虐待の定義ー6
「よし、そろったな。始めるぞ」
川瀬主任が号令をかけ、カンファレンスが開始される。
現在職員はフロア右上に位置する、お風呂場前に集まっている。
本来であればプライバシー保護を考え、フロアから離れて、別の場所へ移動するべきなのだが、移動してしまうとフロアから職員が消えてしまうことになる。
そのためカンファレンスを行う際は、御利用者とある程度距離を取ることができ、同時にフロア内も見ることができる、この場所へ集まることが慣例となっていた。
「まず、現在の状況の確認だが――」
川瀬主任は木澤さんの情報を話し始める。
まだ分からないことが多い駿介のためだろう。
木澤さんの家族から、何故、入浴をお願いされているのか、本人がどの程度、お風呂を嫌がっているのか、一から説明した。
入浴業務を行う際、浩司からも説明していた内容がほとんどだったが、駿介にとっては聞き逃していたことや、再確認できたこともあったのだろう。
駿介は熱心にボールペンを動かしていた。
「――と、そんなところだな」
一通り説明を終えると、川瀬主任は一人の女性職員へ視線を送る。
「大原さんからは、なにかありますか?」
皆の視線が集まる。
肩口で切りそろえられた、やや茶色がかった髪の毛と、切れ長の目が特徴的な女性職員だ。
大原と呼ばれたその女性職員は「一つだけ」と発言する。
「木澤えい子さんに関しては、川瀬主任からの説明で問題ないと思います。ただ一つだけ、付け加えさせてください。……木澤さんのご家族、美智子さんは、お風呂に入ってもらいたくて事業所にお金を払っています。何度もこの話はしているので、知っている職員も多いと思いますが、ご家族はとにかく『お風呂だけでいいから』と強く希望されています。そこは、頭に入れておいてください」
以上です、と言葉を切る。
大原と呼ばれたこの女性職員は、介護職員ではない。
大原友恵ケアマネージャー――。
『ケアマネ』と呼ばれる職種だ。
介護業界において、最も重要な役割を担っていると言っても過言ではない。
介護士――所謂、『現場職員』は、名前の通り御利用者と実際に関わり、介護を行うことが主な仕事だ。
では、ケアマネージャーとはなにか。
ケアマネージャーとは――
御利用者と家族、職員、そして、医療関係者や民生委員、果ては行政とも関わりを持ち、御利用者を多方面からバッグアップする仕事だ。
実際に介護を行うわけではないため、御利用者当人とのつながりは現場職員よりも劣る。しかしその分、家族や医療関係者とも緊密な連携を取っているため、持っている情報量は圧倒的にケアマネージャーの方が上だ。
こうしたカンファレンスなどの場においては、実際に関わっている介護職員と同等か、それ以上に、ケアマネージャーの意見は必要になってくる。
ちなみに、管理者やケアマネージャーなどの事務方職員は、本来、土日、祝日は休みである。
今日はたまたま、新規契約の御利用者がいるとかで、大原ケアマネージャーは出勤していた。
「大原さん、確認なんですけど」
はい、と冴香が手をあげる。
「木澤さんがどうしてお風呂を拒否しているのかについて、新しい情報はないですよね?」
「ありません。契約時から、ご家族とはその話をしていますが、娘さんだけでなく、他の誰に聞いても分からないそうです」
大原は即答した。
ケアマネの大きな役割として、ご家族との『情報交換』がある。
ケアマネは最低でも月に一度、ご家族と腰を据えて、じっくり話し合いを行う場を設けている。
そのケアマネが知らないというのだから、それは事実なのだろう。
「そうなると、あとは現場で探っていくしかないですよね」
冴香は丸っこい目を浩司に向けて来る。
彼女は、『早く終わらせましょう』と目で語っていた。
浩司もその意見には賛成だった。
乗ることとする。
「そうは言っても、現場で考えられる方法は試して来ましたよね。どう声をかけたら良いか、これまでもかなり工夫しましたし、拒否についても、本人から聞きだせることはないか、探ってきましたよね。現場で考えると言っても、これ以上、なにかできることはありますか?」
浩司は川瀬主任へと視線を向ける。
駿介は明らかに不満そうな表情になったが、気にしなかった。
事実として、これまでも試行錯誤を繰り返しているのだ。
本人の機嫌を見て、午前に誘った方が良いのか、午後の方が良いのか、皆で検討し合ったり、「お風呂に入りましょう」と言ってしまうと、その言葉に拒否反応を示すため、お風呂ということは隠して「体重を測らせてください」とお風呂場まで誘導してみたり。
それでも意味がなかったから、今がある。
駿介は、その経緯を知らないから簡単に『虐待ではないのか』と意見して来るのだ。
浩司や冴香にとって、それが気に入らなかった。




