虐待の定義ー7
「待て待て。そう結論を急ぐな」
ところが。
同じ時間を過ごしてきたはずの川瀬主任の意見は違った。
川瀬主任はこの場にいる全員へ視線を送る。
「そうやって、やることはやったと思い込んで、諦めてきた結果が今だろ? そしてそれは、新しく入って来た護人君から見ると、虐待に近い状態だった、というわけだ。先輩後輩は関係なく、客観的に見た時に、誰もが納得できる介護を目指すべきだよ」
違うか、と問いかけられる。
「……いえ」
「……そうですね」
浩司も冴香も、たった一度の発言で黙らせられた。
御利用者本位の対義語として、『職員本位』という言葉がある。
御利用者本位が、御利用者に合わせた介護であるのに対して、職員本位とは、職員がどうしたいのか、という意思のもと、行われてしまう介護だ。
川瀬主任が指摘しているのは、『いろいろやってみたけどダメだった』という大義名分のもと、職員本位で介護が行われていたのではないか、ということだろう。
現場職員とは別視点で参加している大原も、川瀬主任の言葉に大きく頷いていた。
「主任、一ついいですか」
冴香がまた、手をあげる。
「結論を急ぐな、というのは分かりましたが……だとしても、いろいろやってみた結果であることには変わりないですよね。なにか、新しいアイディアがなければ変化はありませんよ?」
「あー。まあ、それはそうなんだがな。それを話し合いたいんだが……」
そう言って、川瀬主任は黒縁眼鏡を押し上げる。
川瀬主任らしくない、はっきりとしない物言いだった。
そもそも、再考を促している川瀬主任本人ですら、上手い方法が見つからないから今の状況になっているのだ。職員本位だと警鐘を鳴らしている川瀬主任当人とて、そう簡単に解決策が見つかるとは思っていないだろう。
新人の意見を大切にしたいのか、それとも他に理由があるのか、『カンファをしよう』と言い出した川瀬主任の意図がよく分からなかった。
「……」
「……」
議論が停滞する。
新しいアイディアを求めた冴香はもちろん、浩司も、今更、言うことなどない。
川瀬主任も、結論を急ぐなという割には、なんだかはっきりしないまま、黙り込んでしまった。
お互いがお互いを探り合っているかのような、妙な空気だった。
さらに数秒が経過して――。
結局、川瀬主任が口を開く。
「護人君は、なにか意見あるかな?」
話を振られたのは、駿介だった。
カンファレンスが始まってから、彼は相づちしか打っていない。
経緯はどうあれ、事の発端を作っているのは駿介だ。
意見の一つや二つ出して欲しいところだった。
「先輩たちに遠慮することはないぞ。率直な意見を聞かせてくれ」
川瀬主任は駿介の立場に配慮し、柔らかい声音で言う。
「えっと――」
注目が集まる中、駿介は慎重に言葉を選び、言った。
「例えば気分を変えて、温泉に行くとか……どうですかね?」
◆◇◆
午前十時。
ふれあい西家のフロアにはコーヒーの香りが漂っていた。
本日、浩司はフロアリーダー、駿介はその補佐という立場だ。
「彩峰さん、護人さん、どうぞ」
「ん、ありがとう」
「ありがとうございます!」
わざわざ小さなお盆に乗せて、一つ一つ運んでくれるあたり、好感度が高い。
カップを持ってきてくれた冴香にお礼を言い、早速、口をつける。
「――て、甘いな!」
口に含んだコーヒーは、たっぷりと砂糖が入れられていた。
ミルクは入っていないようだが、なんの嫌がらせだろうか。
浩司が甘い飲み物を好まないことは、冴香なら重々承知しているはずだ。
「……硯さん?」
「えーっと。疲れた時は、甘い飲み物の方が良いんですよ?」
「……」
「すみません。普通に間違えました」
無言で睨みつけると、彼女は空気を読んでぺこりと謝って来た。
「でも、たまにはブラック以外のコーヒーも飲みましょうよ」
にこにこと愛嬌のある笑顔を向けられる。
「お前な……」
「あはは」
「あははじゃねーよ」
突っ込みつつも、怒る気持ちはどこかへ行ってしまった。
冴香は笑顔のままキッチンへと引っ込み、他の職員にもコーヒーを配り始める。




