちが二階から駆け下りて来て、緊急カンファレンスが開始される。

 抱いた疑問は、どこかへ飛んでいってしまった。

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