虐待の定義ー10
滝野さんは、木澤さんの真正面に正座し首を傾げる。
立ち上がりかけた川瀬主任も、動きを止めた。
滝野さんは不思議そうな表情で語りかける。
「昔、よく一緒に銭湯に行っていたじゃない。確か、お風呂好きだったわよね?」
え? と職員は顔を見合わせた。
木澤さんがお風呂好きだったなんて、聞いたことがない。
完全に初耳だった。
一方、問いかけられた木澤さんは、こんなことを言う。
「お前さん、覚えてないんかね? 一度、風呂に入っている間に倒れて救急車で運ばれたねっか」
これもまた、え、と職員は顔を見合わせる。
木澤さんが、入浴中に倒れて救急車で運ばれた……?
本人どころか家族からも、そんな話は聞いたことがない。
事実なのだろうか。
「もう何十年も前だけど、お前さんもいたでしょ? お風呂場で倒れて、ガツーンと頭を打って、運ばれたんだよ?」
「おばあちゃんが?」
「そうだて! 覚えてないの?」
「そうだったかしらね……?」
うーんと滝野さんは眉を寄せるが、木澤さんの話は具体的で、とても嘘をついているようには見えない。
そのまま話を聞いていると、木澤さんは病院の名前や、診断結果まで詳細に記憶しており、一つ一つ、丁寧に説明していた。
これまで、何度尋ねてもはっきりしなかった『拒否理由』が、意外な形で表出した。
「コージさん、本当なんですか?」
「分からん」
駿介から問いかけられるが、浩司も頭を捻るしかない。
滝野さんという長年の友人から問いかけられたことで、忘れていた記憶が呼び戻されたのか、それとも単に、見ず知らずの人間には話したくなくて、隠していたのか……。
それは分からない。
ただ、辻褄は合うことは確かだ。
木澤さんは、『何十年も前』と言っている。
もしそれが、美智子さんを始め、ご家族が生まれる前の話だとすれば、誰も知らなくて不思議ではない。
それに、それだけ昔の話となれば、当時、木澤さんを診察した医師も引退しているだろうし、病院のカルテに残っているかも怪しいところだ。
なにより木澤さんは、毎回のように、体調不良を理由に拒否している。
それはひょっとしたら、『入浴中に倒れた』という経験から、『自分の体調が良い時でなければ入りたくない』、という意思の表れだったのかもしれない。
何十年も前、若い時ですら倒れてしまったのだとすれば――。
その時より、確実に体調が悪い今、同じことを繰り返さないよう警戒し、お風呂を嫌がるのは当たり前のことのような気がした。
「……ん?」
「集まれってことですかね」
「そうみたいだな」
川瀬主任が立ち上がり、職員に集まるよう、ジェスチャーを送っていた。
木澤さんと滝野さんが話し込んでしまい、現時点でお風呂に誘うことは難しいと判断したのだろう。
――これは……前提が崩れるな。
浩司はわしゃわしゃと髪の毛を引っ掻き回す。
木澤さんの入浴は、家族からの強い要望があることと、本人の拒否理由が分からないという前提を踏まえて、『強引に誘うこともやむなし』と判断してきた。
本人の衛生面や体調面、生活面を考慮し、放って置くことこそが介護放棄――つまり虐待に当たると思ってきた。
それが、崩れることになる。
明確に、本人が拒否する理由が分かったのだ。
そしてその理由は、至極真っ当なものだと言って良い。
認知症であろうとなかろうと、お風呂で倒れた経験があるのなら、誰だって恐怖を覚えるだろう。トラウマと言っても良いかもしれない。
それを承知の上で、今までのように力づくでお風呂に入れることは……虐待ではないのだろうか。
難しいところだった。
「今、皆も聞いていたと思うけど――」
川瀬主任を中心に、緊急カンファレンスが開かれる。
まだゴールデンウイーク中である本日、大原ケアマネは不在である。
ご家族とのやり取りも必要となってくる事案だ。
ケアマネ不在では決められるコトに限りはある。が、とりあえず、今日、これからどうするのか?
現場としての判断、対応を決めなければならなかった。
「――」
皆の意見を聞きつつ。
浩司は、拒否理由がはっきりして良かったと思うと同時に、頭の片隅で
『駿介が余計なことを言いださなければ……』
と思ってしまった。




