介護という仕事ー10
「……」
ふと、視線をあげると、犬みたいな丸っこい目が見える。
「硯さんは、上手いよな」
「……?」
「上司とのやり取りとか、上手いよなーって」
「あー、そうですか?」
「そうだよ」
「褒めても何もでませんよ?」
冴香はクスリと笑ってみせる。
嫌味な感じはなかった。
褒められて嬉しいことを表現しつつ、親近感が沸くような回答だった。
こういうところが、上手い。
浩司だったら、先輩に褒められても、『そんなことないですよ』とか『まだまだですよ』という回答をしてしまうだろう。
「そう言えば、硯さんってあまり怒られないよな」
「彩峰さんにはよく怒られている気がしますけど?」
「それは、お前が悪ふざけをするからだろ。そういう話じゃない」
言いつつ。
冴香と過ごした日々を思い出してみるが、本当に、思い当たる節がなかった。
冴香も、ミスはしている。
注意した記憶もある。
なのに、本気で苛々した記憶がない。
「なんでだろうな?」
本人に尋ねてみると、
「さあ? どうしてでしょうね。私、ごちゃごちゃ考えるの苦手なので」
あっけらかんと、そんなことを言う。
「彩峰さんや護人さんは、考え過ぎなんじゃないですか? もう少し肩の力を抜きましょうよ」
「……なんか、前にも同じこと言われた気がするな」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ」
冴香はまた、クスリと笑う。
――考え過ぎ、か。
そうかもしれない。
前回ここへ来た時は、真面目だと言われた。
今回は、考え過ぎだという。
きっと、言葉が違うだけで同じことを言われているのだろう。
和田管理者は『正解を追い求める姿勢』と表現していたが、要は、頭でいろいろ考え過ぎなのだ。
浩司は、なにかが起こった時、
何故、起こってしまったのか?
防ぐためにはどうすれば良かったのか?
普段の行いはどうだったか?
他の御利用者や職員との連携はどうだったか?
別の理由は考えられないか?
その場合は――
と、様々な可能性を考え、情報を精査する。
それも長所の一つだ。悪いことでは決してないのだろうが、その点、冴香は切り替えが早い。
彼女は、先輩や上司に指導されたことはそのまま受け入れている。もしくは、疑問点があるならその場ではっきりと口にし、きちんと解決している。
中途半端に空気を読んで、自分の意見を言わなかったり、先輩の言うことに対して反抗心をむき出しにしたりしない。
自身が未熟であることを素直に受け入れ、その上で、問題点に向き合っている。
浩司や駿介とは明らかに違う、誠実な姿勢を持っている。
「護人さんに関しては、もう少し様子を見るしかないでしょうね」
「……そうだな」
カチャカチャとカップの中身をスプーンでかき混ぜる。
――一応は、謝ってきたことだしな。
川瀬主任が駿介にどんな話をしたのかは聞いていないが、もし、本当に反省しているのなら、今後の態度で分かるはずだ。
彼は、何事にも一生懸命で、それでいて不器用、かつ、ごちゃごちゃと頭で考えるタイプだ。……ということは、態度に出るはず。
今ここで、こちらが悩んでも仕方ない。
それこそ、考え過ぎる必要はないだろう。
「それより、明日から来るっていう新規の人の方が大変そうじゃないですか?」
冴香は声のトーンをあげて、話題を切り替える。
それに乗ることとする。
「体は元気で、認知症が進んでるって人だよな」
「正直、一番大変なタイプですよね……」
明日、ふれあい西家に新しい御利用者が来ることになっている。
ゴールデンウイーク中から利用を検討していた、新規契約の御利用者だ。
大原からの情報によると、その御利用者は男性で、認知症がかなり進行しているとのこと。身体的な介助ではなく、認知症のケアが主体となるらしい。
「家族も相当、手を焼いているって話しですよね」
「そうみたいだな。会ってみないことにはどんな人か分からないけど……」
冴香は既に、げんなりとした表情だった。
浩司も内心、同じ気持ちだった。
ゴールデンウイーク中から利用検討をしていながら、何故、ここまで契約がずれ込んだのか。
それは、『集団生活ができるのか?』。
この一点に絞られる。
小規模事業所は、人数こそ特養や老健と言った他施設より少ないが、集団生活の場であることに違いはない。
他の御利用者に迷惑となる行為を頻繁に繰り返すなど、対応が難しい場合は、契約拒否となる場合もある。
逆に言えば、契約したということは、『対応可能』と判断されたこということだ。
「ま、和田さんと大原さんが問題ないと言っているからには、大丈夫なんでしょうけど」
「会う前から心配してもしょうがないしな」
契約には、大原だけでなく、和田管理者の許可も必要となる。
ケアマネージャーだけでなく、現場での介護経験が長い和田管理者がオーケーしたということは、それほど心配いらないということだ。
情報だけを聞いて、不安だ、心配だと嘆いていても何も始まらない。
身構えるだけは身構えて、あとはどうにかなると思うしかない。
ご家族だけでは対応できないから介護施設を利用されるわけで、大変でない御利用者などほとんどいない。
新規契約の御利用者とは、毎度、ひと悶着あるものだ。
「じゃあ、そろそろ」
冴香がカップを置く。
中身が空になっていた。
「ああ」
応じて、浩司は立ち上がる。
カップには、茶色い液体が残ったままだ。
「飲まないんですか?」
「は? お前が言うか?」
「冗談ですよ」
二人は笑いながら、カフェを後にする。
外に出ると、雲の隙間から日が差し込んでいた。




