犬と後輩ー6
「まーでも」
彼女は、自身が頼んだカプチーノに口をつける。
ごくりと喉が動いた。
冴香は唇についた泡をぺろりと舐めとり、続ける。
「私は、そういうところも含めて、彼の長所かなと思いますよ。一生懸命なのが分かるからこそ、今日みたいなことが起こっても、笑い話にできるじゃないですか。もし今日の一件が、凄く態度の悪い新人が起こしたものだったら……どうだったでしょうね?」
「それは――」
反射的に反論しかけて。
「いや、そうかもな」
反論の言葉が見当たらず、黙る。
今日、駿介が起こした騒動は、結果的にお咎めなしで終わったけれど、細かく見れば、彼にも不注意だった部分はある。
美智子さんがどういう態度だったにしろ、頑として引き下がらず、毅然とした態度でいればどうだっただろうか。
犬が動くことを想定し、スマホの扱いをもっと慎重にしていればどうだっただろうか。
地理に疎いことだって、最初から自分で把握できていただろう。道に迷うことも、住民の方に迷惑をかけることもなかったはずだ。
そういった、駿介の落ち度は、
彼が、普段から一生懸命で、悪気がなかったと断言できるから、流された。
それはある意味、長所なのだろう。
「でもなー」
「なんですか?」
「いや……なんというか……」
浩司は言葉を濁した。
冴香の言うことは正しい。
駿介の性格をプラスに捉えて、明るく接することができれば、お互いにとって良いことなのだろう。
そうは思うのだが……。
割り切れない部分もあった。
どんなに言葉を重ねてプラスに捉えても、騒動を起こしたのは事実だ。今日だって、あんなことがなければもっとスムーズに業務が終わっていた。
もやもやとした感情が渦巻いてしまう。
「……」
黙ってしまった浩司がどう見えたのか。
冴香はテーブルの上に置いてあったスティックシュガーを一つ取り――
「おい、ちょっと待て」
突然、浩司の飲んでいたコーヒーに入れようとしてきた。
「いやー、たまには甘い飲み物もどうかなと思って?」
「俺が甘い飲み物嫌いなの知ってるだろ」
「知ってますよ?」
「おい」
睨みつける。
が、冴香は意に介さない。
それどころか、浩司の手を避けて、なおも砂糖を突き出してくる。
「お前な」
「あはは」
「あははじゃねーよ。なにがしたいんだよ」
冴香はそんな、ふざけたやり取りをしながら。
「彩峰さん、相変わらず、真面目ですね」
そんなことを言う。
「は? どこが?」
冴香の砂糖攻撃を阻止しながら問いかける。
「どこがって……。自覚してないんですか?」
「してない。どちらかと言えば、不真面目な方だと思ってるが?」
「あらま。そうですか」
「そうだよ」
答えると、冴香はようやく砂糖攻撃をやめる。
そして大袈裟なほど、やれやれと肩をすくめてみせる。
「どういうことだよ?」
いい加減、訳の分からない言動に腹が立ってくる。
説明を求める。
と、冴香はけろりとした表情で言う。
「今年度で辞めると言っている人の態度に見えないだけですよ」
「はあ?」
「いやいや。はあ? ではなくてですね」
コホン、と咳払いを一つ。
冴香はくりっとした目をこちらに向けて来る。
「もし、本当に辞めるつもりでいるのなら、後進育成を任されたとしても、必要最低限のことだけを教えて、あとは放って置けばいいじゃないですか。来年には、自分と関係のなくなることですし」
冴香はなんのためらいもなく、そんなことを口にする。
浩司はすぐさま反論する。
「それは無責任だろ。将来、自分と関係がなくなるとしても、それとこれとは話が違う。特に、指導を受ける新人にとっては、どんな指導を受けるかによって、人生が左右されるだろ? そんなことはできな――」
「だから、それですよ」
浩司の言葉を遮り、冴香は指摘する。
ふわふわのカプチーノに口をつけ、ごくりと一口。
満足そうに息を吐き、冴香は言う。
「護人さんの熱血な感じも大概ですけど。彩峰さんも、もう少し、肩の力を抜いて良いと思いますよ」
冴香はさらにもう一度、カプチーノを口へ運んだ。
「……」
つられるように、浩司も自身のコーヒーに一口飲む。
なにか、言い返そうとしたけれど、上手い言葉が見つからなかった。
コーヒーの独特の酸味が、口の中いっぱいに広がった。
――肩の力を抜く、か。
冴香の言葉を反芻する。
彼女の言いたいことは、理解できる。
冴香は、意外とテキトーなのだ。
場の空気を読むことに長けており、誰とでも仲良くなれる彼女は、そうであるが故に、責任から逃れる術も身に付けている。
要は、世渡り上手なのだ。
そんな彼女からすれば、今の浩司は不器用に映るのだろう。
今年度で辞めると言いながら、本気で後進育成に取り組み、後輩へ愚痴をこぼしているのだ。
浩司からすれば、経緯はどうあれ、引き受けた以上はきちんと仕事をこなすべき、と思うのだが……きっと、彼女が言いたいことは、そういう意味ではないはずだ。
無責任になれ、ということではなく。
言葉通り、肩の力を抜け、ということなのだろう。
「それと、一つ確認したかったんですけど」
「ん?」
「彩峰さんが辞める予定でいるコト、まだ護人さんには伝えてないですよね?」
「……ああ」
歯切れの悪い返答に、冴香は苦笑しながら「分かりました」と頷く。
彼女にしてみれば、こういうところも、不器用に映るのだろう。
「遅くならないうちに、伝えておいた方が良いと思いますよ」
「それは分かってる」
「私からこっそり伝えても良いですけど?」
「……気持ちだけ、ありがたくもらっておくよ」
その申し出は、やんわりと断っておく。
駿介の指導に就いてから、それをいつ言うべきか、ずっと悩んでいる。
自分の指導担当が辞めると聞けば、誰だって『何故?』と思うだろう。
その時、なんと答えれば良いのか、浩司には分からなかった。
はぐらかすべきか、それとも、素直に給与面と答えるべきか。
介護に夢見る駿介が相手だからこそ、慎重に考えたかった。
「ごちそうさまでした」
冴香がカプチーノを飲み干す。
浩司も自身のコーヒーを飲み込んで。
「じゃ、お開きにするか」
「はい」
そろって席を立つ。
特段、決めているわけではなかったが、どちらかのカップが空になったら解散、という流れが出来ている。
あくまで『良き先輩後輩』の仲であると、互いに意識するための線引きのようなものだった。
少なくとも、浩司はそう思っている。
「お疲れ様でした」
「はい。また明日から、頑張りましょう」
「おう」
会計を済ませて、二人は分かれる。
その頃には、浩司の頭の中は、明日からのことでいっぱいになっていた。




