虐待の定義-3
木澤さんの言葉が正しいのなら、ここで諦める。
もし本当に、きちんと毎日洗濯をしていて、家に帰ったらお風呂に入るというのなら、浩司も冴香も無理強いはしない。
でも――。
二人は知っている。
木澤さんは、洗濯など全くしていない。
部屋や衣類を掃除しているのは、娘の美智子さんだ。
木澤さんが事業所に来ている間に行うことになっている。
そして、本人は「家でお風呂に入っている」と言うけれど、お風呂嫌いの木澤さんが自宅で入っているわけがない。
美智子さんにも確認済みだ。
要は、木澤さんの言ったことは、口から出まかせの『お風呂に入らないための嘘』だ。
「……」
浩司と冴香は視線を合わせ、意思疎通を図る。
――仕方ない。強引に行こう。
阿吽の呼吸だった。
木澤さんはふれあい西家を利用し始めて、既に二年以上が経過している。
こうなった時の対処方法は、共通認識として周知、徹底されている。
息の合う浩司と冴香なら、なおのこと、タイミングは合わせられる。
「……」
呼吸を合わせて。
動く。
「木澤さん、じゃあお風呂に入らなくてもいいです。着替えだけでもいいので、早く行ってきましょう!」
「そうですよ。こんなことを話している間に、すぐに終わりますよ」
言いつつ、浩司は右側、冴香は左側から、木澤さんの手を握る。
さらに、もう片方の手を木澤さんの脇の下へ潜り込ませる。
「なにするんだて!」
いきなり体に触れられた形となった木澤さんは、猛烈に抵抗してくる。
体をよじり、手をばたつかせ、二人の拘束を外そうとする。
もちろん離したりはしない。
両サイドからがっちりとホールドし、逃がさない。
「今行けば、もう帰る時間になりますよ!」
「さっぱりして帰りましょう!」
二人は木澤さんの手と脇の下を抑えたまま、息を合わせて「よいしょ」と立ち上がる。
「うわ!」
若い人間に抱えられ、木澤さんの体はふわりと宙に浮く。
地面に足がついた時には、立ち上がった体勢になっている。
「お前さんたち! 何をしているか分かってるんだかね!?」
強制的に起立させられた木澤さんは、強引な方法に激昂する。
怒りを通り越して、人を殺しそうな勢いで怒声をあげ始める。
「警察を呼びますよ!」
木澤さんは出来うる限り、最大限の抵抗をしてくる。
両足に力を入れ、一歩も動くまいと踏ん張り、拘束をなんとか振りほどこうと上半身を捻る。
その上、
「ぶっ!」
唾を吐きかけて来た。
浩司の顔面に、ねちょっとした唾が張り付く。
気持ち悪い。
が、そんなことは気にしない。
「はいはいはい、行きますよ!」
唾をかけられる程度のコトは、四年の介護士生活で慣れきっている。
浩司と冴香は文字通り、木澤さんを引きずって畳場からお風呂場へと移動を開始する。
「このっ!」
木澤さんの抵抗は止まらない。
意地でも阻止しようと、足をひっかけてきたり、爪を立ててきたりと、大騒ぎだ。
「木澤さん、危ないですよ!」
「転んだら大怪我しますよ!」
冴香と二人、怪我をさせないよう、慎重に――かつ、絶対に離さないよう、木澤さんを引っ張っていく。
木澤さんも必死だろうが、こちらも必死だ。
「いい加減にしなさい! 訴えますよ!」
「いくらでも訴えていいので、来てください!」
脛を蹴られ、腕に爪痕を残され、髪の毛を引っ張られ、胸倉を掴まれ……。
散々な目に合って。
ようやく、お風呂場へ到着する。
「あなたたち、覚えておきなさい!」
木澤さんは吐き捨てるようにそう言って、脱衣場にある長椅子へ腰を下ろす。
ここまで来てやっと、諦めてくれたようだった。
「彩峰さん、私が入れますね」
「了解」
とはいえ、まだ安心はできない。
何度も脱衣所から脱走してくる光景を目にしている。
いつ、また火がつくか分かったものではない。
駿介に任せるには荷が重いだろう。
「無理そうだったら、すぐ呼んで」
「分かりました」
冴香に任せ、浩司は脱衣所を出る。
「……」
浩司は乱れたユニフォームを整え、脱衣所の扉を見つめる。
この一連のやり取りをどうにかしたい、という気持ちはある。
もっと上手く、スムーズに終えられるなら、そうしたい――。
職員の誰もがそう思いつつ、しかし、誰にも、どうすることもできない。
超一流の大ベテランである川瀬主任ですら、諦めているのだ。
浩司がちょっと考えた程度で妙案が浮かぶとも思えなかった。




