犬と後輩ー4
「……」
無茶苦茶だった。
横暴過ぎる。
「え、どうしてこうなった?」
あの様子では、もう一度出てきてもらったとしても、こちらの言葉など聞いてもらえないだろう。
「どうしよう?」
途方に暮れる。
大人しく、散歩をするしかないのだろうか。
「て、おい!」
整理がつかないうちに、お犬様は歩き始めようとする。
鼻息荒く、尻尾を振りまくっている。
「ハナ子、だったか? ちょっと待て」
駿介はぐいっとリードを引き、無理やり動きを止める。
首元が締め付けられる形になり、ハナ子は露骨に嫌そうな顔をしたが、仕方ない。
『なにか困ったことがあったら、先輩に指示を仰げ』
浩司に何度も言われてきた言葉を思い出す。
木澤さんの家を離れる前に、まず、連絡をしなければならない。
美智子さんの言う通り、一時間散歩をするとしても、そのことを事業所へ報告する必要がある。
必要以上に時間がかかれば、先輩方に迷惑がかかってしまう。
「えっと」
ポケットからスマホを取り出す。
送迎や訪問時、緊急の要件が発生した場合に備えて貸与される、事業所のものだ。
「ふれあい西家は……っと」
自分のものでないが故に、操作に時間がかかる。
登録されているのは、和田管理者の個人携帯と、事業所の番号。それから、法人上層部へも連絡できるようになっていた。
駿介は片手でリードを、片手でスマホを持ち、発信ボタンを――
「っとお!?」
発信ボタンを、押そうとしたところで。
ハナ子がまた、急に動き出した。
とてとてと可愛らしい動作ながら、力強い。
次の瞬間、
手からスマホが滑り落ちた。
「あっ!」
しまったと思った時にはもう遅かった。
途中で食い止めようと手足をばたつかせるが、触れることはかなわなかった。
長身の駿介だったからか、それとも単に不運なだけか。
スマホはコンクリートの地面に叩きつけられ、
バン!
そんな音が響いた。
鮮やか、と言っても良かった。
体操選手が空中で何回転もするように、スマホはくるくると舞い――思い切り、画面側から落下した。
「………………」
これほど、スマホの画面を見たくないと思ったことはない。
駿介は呆然とその場に佇む。
目線の端で、ハナ子がこちらを見ていた。
動かなくなった駿介を見て、「どうかした?」とでも言うように、つぶらな瞳を向けてきていた。
「お前な」
犬に怒ってもしょうがない。
しっかりと持っていなかった自分も悪い。
それは分かるのだが、恨めしい気持ちが勝ってしまう。
じろりとハナ子を睨みつけ、駿介はようやく、しゃがみ込む。
どうか割れていませんようにと願いながら、スマホを手に取り、画面側を見て――。
「あああああああああああ~~~~~~~~~」
落胆の声が漏れる。
画面にひびが入っていた。
いや、ひびが入っていた、などという生易しいものではない。
バキバキである。
「……」
何度か画面をタップしてみるが、全く反応がない。
完全に、壊れてしまっていた。
「どうしよう?」
駿介は泣きそうになりながらポケットにスマホをしまう。
とにかく、なんとかして事業所に連絡を入れなければ、と思うが、連絡手段がない。
まさか、御利用者の家に上がり込んで、電話を貸してくださいと頼むわけにもいかない。
「――あっ、っと! おい、ハナ子!!」
考えている間にも、ハナ子は身勝手に歩き出す。
リードをぐいぐいと引っ張り、道路へ飛び出そうとする。
犬とはいえ、御利用者の大事な家族である。
手荒に扱うこともできない。
「……散歩、行くか?」
こんな状態では、まともに考えをまとめることもできない。
とりあえず一時間、その辺を回ってくれば、任務は達成するのだ。
事業所の先輩方には心配をかけてしまうけれど、事故があったわけでもなければ、誰かが怪我をしたわけでもない。
十中八九、怒られるだろうが、もはやどうしようもない。
――なるべく早く終わらせよう……。
真っ白になった頭でそれだけを考え、ハナ子の隣に並ぶ。
がっくりとうな垂れる駿介とは対照的に、ハナ子はぶんぶんと尻尾を振る。
「ほら、行くぞ」
もうどうにでもなれ、と駿介はリードを引いた。
……この辺りの道に詳しくないことを思い出したのは、路地裏に迷い込んでからだった。
◆◇◆
〈――ということです。ちなみに今は、通りかかった住民の方からスマホを借りています〉
「……」
経緯を聞き終えた浩司は、額をおさえ黙り込む。
なんと言ってみようもない、微妙な気持ちになった。
隣で話を聞いていた冴香は、口元をおさえ、必死に笑いを堪えていた。
川瀬主任も苦笑いで「ある意味、才能だな」とか呟いている。
きちんと分析するならば。
まず、木澤さんの娘さん――美智子さんに非がある。
介護職員は雑用係じゃない。
犬の散歩を頼む時点で間違っている。
しかも、駿介が了承していないのに、無理やりリードを押し付けたというのだから、間違っているどころか、非常識と言って良い。
受け取ってしまった駿介も駿介だが、状況を聞いている限り、美智子さんの方に非があるのは明らかだ。
まあ、その後の、スマホを落としたとか道に迷ったとか、そのあたりの件に関しては、なんと言ってみようもないけれど。
「えーっと」
浩司は額をおさえたまま、電話の向こうにいる男へ、言葉を投げかける。
「あれだな。うん。……ドンマイ」
ぶふぅっと、隣にいた冴香が盛大に吹き出した。
他に、なんと声をかければ良いのか、分からなかった。
「コージ、とりあえず、和田さんに報告してくるよ。護人君には、その場を動かないよう、指示しておいてくれ。あと、近くにある建物とか……もし、そのスマホを貸してくださってる方が、住所とか分かるようなら、聞いておいてくれ」
「分かりました」
頷き、駿介へ指示を出す。
何事もなくて良かったと思うべきか、それとも、何をしているのかと咎めるべきか。
浩司は、電話を終えてからも、額に置いた手をなかなか離せなかった。




