虐待の定義ー11
◆◇◆
どんよりとした雨雲がかかっていた。
五月も下旬に差し掛かる。
五月晴れだったゴールデンウイークからは一転、梅雨の季節へと向かっていた。
「彩峰さん、どうぞ」
「ん、ありがとう」
冴香からカップを受け取る。
一口飲むと、ピリッとした苦みが喉を通っていった。
浩司の好きなブラックコーヒーだった。
今日は、間違えなかったらしい。
「いい加減、機嫌直したらどうですか?」
「は? 直ってるよ。悪そうに見えるか?」
「見えますね」
「……」
ばっさりと言いきられた。
浩司は渋々、「しょうがないだろ」と言う。
つい先刻、大原より、木澤さんの入浴対応についてお達しが届いた。
ゴールデンウイーク明けから、ご家族をまじえて、今後どうしていくのか協議を重ねていたのだ。
結論から言えば。
変わらず、だ。
入浴拒否の理由が分かったからといって、衛生面の問題が解決されたわけではない。
声かけの際、体調面に問題がないと伝えることや、滝野さん利用時には一緒に誘ってみるなど、微妙な対応の変化はあるにせよ、現場で行うことに大きな影響はなかった。
職員それぞれで、虐待か否か、判断に揺れた部分はある。
結局のところ、虐待か否かを決める、明確な基準がないのだ。
緊急性ありと判断されれば、本来、虐待行為とされることでも許される。が、その、『緊急性あり』と判断するのは人間だ。
病院では『緊急性あり』と判断され、手足を縛りつけられていた人が、介護施設に来た際、『緊急性なし』と判断される事例は多い。
それは、病院の判断が間違っているとかではなく、単に、スタッフの人数や、支援の内容、治療の方法の違いなどからくる場合が多い。
要は、『緊急性あり』と判断するのが人間である以上、その人間が属する組織や、意識の違いによって、大きく判断が分かれるのだ。
そういった事情もあり、今回のような虐待にあたるかどうか、非常に難しい事案の場合――
『ご家族に委ねる』のだ。
介護のプロとして、どんなリスクがあるのか、どんな利点があるのか、世間一般としてはどう見られるのか……。
そういったことを全て説明した上で、ご家族がどうしたいのか。
それを優先する。
今回に関しては、『それでもお風呂に入れて欲しい』だった。
だから、『変わらない』決定については、なんの不満もない。
ケアマネでもなければ主任でもなく、ましてや管理者でもない浩司が、口を挟む余地などどこにもない。
では、今、浩司を苛立たせているものはなにか?
「あれはないだろ」
吐き捨てるように言う。
「まあ、彼の気持ちも分からないではないですけど……」
「家族とケアマネが話し合って決めたことに対して、現場職員が首を突っ込むなんて、聞いたことないぞ?」
「言い方もまずかったですよね」
冴香と共に、カップを片手にキッチンへ移動し、こそこそと話し合う。
議題にあがっているのは、駿介である。
今回の一件は、駿介の『虐待じゃないですか?』という一言から始まっている。
虐待か否かの判断に関しては、浩司とて、自分の考えが全て正しいと思っているわけではない。
つい最近、福祉系の大学を出たばかりの駿介の意見ともなれば、自分が間違っているかもしれない、とすら思う。
では、駿介の意見が正しいとして。
『正しい』から、現場で通用するか?
という話である。
駿介は、大原が通達した木澤さんの入浴対応に関して、不満を口にした。
彼の言い分はこうである。
「家族がそう言ったからといって、木澤さんの気持ちを無視するんですか? 衛生面は気になるかもしれませんが、実際に、それが原因で体調不良になったり、食中毒が起こったりしたわけじゃないですよね。どうして無理やり入れなければならないんですか?」
駿介はこう詰め寄った。
当然、この意見は数分後に棄却された。
現時点でどうであろうと、リスクがある以上、回避措置を取るのは当たり前だ。
駿介には何度も話したことだが、もし、食中毒にでもなって、それが原因で亡くなったとしたら、責任を取れるのかということだ。
何故、受け入れてくれないのか。
「たぶん護人さんは、『可能性』の話をしたいんじゃなくて、目の前で、実際に嫌がっているのだから、それをどうにかしたいって思ってるんじゃないですか?」
冴香は自身のカップに口をつけ、そんなことを言う。
カップから話した唇に、緑色の泡がついていた。
抹茶ラテかなにかを飲んでいるらしい。
「でも、嫌がっているのは俺らだってちゃんと分かっているし、だからこそ、声かけの方法とか、いろいろ工夫を重ねているわけでしょ? 駿介の意見を蔑ろにしているってことじゃないぞ?」
「彼にとっては、そういう風に見えないってことじゃないですか?」
「あー…………そうなのか?」
「分かりませんけど」
冴香も不満に思うところはあるようで、憮然とした表情だ。普段は犬のような丸い目が、細められていた。
御利用者本位の考え方は理解できる。
家族やケアマネがなんと言おうと、本人が嫌がっているのだからやめるべきではないか、と。
そう言いたいのだろうが――
その考え方は、とても危うい。
御利用者本位は、御利用者の立場になって考えるという、介護の基本的な思考体系の一つだが、あくまで『御利用者本人のために』という前提がつく。
御利用者本位という考え方は、御利用者本人が言ったことをそのまま真に受けて、なんでも御利用者の言う通りにすることではない。
駿介は、浩司たち先輩職員が、きちんと考えている過程を無視し、結果だけを聞いて、それは違うと喚いているのだ。
「真剣なんでしょうけどね」
「まあ、それは分かるがな」
互いに怖い顔をしていることに気付いて、苦笑いする。
彼が介護に対して真剣に取り組んでいることは、この一ヶ月半で十分理解できた。
おそらく、本気で御利用者のことを考えているからこそ、納得し切れないのだ。
御利用者を最優先に考え、職員の誰よりも親身になり、介護に情熱を注いでいる。
その点は評価できるし、尊敬の念すら覚えるが……。
もし、このまま、その考え方を貫き通す気でいるのなら、近い将来、駿介は確実に――
ドン!!
「ん?」
「え?」
と、突然、大きな物音が響いた。
なにか、重たいものが床へ落ちたような、そんな音だった。
嫌な予感がした。
第六感、というやつだろうか。
訳も分からないまま、勝手に血の気が引いていくのを感じた。
「――っ!」
瞬時にフロア全体へと視線を向けるが、異常は見当たらない。
御利用者にも聞こえたようで、きょろきょろと周囲を見回している人もいる。
「すみません! 誰かお願いします!」
音がしたのと同じ方向から、叫び声が聞こえた。
駿介の声だった。
切羽詰まった、緊迫感のある声に聞こえる。
まさか……。
「風呂場の方か?」
「行きましょう」
嫌な予感を振り払うように、浩司は駆け足で向かう。
ちょうど、死角になる位置だった。
「どうした!?」
急いで向かった先で、待ち受けていたのは……。
「すみません!!」
叫ぶ駿介と。
「いたたた……」
床に倒れた滝野さんだった。




