虐待の定義ー2
木澤さんは、入浴を目的に利用している。
木澤家にハナ子という犬がいることは周知の事実だが、この犬がよろしくないのだ。
木澤えい子さんは大の犬好きで、自宅にいる間はほとんど犬と一緒に過ごしている。家族からすれば、衛生面が気になるのは当然のことだろう。
特にハナ子は、抜け毛が多いとされる犬種、コーギーだ。
そんな犬と四六時中ずっと一緒にいたら、部屋や衣類がどのような状態になるか、想像に難くない。
「行くか」
「はい」
冴香とともに、畳場へと足を向ける。
木澤さんは駿介でなくても、一人で誘うのは無理がある。
二人、三人がかりで挑まなければならない。
……正直に言えば。
強硬に拒否する御利用者を、無理やり誘いたくはない。
放って置いて良いのなら放って置く。本人にとっても、介護士にとっても、そちらの方が楽だ。
しかし、家族から『どうしても』とお願いされているのだ。
一週間に一度でもいいから、お風呂に入って欲しい――。
犬と共に生活している家族にとって、それは切実な願いだろう。
家族では手に負えないことを、介護の専門家として叶えることも、介護士の仕事の一つだ。
「木澤さん、失礼します」
「お隣失礼します」
冴香と並び、浩司は木澤さんの隣に腰を下ろす。
駿介には席を外してもらうよう、目線で合図を送る。
彼は、同じく目線で「すみません」と言って、離れていく。
「なんですかあなたたちは! 誰が来ても入りませんよ!」
木澤さんは浩司たちが用件を言う前に、既に拒絶体勢に入っていた。
これは、骨が折れそうだった。
「まだ何も言っていませんよ」
浩司は正面に、冴香は木澤さんの左隣に陣取る。
木澤さんは真っ白な髪の毛をヘアピンで留め、淡い緑色のストールを身にまとっている。手首を見れば、薄紫色のブレスレットをしており、一見、お洒落なおばあちゃんに見える。
けれど、そのストールには犬の毛が数えきれないほど付いており、着用している衣類からは、獣臭が漂っている。
近寄りたくない、とすら思ってしまう。
家族から『どうしても』と言われるのも納得だった。
「今日は風邪気味だから、入りません!」
木澤さんは風邪をひいていると訴えてくる。
これまで幾度となく行われた、壮絶な『入浴合戦』を覚えているのだろう。重度の認知症を患っているというのに、職員が来ると、お風呂に誘いに来た、と察するようになっている。
いったいなにがそうさせるのか……。
「木澤さん、どこの具合が悪いのですか?」
とりあえず、嘘だと分かっていても、尋ねてみる。
「朝から鼻水が出るんだて」
と木澤さん。
そんな様子は全く見られていない。
「それに、喉も痛い気がして……」
続けて、わざとらしく咳払いをする。
これも、嘘だろう。
もし、本当に喉が痛いとか、咳が出るとか、そういう症状があるのなら、先ほどから大声で怒鳴り散らしているのはどういうことなのか。
具合が悪いのなら、それ相応の態度を取れという話だ。
「木澤さん、でも、朝来た時に、熱も血圧も計っていますけど、どちらも問題ありませんよ。湯舟にゆっくり浸かって、体を冷やさないようにすれば大丈夫だと思いますよ」
浩司は木澤さんの大声に合わせず、ゆっくりと落ち着いた声音で話しかける。
『鼻水なんて出ていない』、『喉がいたいなら大きな声なんて出ない』と否定すれば逆効果だ。
木澤さんの言葉を否定するのではなく、少し角度を変えて、説得を試みる。
「そうですよ。それに、服にハナ子ちゃんの毛が沢山ついていますし、変えてきませんか?」
冴香からも、援護が入る。
体調面に気が向いている木澤さんの意識を、少しでも別の方向に逸らそうということだろう。
ナイス機転だ。
浩司もその話に乗る。
「木澤さん、いつもお洒落にしてるじゃないですか。たまにはお風呂に入って、新しい服に着替えるのも良いんじゃないですか?」
「それが良いですよ! 私も犬を飼っているので分かりますけど、やっぱり、夏場に向かうこの時期って、抜け毛が増えてきますからね。着替えてきましょう?」
二方向から、畳みかけるように説得を続ける。
それぞれが、それぞれに言葉を尽くす。
笑顔を絶やさず、相手を褒めて持ち上げて、その上で、『お願い』する。
気難しい御利用者への対処方法の一つだ。
対し、木澤さんはというと。
「いいて! 洗濯は毎日しているし、今日も家に帰ったらするから! お風呂も家で入ります。別にお前さんたちに迷惑はかけてないんだから、放って置いてよ。……かまわないでください!」
納得するどころか、語気がさらに強くなる。




