ドアを開ける男ー2
――くそ。面倒だな……。
浩司は胸の内で毒づく。
介護のジレンマと言っても良かった。
『繰り返し同じことをする』、『他の人の迷惑になっていても危険性はない』、『物品が壊される恐れも、誰かが傷つく可能性もない』――。
こういった場合、職員が対応するしかないのだ。
が、今の介護現場では、その職員が足りていない。
現在、冴香が付き添う形になっているが、その分、フロアが手薄になっている。
フロアには、浩司と駿介の二人きりだ。
もしここで、二人介助を必要とする車イスの御利用者が「横になりたい」と希望すると、
フロアを見ている職員がいなくなる。
冴香を呼び戻さざるを得ない。
結果として、西坂さんを放って置くしかなくなる。
駿介が「ずっと付き添っているわけにもいかない」と口にしたのは、そういう理由だ。
「あ。マズイ」
浩司は腰を浮かせる。
西坂さんが浴室脇のトイレへ向かっていた。
そこを開けられるのは、非常によろしくない。
「西坂さん、そこは今、人が入っていますので!」
冴香も気付いているらしく、すぐ止めに入るが、西坂さんは構わず手を伸ばそうとする。
そこは、つい先ほど木澤さんが入室したばかりのトイレだ。
自分が嫌なこととなれば、手が出るのは木澤さんも変わらない。
他の御利用者ならまだしも、木澤さんが入っているトイレを開けさせるわけにはいかない。
木澤さんと西坂さんがぶつかったらどうなるか……?
考えたくもなかった。
浩司は開けられる前にダッシュで駆け付け、西坂さんを制止する。
「西坂さん! そこはトイレですよ。さっき、女性の方が入ったばかりですので、今は開けないでください!」
「……」
強めの口調で注意するが、西坂さんに言葉はない。
ぎろりと細い目を向けてくる。
なんか文句あるのか若造――。そんな言葉が聞こえてきそうだった。
「西坂さん、私たち職員もきちんと見て回っていますので、心配しないでください!」
冴香も続けて声をかけるが、
「……」
無言。
西坂さんは冴香の方にもちらりと視線をやるが、それ以上の反応はない。
一瞬でドアの方へと視線を戻してしまう。
八十代とは思えぬ太い指に力を入れ、そのまま――
「ストップ!!」
開きかけたドアを、浩司は横から、強制的に閉じた。
バン、と大きな音が鳴ってしまったが、不可抗力だ。
用を足しているところを、見知らぬ男性に覗かれるなんて、男からしても強烈な不快感がある。女性なら尚更だろう。
認知症があるとか、そんな理由で許していたら、全てのことが『仕方ない』で済まされることになる。
浩司は西坂さんとドアの隙間に、体をねじ込み、ドアから指を引きはがす。
絶対に開けさせないぞ、と強い意思を示した。
しかし――
「なんのつもりだ!! どけっ!!」
西坂さんは怒り声をあげ、一歩も引かぬ姿勢を見せて来る。
予測できた反応ではあったが、迫力の方は予想以上だった。
西坂さんは、背筋が曲がってなお、浩司と同程度の身長がある。
憤怒の表情で睨みつけられ、怒鳴られると、想像していた以上の圧力がある。
端的に言って、怖い。
「どけません」
浩司は静かに答える。
怖い、が、そんなことで引き下がっていては、介護職員など務まらない。
浩司も強い視線で応じる。
眉に力を込め、真正面から向かい合う。
「西坂さん、もう一度言いますが、今、このトイレは女性の方が入っていますので、開けないでください」
言い聞かせるように、一つ一つ、言葉を区切ってはっきりと伝える。
職員が注意すると、「知らなかった」とか、「聞こえなかった」とか、年寄りであることを盾にして、テキトーなことを言い出す御利用者は多くいる。
そんな言い訳はさせない。
浩司は重ねて声をかける。
「西坂さんは、自分がトイレをしている時、他の人に覗かれたら、どうですか? 嫌じゃないですか?」
「……」
「ドアを開けるなとは言いませんが、ここは今、女性の方が入っているので――」
「うるさい!! そんなこと関係ねえだろ!!」
怒鳴り声がフロア全体に響き渡る。
女性とは違う、野太く低い声だ。
周囲を威圧するこういう声は、他の御利用者にも大きな影響を与えてしまう。できることなら口を塞いで強制連行したいが、そうするわけにもいかない。
浩司は根気よく、説明を続けた。




