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結―ユウー  作者: 初雪奏葉
第三章:虐待の定義
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虐待の定義ー10

 滝野さんは、木澤さんの真正面に正座し首を傾げる。

 立ち上がりかけた川瀬主任も、動きを止めた。

 滝野さんは不思議そうな表情で語りかける。


「昔、よく一緒に銭湯に行っていたじゃない。確か、お風呂好きだったわよね?」


 え? と職員は顔を見合わせた。

 木澤さんがお風呂好きだったなんて、聞いたことがない。

 完全に初耳だった。

 一方、問いかけられた木澤さんは、こんなことを言う。



「お前さん、覚えてないんかね? 一度、風呂に入っている間に倒れて救急車で運ばれたねっか」



 これもまた、え、と職員は顔を見合わせる。

 木澤さんが、入浴中に倒れて救急車で運ばれた……?

 本人どころか家族からも、そんな話は聞いたことがない。

 事実なのだろうか。

「もう何十年も前だけど、お前さんもいたでしょ? お風呂場で倒れて、ガツーンと頭を打って、運ばれたんだよ?」

「おばあちゃんが?」

「そうだて! 覚えてないの?」

「そうだったかしらね……?」

 うーんと滝野さんは眉を寄せるが、木澤さんの話は具体的で、とても嘘をついているようには見えない。

 そのまま話を聞いていると、木澤さんは病院の名前や、診断結果まで詳細に記憶しており、一つ一つ、丁寧に説明していた。

 これまで、何度尋ねてもはっきりしなかった『拒否理由』が、意外な形で表出した。

「コージさん、本当なんですか?」

「分からん」

 駿介から問いかけられるが、浩司も頭を捻るしかない。

 滝野さんという長年の友人から問いかけられたことで、忘れていた記憶が呼び戻されたのか、それとも単に、見ず知らずの人間には話したくなくて、隠していたのか……。

 それは分からない。


 ただ、辻褄は合うことは確かだ。


 木澤さんは、『何十年も前』と言っている。

 もしそれが、美智子さんを始め、ご家族が生まれる前の話だとすれば、誰も知らなくて不思議ではない。

 それに、それだけ昔の話となれば、当時、木澤さんを診察した医師も引退しているだろうし、病院のカルテに残っているかも怪しいところだ。

 なにより木澤さんは、毎回のように、体調不良を理由に拒否している。

 それはひょっとしたら、『入浴中に倒れた』という経験から、『自分の体調が良い時でなければ入りたくない』、という意思の表れだったのかもしれない。

 何十年も前、若い時ですら倒れてしまったのだとすれば――。

 その時より、確実に体調が悪い今、同じことを繰り返さないよう警戒し、お風呂を嫌がるのは当たり前のことのような気がした。

「……ん?」

「集まれってことですかね」

「そうみたいだな」

 川瀬主任が立ち上がり、職員に集まるよう、ジェスチャーを送っていた。

 木澤さんと滝野さんが話し込んでしまい、現時点でお風呂に誘うことは難しいと判断したのだろう。


 ――これは……前提が崩れるな。


 浩司はわしゃわしゃと髪の毛を引っ掻き回す。

 木澤さんの入浴は、家族からの強い要望があることと、本人の拒否理由が分からないという前提を踏まえて、『強引に誘うこともやむなし』と判断してきた。

 本人の衛生面や体調面、生活面を考慮し、放って置くことこそが介護放棄――つまり虐待に当たると思ってきた。


 それが、崩れることになる。


 明確に、本人が拒否する理由が分かったのだ。

 そしてその理由は、至極真っ当なものだと言って良い。

 認知症であろうとなかろうと、お風呂で倒れた経験があるのなら、誰だって恐怖を覚えるだろう。トラウマと言っても良いかもしれない。

 それを承知の上で、今までのように力づくでお風呂に入れることは……虐待ではないのだろうか。


 難しいところだった。


「今、皆も聞いていたと思うけど――」

 川瀬主任を中心に、緊急カンファレンスが開かれる。

 まだゴールデンウイーク中である本日、大原ケアマネは不在である。

 ご家族とのやり取りも必要となってくる事案だ。

 ケアマネ不在では決められるコトに限りはある。が、とりあえず、今日、これからどうするのか?

 現場としての判断、対応を決めなければならなかった。

「――」

 皆の意見を聞きつつ。

 浩司は、拒否理由がはっきりして良かったと思うと同時に、頭の片隅で


『駿介が余計なことを言いださなければ……』


 と思ってしまった。


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