滝野さんー2
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ふれあい西家の間取りを大雑把に説明するなら、正方形と、ひっくり返した『L』がくっついているような形をしている。上空からは、数字の『9』に見えるらしい。
正方形部分が大広間――所謂、『フロア』と呼ばれる場所になっている。
フロアの左下部分には八畳程の畳スペースがあり、他の部分はフローリングとなっている。右側のフローリングスペースには長方形型のテーブルが二つ置いてある。
各々、畳でもテーブルでも、好きな場所で過ごせる設計となっている。
その、フローリング側、テーブル席にて。
「凄いな」
浩司は感嘆の息を漏らす。
書類整理をする傍ら、畳場へ視線を送っていた。
駿介は畳場で、御利用者の一人である、木澤えい子さんとコミュニケーションを取っていた。
木澤さんは真っ白な髪の毛をヘアピンで止め、駿介との会話に花を咲かせていた。
「お前さん、どこに住んでいるんだね?」
と、木澤さん。
駿介はテンポよく「市内ですよ」と答える。
木澤さんは続けて、いくつか質問を投げかける。
「ほー、そうか、じゃあここまで来るのに結構かかるでしょ?」
「車で三十分くらいですね」
「朝早い日なんか大変でしょ?」
「はい。今日も六時過ぎには起きましたね」
「ほー、そっかそっか。ご苦労様だね」
「いえいえ。仕事ですからね」
「あー、そりゃそうだね」
ははは、と笑い合って、会話が一段落する。
数秒後、木澤さんは首を傾げ、
「お前さん、どこに住んでるんだね?」
また、尋ねる。
駿介はやはり、「市内ですよ」と答える。
そしてやはり、木澤さんは続けて質問する。
「そうか、ここまで来るのに結構かかるでしょ?」
「ええ、三十分くらいですね」
「ほー、大変だね。じゃあ――」
以下略、である。
木澤さんは大のお話し好きで、とても気さくな方なのだが、重度の認知症を患っている。
同じ言葉、質問を繰り返すのはもちろんのこと、とにかく自分の聞きたいこと喋り続けるのだ。
「お前さん、どこに住んでるんだね?」
「市内です」
「ほー、毎日、ここまで来るのに結構かかるでしょ?」
「そうですね、三十分くらいはかかりますよ」
無限に繰り返されるこのやり取りは、プロの介護士であっても、相当なストレスとなる。
精神という柱をひたすら、やすりで削られていくかのような不快感があるのだ。
介護士五年目となる浩司も、特別な理由でもなければ、絶対にやろうと思わない。
だというのに――。
「お前さん、家はどこだね?」
「私は今、市内に住んでますよ」
「ほー、ここへ来るまで、何分くらいかかるのかね?」
「だいたい三十分くらいです」
いつまで経っても、駿介の言葉に不純物は入らない。
明朗快活に答え続けていた。
浩司はその姿を見て感心する。
お年寄りの助けになりたい、と口で言うのは簡単だ。
しかし、そうやって熱く夢を語っていた者の大半は、早々に介護業界から身を引き、全く別の職に就く。
そして、一様にこう言うのだ。
「こんなに大変だと思わなかった」、と。
自分自身も転職を考えている今、非難する気持ちは毛頭ないが、浩司にとって、「お年寄りの助けになりたい」と言う人間は、いまいち信用ならなかった。
だから、その言葉を発した彼に、難しいことを指示した。
介護の基本にして最も難易度が高く、プロの介護士ですら音を上げることもある、忍耐力の必要な技術――コミュニケーション。
これを見れば、少なくとも、今現在の駿介のやる気と、なにより、『覚悟』を測れると踏んだのだ。
――今のところは、満点をあげても良いくらいだけど。
浩司は自身の仕事を進めつつ、さらに注意深く彼を観察する。
「……お? 移動するのか?」
駿介は木澤さんに頭を下げてから、ゆっくりと立ち上がる。
どうやら、木澤さん以外の御利用者にも声をかけようという算段らしい。
駿介はきょろきょろと辺りを見回す。
現在、フロア内には十数人の御利用者がいる。
木澤さんと同じく、畳場に座っておられる方や、浩司の近くでテーブル席に座っておられる方、トイレへ立たれている方、職員の手伝いで洗濯物干しを行ってくださっている方……いろんな御利用者がいる。
「……」
駿介は畳場から離れ、フロア左奥のキッチン付近で、全体を見回す。暇を持て余している人はいないか、コミュニケーションを取るのに最適な人は誰か、吟味しているようだった。
そうこうしている内に、
「あの、すみません」
佇む駿介が暇そうに映ったのだろう。
逆に、御利用者から声をかけられていた。
駿介に声をかけた御利用者は、滝野セツさん、八十五歳。
背筋がピンと伸び、足取りもしっかりしている。真っ黒に染めた髪の毛と、真っ白な自前の歯が特徴的なおばあちゃんだ。
おそらく周囲からは七十代だと思われているだろう。
凛とした空気を身に纏っている。
「はい、どうされましたか?」
先ほどまでと同じように、駿介は変わらぬ笑顔を振りまき、そのまま「立ち話もなんですので」とテーブル席へ誘導してくる。
滝野さんは、歩行動作に心配はない――のだが、駿介は念には念を入れる。滝野さんが不快に思わないよう、指先だけで軽く手を握り、エスコートする。
さらに、テーブル席近くへ来ると、
「あら、すみませんね」
「いえいえ」
滝野さんが座りやすいよう、椅子を引き、配慮することも忘れない。
新人職員とは思えぬ丁寧な対応だった。
浩司は近くにやって来た二人の会話に耳を傾ける。
床に膝を付き、目線を合わせて「どうされましたか?」と駿介。
滝野さんはこう言った。
「うちの旦那の姿が見えないのですが、どこに行ったか知っていますか?」
浩司は、きたぞ、と思った。
思わず口角が上がってしまい、さりげなく口元を隠す。
介護職員にとって、難問とも言える問いかけだった。
なにせ、
滝野さんの旦那さんは、既に亡くなっている。
浩司も、この手の質問には随分手を焼かされたものだ。
これまで、駿介は新人職員とは思えぬ素晴らしい対応を見せて来た。ひょっとしたら、アドバイスを必要とせず、切り抜けるかもしれない。
浩司は期待した。




