ドアを開ける男ー5
◆
感情を制御することは、プロの介護士に求められる重要なスキルの一つだ。
認知症を持つ御利用者は、自分の力で感情のコントロールができなくなる。
簡単に言えば、『理性がなくなる』のだ。
人によって度合いは様々で、認知症が進行しても、これまでと変わらず穏やかに過ごされる人もいる。逆に、『感情失禁』と言われるほど、自らの感情をコントロールできなくなる人もいる。
対し、介護士は、常に冷静であることを求められる。
感情のコントロールが効かなくなるといっても、常に『原因』が潜んでいる。一見、なんの理由もなく突然泣き出したり、怒り出したりしているように見えても、そこには、なにかしらの原因が潜んでいることがほとんどだ。
そういう時に大切なのが、介護士の姿勢だ。
そばで支える介護士が、冷静に状況を把握し、安心できるような笑顔で迎えてくれたら、どうだろうか。
少しは安心できるだろう。
つまり――
「……」
先ほど、浩司が西坂さんに怒鳴り返して以降、フロア全体が静まり返っていた。
西坂さんがドアを開けて回っていた時よりもシンとしており、テレビの音が妙に大きく聞こえる。
普段、穏やかで優しい職員が、御利用者に向かって怒鳴り散らしたのだ。場の空気がピンと張り詰め、緊張感でいっぱいになっていた。
――この空気、どうしよう……。
ストレスになるような環境は、誰にとってもマイナスにしかならない。当事者である西坂さんはともかく、他の御利用者に悪影響を及ぼしかねなかった。
どうにかしなければ、とは思うものの、怒鳴り散らしたのは浩司本人だ。
最も警戒されているだろう。
下手なことを言えば、さらに空気を悪くしてしまう。
「皆さん、そろそろおやつの時間になります!」
と、唐突に、馬鹿みたいな大声が響いた。
駿介だった。
「トイレへ行かれる方は先に行っておいてください! それから、手洗いの方もお願いします!」
彼の声は、よく響いた。
最初はポカンとしていた御利用者も、徐々に活動を開始する。
ある人はトイレへ、ある人は手洗い場へ。
駿介の明るい声につられて、活気が戻っていった。
――……助けられたな。
あとで、お礼を言おうと心に決める。
逆の立場だったとしても、浩司にはできないやり方だった。
大きな声を出すことは浩司にもできるが、場の空気をぶち壊すような、明るく、強い声は出せない。
普段なら「うるさい」と注意するところだが、こういう場面に限っては、強力な武器になる。
「……」
ほっと一息ついて。
――戻って来ないな……。
次に気になるのは、冴香だった。
冴香は今、トイレと言って席を外しているが、やけに長い。
少し落ち着く時間が欲しかったのだろう。
掴まれた肩に、まだ感触が残っている。
強く、がっしりと握られた。
相当な勇気が必要だったはずだ。
殴り飛ばされたと思ったら、今度は目の前で、年上の先輩職員が怒り始めたのだ。
困惑しただろうし、止めなければと必死だっただろう。
申し訳ないことをしたと反省する。
怒ったことに後悔はないが、もっと他の方法があったはずだ。
少なくとも、西坂さんと同じ土俵に立って、怒鳴り散らす必要はなかった。
頭に血が上ってしまい、冷静に判断できなかった。




