虐待の定義ー9
川瀬主任は滝野さんを促し、二人で畳場へと足を踏み入れる。
「木澤さ――」
「風呂なんか入らんて!」
滝野さん同様、こちらも相変わらずだった。
滝野さんとの会話が聞こえていたのか、それとも川瀬主任が入浴着を着用していたからか。
木澤さんは川瀬主任に声をかけられた瞬間、いつも通りの拒否を始めた。
「木澤さん、そう仰らずに……」
「他の人を誘えばいいねっか!」
「誘いましたよ。他の方は皆さん入られましたよ」
「嘘つくなて!」
川瀬主任は言葉を重ねるが、取り付く島もない。
大声を出し、表情がどんどん険しくなっていく。周囲から注目を浴びてもお構いなしだ。
川瀬主任は苦い表情をしつつ、木澤さんの隣にしゃがみ込む。
「木澤さん、今日は滝野さんと一緒に入りませんか? 滝野さんも、木澤さんと一緒に入りたいそうですよ」
「……滝野さん?」
木澤さんはそこでようやく、川瀬主任のそばに立つ滝野さんに気付いたようだった。
滝野さんはぺこりと綺麗にお辞儀をして、「一緒に入ってきませんか?」と優しく言葉をかける。
「お前さんもお風呂なの?」
「ええ、そうよ」
「……」
滝野さんの登場でなにを思ったのか、木澤さんは視線を宙に動かし、しばし黙り込んだ。
これまで、誰がどのように誘っても、木澤さんの入浴拒否が穏やかになった試しはない。赤の他人である職員ではなく、仲の良い人が近くにいることで、かなり反応が変わるようだった。
「一緒にどうかしら? 入りましょうよ」
滝野さんも、川瀬主任にならって腰を下ろし、木澤さんを誘う。
意識して行ったわけではないだろうが、ファインプレーだ。
川瀬主任も滝野さんの言葉に乗っかり、さらに声をかける。
「木澤さん、滝野さんもこう言っておられることですし、いかがですか? 熱いお湯を用意していますよ」
「そうよ。さっぱりするわよ」
「……」
黙ったままの木澤さんを、職員一同、固唾をのんで見守る。
これですんなり入ってもらえるなら、木澤さんの入浴対応が劇的に改善される。
毎回毎回、唾を飛ばされたり、爪を立てられたりする心配もなくなる。
木澤さん本人にとっても、職員にとっても、とても楽になる。
果たして、木澤さんの反応は――。
「……お前さんたちで入って来いて」
木澤さんはたっぷり十数秒間、迷った末、それでも首を縦に振らなかった。
川瀬主任は重ねて声をかけるが、「具合が悪い」、「今日は勘弁してくんなせ」と、木澤さんの態度は変わらなかった。
滝野さんがそばにいることが気にかかるのか、普段より拒否の姿勢は柔らかくなっているものの、最終的な結論に変化はなかった。
「……」
「……」
川瀬主任から浩司へ、そして冴香へ、視線が回る。
――やっぱり駄目か。
三人はほぼ同じタイミングでため息を吐く。
期待していなかったわけではない。
今まで、声かけの方法ばかりを重点的に考えていて、『誘う方法』を変えたことはなかった。別の御利用者と一緒にお風呂に入らないか、と誘ったことなど一度もなかった。
ひょっとしたら……とは思っていた。
反面。無理だろう、とも思っていた。
あれほど強硬に拒否する木澤さんが、そんな簡単に「分かった」と言うわけがない。
浩司は、『新人である駿介の意見を尊重するために』、今回の提案が受け入れられ、やってみようという流れになったとすら思っていた。
この程度のことで木澤さんが変わるなら苦労はない。
無理なものは無理だ。
と、諦めかけたその時だった。
「おばあちゃん、どうしてそんなにお風呂が嫌いなの?」
そんな声が耳に届いた。




