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結―ユウー  作者: 初雪奏葉
第四章:介護という仕事
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介護という仕事ー8

「ありがとう、ですか?」

 意味がよく理解できなかった。

「そうだ。護人君もここへ来て二ヶ月、何度も『ありがとう』と言われてきただろう?」

「はい。些細なことですが……」

 いくつかの場面が思い浮かぶ。

 食事を持っていった時、ティッシュを取った時、トイレのドアを開けた時、オムツを交換した時、入浴介助が終わった時……。

 どれも、介護士としては当然の場面だ。

 特別なことではない。


「それが、ゴールだと俺は思ってる」


「……?」

 疑問符を浮かべる駿介に、川瀬主任は「そもそもの話だが」と続ける。

「介護士というのは、護人君のように高い意識を持っている人間ばかりじゃない。君のように、『御利用者本位』を常に頭の中に置いている人間なんて少ないだろう。そんな状況で、介護士の『共通のゴール』なんてものを決められると思うか?」

 思わない。

 問われて、即座にそんな回答が浮かんだ。

 ふれあい西家にも転職して介護士になった人や、非正規雇用の職員は何人かいる。

 同じ学卒である浩司とすら意見が食い違っているのに、そんな人たちと同じ意識を持てるとは思えなかった。

「思わない、だろう?」

「はい」

「じゃあ、なにをゴールにすればいいかってことだけど。……それが、『ありがとう』だと俺は思ってる」

 もしゃもしゃの癖毛頭が、楽しそうに揺れた。

「どんなに些細な事柄であろうと、『ありがとう』と言われている以上、それは、感謝されているということだ。相手となる介護士が誰であろうと、そこに差異はない」

 川瀬主任は指折り、『ありがとう』の場面を数えていく。

「ご飯を作ってくれてありがとう、服を取ってくれてありがとう、靴を履かせてくれてありがとう、洗濯ものを畳んでくれてありがとう、テーブルを拭いてくれてありがとう、話し相手になってくれてありがとう、お風呂に入れてくれてありがとう――



 自分が通る場所を作ってくれて、ありがとう」



「――っ!」

 ハッとする。

「分かるか? 俺ら介護士は、医者のように病気を治す仕事ではないし、学校の先生のように未来を作る仕事でもない。俺らがどんなに頑張っても、どんなに手を尽くしても、御利用者は亡くなるんだ」

 話を戻すよ、と川瀬主任は言う。

 駿介は既に、目を合わせられなくなっていた。

「護人君はさっき、御利用者第一の姿勢が介護士にとって最も大切だと言ったよね? それならどうして、滝野さんが目の前を通る時、『ありがとう』と言われるような対応をしなかったのかな?」

「……」

「俺ら介護士の目標は、病気を治すことでも、長生きさせるためでもない。『ありがとう』という言葉を引き出して、快適に生活してもらうことだ。違うかな?」

「……いえ」

 返す言葉もない、とはまさにこのことだった。

 駿介は、常日頃から『御利用者本位』と口にしてきたが、無意識のうちに、真逆の行動を取ったのだ。

 御利用者本位とは、相手の立場に立って考えることだ。

 通れるスペースがあったから避けなくても良い、ではなく、『通れるスペースがあったとしても、気を遣って避ける』、が正解だ。その結果、転んだとしても転ばなかったとしても、関係ない。

 正解不正解の話ではなく、御利用者本位と言うからには、気を遣うべき場面だったのだ。

 それこそ、『ありがとう』と言われるためには――



「と、言われると、正しく聞こえるだろ?」



「え?」

 川瀬主任は相貌を崩し、ニカっと笑う。

 いつの間にか、川瀬主任から感じていた圧力が消えていた。

「今、話したことは、俺の考えだ。無理に従えってことじゃない」

「ですが……」

 戸惑いの視線を向ける。

 川瀬主任の言ったことは、駿介の胸の内へストンと落ちていた。

 反論の余地はなく、絶対的に、それが正しいと思えた。

「最初に言っただろ?」

「なにをですか?」



「全ての場合において、当てはまることだと思うか?」



「……ええと?」

 頭がごちゃごちゃになって来る。

 正しくないと言われたり、正しいのかと問われたり、俺の考えと言われたり、全ての場合と言われたり……。

 駿介の思考を置き去りに、川瀬主任はさらに話しを続ける。

「ありがとうと言われるなら、その全てが正しいのかって話しだよ。……例えば、物凄く面倒くさがりで、自分でなにかをすることを嫌がる御利用者がいたとして、その時、本人の希望に合わせて介護を行ったとする。もちろん、『ありがとう』と言われるだろうが、それは正しいと思うか?」

「あー……」

 正解は、ノーだ。

 介護の世界では、基本的に『できることはしてもらう』のが一般的だ。全て介護士側が行ってしまうと、筋力低下や、介護士への依存が始まり、結果的に死期を早めることになりかねない。


「同じように、木澤さんの件はどうだ?」


「え?」

「木澤さんがお風呂に入りたくないと言って、その通りにしたとして……。その瞬間は、『自分の意見を受け入れてもらえた』、『ここの職員は優しい』と思われるかもしれないが、それは本当に『ありがとう』と言われるようなことか?」

「……」

 考える。

 今までなら『御利用者本位』と言って、木澤さんの希望に沿う答えを求めていたけれど――。


 木澤さんが心の底からありがとうと言うとしたら、どんな場面だろうか。


 白髪のおばあちゃんを思い起こす。

 続いて、背筋がピンと伸びた滝野さんの顔が出て来る。

 滝野さんの話によれば、木澤さんはもともと、お風呂が好きだったという。

 過去の経験から、お風呂に入ると『体調を崩す』、『倒れるかもしれない』と拒否しているだけで、本当は、お風呂が好きなはずなのだ。

 そうであるならば――。

「多少無理やりでもお風呂に入って、さっぱりした時に、『ありがとう』という言葉が出る……?」

「そういうことだ」

 うむ、と川瀬主任は頷く。

「護人君、何度も言うようだが、君の言うことは間違ってはいない。が、根拠が弱い。学校で勉強したからとか、御利用者本位だからとか、そんなものは根拠と呼ばない。なにせ――



 介護士という仕事に、正解はないんだからな」



「はい。肝に銘じます」

 駿介は、深く、深く頷いた。

 ズシリと、重たいものが腹の奥に押し込まれた気がした。

 単に否定されたわけでもなく、正しい答えばかりを教えられたわけでもなかった。


 自分で答えを見つけていけ。


 そう言われているような気がした。

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